表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第3話 あなたの暗殺を止めに来ました

 部屋に戻って、私は一息ついた。


 扉が閉まった瞬間、膝から力が抜けそうになる。

 父の書類には署名しなかった。

 食卓から書類を持ち出した。

 ミレーヌの罠にも触れなかった。


 けれど、それだけだ。


 証拠の種は手にした。けれど今の私には、それを王都で通用する形にする力がない。

 父を裁く力がない。

 継母の嘘を暴いても、この屋敷の中では握り潰される。


 そして、ここにいる限り、また囲い込まれる。


 では、どうする。


 革の書類入れを机に置き、留め具を外した。

 並んだ紙の中で、一枚だけが目を引いた。


 王族護送契約。


 指先でなぞると、《真約の瞳》がかすかに熱を持つ。


 日付は明日。

 ベルクレール家は、王子の護送任務を古い義務として担っている。


 一度目の人生で、王子は王都へ向かう途上で暗殺された。

 そして、その責任は私にあるとされた。


 この紙は、そこへ続いている。


 レオンハルト・ノルヴァルト第二王子。

 通称、凶王子。


 正義感は誰よりも強い。

 だが、慈悲を持たない。


 汚職の証拠を握りつぶした徴税官の両耳を現場で潰し、横領した商人の舌を削ぎ、「もう虚言は吐けぬ」と告げた男だ。


 貴族たちは彼の名を口にするだけで声を潜める。

 茶会でも、廊下の角でも、誰かがその名を出せば空気が止まった。


 相手が女でも、子どもでも、必要なら容赦しない。

 普通の令嬢なら、生涯関わるべきでない相手だ。


 でも今の私には、その危うさこそが必要だった。


 私に必要なのは、三つ。

 この家の外を見る情報網。

 父たちの嘘を黙らせるだけの武力。

 そして、ベルクレール家から出るための逃げ道。


 答えは、もう目の前にある。


 明日、彼を暗殺から救えれば。

 彼を味方につけられれば。

 私は、父たちの嘘を王都の表へ引きずり出せる。


 善意ではない。

 慈悲でもない。


 私の復讐には、凶王子が必要だった。


「馬車を用意して」


 御者が驚いた顔でこちらを見る。


「お一人で、ですか」


 赤いドレスの裾を払った。


「素敵な殿方に会いに行くわ」


***


 馬車の中で、何度も契約書を読み返した。


 紙面の上に、薄い映像が浮かぶ。

 父が、暗い帳場の奥で、見知らぬ男に革袋を渡している。


 金貨の音。

 低く交わされる声。


 ――道を変えろ。護衛を減らせ。宿は裏口に近い部屋を押さえろ。


 映像が揺れた。


 帳場の奥に、もう一人いる。

 顔は見えない。

 外套の留め具だけが光った。


 黒い鷲。

 銀の茨を巻いた冠。


 五家門のどこかが使う、高位の紋章だ。


 王子暗殺に関わっているのは、ベルクレールだけではない。

 もっと大きな家門が噛んでいる。


 ここから先は、王子本人に見せるしかない。


 いいえ——見せて、動かさなければならない。


***


 昼前には、街道沿いの宿へ着いた。


 白い漆喰の壁。

 黒い木組み。

 軒先には、旅人の外套から落ちた雨粒がまだ乾いていない。


 宿の裏手に、王家の紋章を隠した黒い馬車が停まっていた。


 あれだ。


 馬車を降りた瞬間、空気が変わった。


 旅人のざわめきがない。

 鶏の声もない。

 風さえ、止んでいる気がした。


 聞こえるのは、低い声だけだった。


「もう一度言え」


 宿の裏手に回った瞬間、目に飛び込んできたのは——


 泥の上に転がされた男。

 その前に立つ、黒い長衣の人影。


 背が高い。

 肩幅が広く、剣を抜いていないのに、抜身の刃のような気配がある。


 銀灰色の髪が、宿の薄暗い光を受けて冷たく光っていた。

 外套の裾は泥を踏んでいない。

 一歩も動いていないのに、場の全員が彼を中心に縮こまっている。


 レオンハルト・ノルヴァルト。

 凶王子。


「知らない。俺はただ、宿を取れと言われただけで……」


 男がかすれた声で言う。


 王子の手が、静かに動いた。


 ぎゃ、と短い悲鳴。

 男の指が一本、泥の上に落ちた。


 血が、ゆっくりと泥に滲む。

 胃の奥が、きゅっと縮んだ。


「宿を取れと。誰のために」


「し、知らない……本当に、知らない……」


「知らない相手のために、王族の通る宿を押さえた」


 王子はそれを、疑問ではなく確認として言った。


 くくく……と、低い笑いが漏れる。

 静かで、凶悪で——どこか楽しそうな笑みだった。


 背筋がざわりとする。


「では、何本落とせば思い出す」


 剣が振り上げられた。


「お、おやめください」


 声が出ていた。

 自分でも驚いた。

 体が勝手に動いていた。


 護衛たちが一斉にこちらを見る。

 王子が、ゆっくりとこちらを向く。


 灰色の瞳。


 人を値踏みする目ではない。

 嘘を斬る場所を探す目だった。


 この人は、血に飢えた狂犬。

 誰もがそう言っていた。


 けれど——その目は、少しも濁っていなかった。


 憎しみでも、残酷さでもない。

 ただ、正確に、世界を見ている目だった。


 父の優しい目とは、まるで違う。

 あの目は、嘘をつく時ほど穏やかになった。


 この人の目は——真実しか映さない気がした。


 美しい、と思った。


 そう思った自分が、怖かった。


「誰だ」


 低い声が、真っすぐに飛んでくる。


「ベルクレール家のレティシアです」


 名を口にした瞬間、空気が固まった。


 護衛たちの手が剣にかかる。

 王子の顔に、はっきりと殺気が宿った。


「ベルクレール」


 一語だけ。


「王国に寄生する腐った家門の令嬢が、俺に何の用だ」


 喉がひゅっと縮む。


 殺される。


 本能がそう告げた。

 それでも足は動かなかった。


 もう処刑台を知っている。

 刃の冷たさも、首の痛みも、白が赤に変わる瞬間も。


 あの恐怖に比べれば——


 この人の殺気は、少なくとも正直だった。


「あなたの暗殺を止めに来ました」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ