小さな約束
春が深まるにつれて、辺境の森はますます賑やかになっていった。
木々には若葉が茂り、花々は競い合うように咲き誇り、
冬の間は静かだった小川も軽やかな音を立てながら流れている。
家の周囲も少しずつ色付いていた。
ミナトが植えた薬草畑は緑で埋まり始め、
春先に植えた果樹の苗も小さな葉を増やしている。
毎朝その様子を見るのがミナトの楽しみだった。
「大きくなってる」
しゃがみ込みながら嬉しそうに呟く。
まだほんの少ししか変わっていない。
昨日と比べても分からないくらいの成長だ。
けれどミナトには分かる。
毎日見ているから。
毎日大切に世話をしているから。
「順調そうだな」
後ろから声がした。
振り返るとフィリックスが立っている。
最近は朝起きると自然に顔を合わせるようになっていた。
最初は傷が治るまでの滞在だったはずなのに、
いつの間にかこの家で暮らすことが当たり前になっている。
ミナトも。
フィリックスも。
もうそのことを不思議には思わなくなっていた。
「うん」
ミナトは笑う。
「もう少ししたら実がなるかもしれない」
「そんなに早いのか」
「これは成長が早い種類だからね」
そう言いながら葉を撫でる。
その仕草は相変わらず優しかった。
植物に向ける眼差しも、人へ向ける眼差しも、何一つ変わらない。
だからフィリックスは時々思う。
もし自分があの日この家へ辿り着いていなかったら。
もし雪の中で倒れたまま息絶えていたら。
この光景を見ることはなかったのだろうと。
そう考えるだけで妙な気持ちになる。
胸の奥がざわつく。
嫌な想像だった。
だから考えるのをやめた。
代わりにミナトへ視線を向ける。
その方がずっといい。
「今日はどうする」
「森へ行こうかなぁ」
即答だった。
フィリックスは少し笑う。
予想通りだった。
ミナトは本当に森が好きだった。
新しい発見があるから。
知らないものに出会えるから。
それだけで楽しそうにする。
L・Oを始めて数年が経っているはずなのに、
その好奇心は少しも薄れていない。
むしろ増しているように見える。
「昨日見つけた場所の続きが気になるんだ」
ミナトが立ち上がる。
茶髪が風に揺れた。
「まだ奥がありそうだったから」
その瞳は期待で輝いていた。
宝探しを前にした子どものようだった。
フィリックスはそんな顔が好きだった。
まだ自覚はしていない。
けれど好きだった。
だから自然と口元が緩む。
「行くか」
「うん」
二人は森へ向かった。
春の森は生命力に溢れている。
鳥が鳴く。
風が吹く。
花が揺れる。
日差しが木漏れ日になって地面へ落ちる。
その全てが美しかった。
ミナトは何度も足を止める。
珍しい花を見つける。
薬草を採取する。
小動物を見つけて微笑む。
本当に楽しそうだった。
フィリックスはその様子を見守りながら歩く。
護衛のつもりだった。
けれど最近は違う。
ただ一緒にいたかった。
同じ景色を見たかった。
同じ時間を過ごしたかった。
それだけだった。
しばらく歩いた頃。
森の奥に小さな湖が現れた。
透き通るような水面。
周囲を囲む花々。
風に揺れる若葉。
まるで隠された楽園だった。
「わぁ……」
ミナトが足を止める。
その声には純粋な感動が滲んでいた。
ゆっくり湖へ近付く。
水面を覗き込む。
そこには空が映っていた。
青空も、雲も、二人の姿も全部。
「綺麗だね」
振り返る。
笑顔だった。
心から嬉しそうな笑顔。
フィリックスは頷く。
「そうだな」
だが、彼が見ていたのは湖ではなかった。
春の光を受けて微笑むミナトだった。
そのことに自分でも気付いてしまう。
そして少しだけ困る。
最近こういうことが増えていた。
気付けば見ている。
気付けば探している。
気付けば安心している。
理由は分かっていた。
認めたくなかっただけで。
「フィリ?」
不思議そうな声がする。
ミナトがこちらを見ていた。
フィリックスは慌てて視線を逸らす。
「なんでもない」
「そう?」
「そうだ」
ミナトは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
その優しさに少し救われる。
もし問い詰められていたら答えられなかった。
まだ言葉にできないから。
まだ整理できていないから。
帰り道。
二人は湖の近くで見つけた大きな木の下へ座って休憩した。
穏やかな風が吹く。
葉擦れの音が心地良い。
ミナトは空を見上げながら小さく笑った。
「来年も来たいな」
「ここにか」
「うん」
嬉しそうに頷く。
「この木も見たいし」
「湖も綺麗だったし」
「その頃には果樹も育ってるかもしれないし」
未来の話だった。
来年の春。
再来年の春。
その先の話。
ミナトは当たり前のように口にする。
フィリックスはその横顔を見つめた。
そして静かに思う。
来年も。
再来年も。
その先も。
隣にいたい、と。
「じゃあ約束ね」
ミナトが笑う。
「来年も一緒に来よう」
あまりにも自然な言葉だった。
何気ない約束だった。
けれどフィリックスにとっては違った。
胸の奥へ大切にしまいたくなるほど。
眩しい約束だった。
「ああ」
短く答える。
けれどその声は驚くほど優しかった。
春の風が吹き抜ける。
木々が揺れる。
若葉が踊る。
そして二人はまだ知らない。
その何気ない約束が。
いつかフィリックスにとって、何より大切で何より苦しい記憶になることを。
まだ知らなかった。




