第3話 あなたの暗殺を止めに来ました
部屋に戻って、私は一息ついた。
扉が閉まった瞬間、膝から力が抜けそうになる。
父の書類には署名しなかった。
食卓から書類を持ち出した。
ミレーヌの罠にも触れなかった。
けれど、それだけだ。
証拠の種は手にした。けれど今の私には、それを王都で通用する形にする力がない。
父を裁く力がない。
継母の嘘を暴いても、この屋敷の中では握り潰される。
そして、ここにいる限り、また囲い込まれる。
では、どうする。
革の書類入れを机に置き、留め具を外した。
並んだ紙の中で、一枚だけが目を引いた。
王族護送契約。
指先でなぞると、《真約の瞳》がかすかに熱を持つ。
日付は明日。
ベルクレール家は、王子の護送任務を古い義務として担っている。
一度目の人生で、王子は王都へ向かう途上で暗殺された。
そして、その責任は私にあるとされた。
この紙は、そこへ続いている。
レオンハルト・ノルヴァルト第二王子。
通称、凶王子。
正義感は誰よりも強い。
だが、慈悲を持たない。
汚職の証拠を握りつぶした徴税官の両耳を現場で潰し、横領した商人の舌を削ぎ、「もう虚言は吐けぬ」と告げた男だ。
貴族たちは彼の名を口にするだけで声を潜める。
茶会でも、廊下の角でも、誰かがその名を出せば空気が止まった。
相手が女でも、子どもでも、必要なら容赦しない。
普通の令嬢なら、生涯関わるべきでない相手だ。
でも今の私には、その危うさこそが必要だった。
私に必要なのは、三つ。
この家の外を見る情報網。
父たちの嘘を黙らせるだけの武力。
そして、ベルクレール家から出るための逃げ道。
答えは、もう目の前にある。
明日、彼を暗殺から救えれば。
彼を味方につけられれば。
私は、父たちの嘘を王都の表へ引きずり出せる。
善意ではない。
慈悲でもない。
私の復讐には、凶王子が必要だった。
「馬車を用意して」
御者が驚いた顔でこちらを見る。
「お一人で、ですか」
赤いドレスの裾を払った。
「素敵な殿方に会いに行くわ」
***
馬車の中で、何度も契約書を読み返した。
紙面の上に、薄い映像が浮かぶ。
父が、暗い帳場の奥で、見知らぬ男に革袋を渡している。
金貨の音。
低く交わされる声。
――道を変えろ。護衛を減らせ。宿は裏口に近い部屋を押さえろ。
映像が揺れた。
帳場の奥に、もう一人いる。
顔は見えない。
外套の留め具だけが光った。
黒い鷲。
銀の茨を巻いた冠。
五家門のどこかが使う、高位の紋章だ。
王子暗殺に関わっているのは、ベルクレールだけではない。
もっと大きな家門が噛んでいる。
ここから先は、王子本人に見せるしかない。
いいえ——見せて、動かさなければならない。
***
昼前には、街道沿いの宿へ着いた。
白い漆喰の壁。
黒い木組み。
軒先には、旅人の外套から落ちた雨粒がまだ乾いていない。
宿の裏手に、王家の紋章を隠した黒い馬車が停まっていた。
あれだ。
馬車を降りた瞬間、空気が変わった。
旅人のざわめきがない。
鶏の声もない。
風さえ、止んでいる気がした。
聞こえるのは、低い声だけだった。
「もう一度言え」
宿の裏手に回った瞬間、目に飛び込んできたのは——
泥の上に転がされた男。
その前に立つ、黒い長衣の人影。
背が高い。
肩幅が広く、剣を抜いていないのに、抜身の刃のような気配がある。
銀灰色の髪が、宿の薄暗い光を受けて冷たく光っていた。
外套の裾は泥を踏んでいない。
一歩も動いていないのに、場の全員が彼を中心に縮こまっている。
レオンハルト・ノルヴァルト。
凶王子。
「知らない。俺はただ、宿を取れと言われただけで……」
男がかすれた声で言う。
王子の手が、静かに動いた。
ぎゃ、と短い悲鳴。
男の指が一本、泥の上に落ちた。
血が、ゆっくりと泥に滲む。
胃の奥が、きゅっと縮んだ。
「宿を取れと。誰のために」
「し、知らない……本当に、知らない……」
「知らない相手のために、王族の通る宿を押さえた」
王子はそれを、疑問ではなく確認として言った。
くくく……と、低い笑いが漏れる。
静かで、凶悪で——どこか楽しそうな笑みだった。
背筋がざわりとする。
「では、何本落とせば思い出す」
剣が振り上げられた。
「お、おやめください」
声が出ていた。
自分でも驚いた。
体が勝手に動いていた。
護衛たちが一斉にこちらを見る。
王子が、ゆっくりとこちらを向く。
灰色の瞳。
人を値踏みする目ではない。
嘘を斬る場所を探す目だった。
この人は、血に飢えた狂犬。
誰もがそう言っていた。
けれど——その目は、少しも濁っていなかった。
憎しみでも、残酷さでもない。
ただ、正確に、世界を見ている目だった。
父の優しい目とは、まるで違う。
あの目は、嘘をつく時ほど穏やかになった。
この人の目は——真実しか映さない気がした。
美しい、と思った。
そう思った自分が、怖かった。
「誰だ」
低い声が、真っすぐに飛んでくる。
「ベルクレール家のレティシアです」
名を口にした瞬間、空気が固まった。
護衛たちの手が剣にかかる。
王子の顔に、はっきりと殺気が宿った。
「ベルクレール」
一語だけ。
「王国に寄生する腐った家門の令嬢が、俺に何の用だ」
喉がひゅっと縮む。
殺される。
本能がそう告げた。
それでも足は動かなかった。
もう処刑台を知っている。
刃の冷たさも、首の痛みも、白が赤に変わる瞬間も。
あの恐怖に比べれば——
この人の殺気は、少なくとも正直だった。
「あなたの暗殺を止めに来ました」




