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第4話 この狂犬の牙を借りて、私は復讐を始める

 声は震えなかった。

 泥の上の男が、ほんのわずかに肩を揺らした。


 王子の視線が、その男へ流れる。

 その少し後ろにも、もう一人。護衛に腕をねじ上げられた男が、青い顔で膝をついていた。


「証拠は」


「あります」


 私は革の書類入れを開き、王族護送契約書を取り出した。


「ベルクレール家が預かる王族護送契約です。護衛を減らし、道を変える。この契約を使って、あなたを死地へ送ろうとしている」


 指を失った男の身体が、小さく揺れた。

 王子の視線が、紙に落ちる。灰色の瞳が、刃のように細められた。


「本物には見える。だが、なぜベルクレールの令嬢がそれを俺のところへ持ってきた」


「そうしなければ、私が殺されるからです」


 護衛たちがざわめく。

 王子の目だけが、少しも揺れなかった。


「続けろ」


「私は、今日この契約書に署名させられそうになりました。署名すれば、あなたはこの契約で死ぬ。私は王子殺しとして処刑される。そして父たちは、私の名を使ってすべてを終わらせる」


「なぜ、そこまで言い切れる」


「《真約の瞳》が見ました」


 死に戻ったからです。

 そう言えば、この場は一気に面倒になる。


 狂人扱いされるか、預言者扱いされるか。

 どちらも今の私には邪魔だった。


 だから、嘘はつかない。ただ、全部は言わない。


 レオンハルト王子の目が、わずかに細くなる。


「ベルクレールにまだ残っていたのか」


「母から受け継ぎました」


「なら、その目で何を見た」


 私は契約書の余白に指を置いた。


「道の変更、護衛数の調整、中継宿の指定。契約の表面は護送の手続きです。けれど裏に、父が誰かへ金を渡す映像が見えました。あなたを守るためではない。あなたを襲いやすい場所へ運ぶための契約です」


 泥の上の男が、はっきり震えた。


 その時、宿の中から護衛が戻ってくる。


「殿下。裏の部屋から金貨の袋が出ました」


 男の肩が、びくりと跳ねた。

 レオンハルト王子の剣が、わずかに上がる。


「何か思い出したか」


 男が激しく首をふる。


「指では足りなかったか。次は腕だ」


「次の中継宿です!」


 男は悲鳴のように叫んだ。


「王族の馬車が裏口側につくように、部屋と馬房を押さえろと!」


 護衛たちの空気が変わった。

 疑いが、契約書と男へ移っていく。


 レオンハルト王子は、ようやく契約書を受け取った。

 王家の紋章入りの黒い手袋が、白い紙に触れる。


「ベルクレール令嬢」


「はい」


「お前は、自分の家を売りに来たのか」


「ええ。私は、悪女になると決めました」


「……ほう」


「利用されて殺されるぐらいなら、利用する側に回ります。あなたに恩を売り、ベルクレール家に群がる亡者たちを滅ぼし、すべてを取り返します」


 護衛たちが、またざわめいた。


「その代わり、私はあなたにすべてを差し出します。この目も。母の財産を取り戻した暁には、その財産も」


 心臓は、うるさいほど鳴っていた。

 それでも私は、目を逸らさなかった。


「悪くない取引ではありませんか」


 次の瞬間、王子の手が伸びた。

 黒い手袋に包まれた指が、私の手首を掴む。


「ならば、その身も差し出せるのか」


「……えっ」


 王子は、そこで初めて声を立てて笑った。


「冗談だ。今のところはな」


 低い笑いだった。


「だが、検討ぐらいはする。その気概に免じてな」


 褒め言葉ではなかった。

 獲物の骨の硬さを確かめる獣の声だった。


 レオンハルト王子は、しばらく私を見ていた。

 そして、ふいに視線を外した。


 泥の上に転がる男へ。


「証人は一人で十分だ」


 次の瞬間、銀の刃が閃いた。

 音は、ほとんどしなかった。


 男の身体が、泥の上で動かなくなる。


 私は息を呑んだ。

 止める暇さえなかった。


 一瞬だったからではない。

 怖かったからだ。


 この人が何をするか分かっていたのに、体が動かなかった。

 処刑台では笑えたのに、今は足が根を張ったように動かない。


 赤いドレスの裾に、泥が跳ねた。

 血ではない。泥だ。


 それでも、視線が釘付けになった。


 王子が血を払うように剣を振る。

 その動作が、恐ろしいほど静かだった。


「もう一人は連れていけ」


 護衛が、青い顔の男をさらに押さえつける。


「喋るまで拷問して構わん」


 男の喉から、潰れた悲鳴が漏れた。


「ベルクレール令嬢」


 灰色の目が、私を見る。


「俺は裏切り者を飼わない」


 声は静かだった。


「裏切れば、お前もこうなる」


 喉が、凍った。


 脅しだ。

 はっきりとした、命への脅し。


 けれど、嘘ではなかった。


 父は「お前のため」と言いながら私の名を使った。

 継母は「清らかに」と言いながら白を着せた。


 この人は違う。

 刃を隠さない。理由も隠さない。


 それだけで、ずっと信用できる気がした。


「承知しました」


 私は赤いドレスの裾を摘まみ、礼をした。


「では、裏切られないだけの価値を示します」


 王子の口元が、ほんのわずかに動いた。


「いい返事だ」


 王子はそう言って、背を向けた。


 ついてこい、とは言わなかった。

 けれど私は、一歩踏み出していた。


 泥の上を、赤いドレスの裾が横切る。

 動かなくなった男の横を通り過ぎる時、目を逸らさなかった。


 逸らしてはいけない気がした。


 私はこれから、この世界で生き残る。

 優しい令嬢としてではなく。


 泥と血と嘘の中を、自分の足で歩いていく。


 それを、目に焼き付けておかなければならなかった。


 ――この狂犬の牙を借りて、私は復讐を始める。

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