第2話 赤いドレスの宣戦布告
紅茶の香りがした。
血の匂いではない。
鉄でも、冬の石畳でも、処刑台の木の匂いでもない。
ベルクレール伯爵家の朝に、いつも出されていた紅茶の香りだった。
私は目を開けた。
薄い天蓋。
朝の光。
白い寝台。
枕元の銀盆には、淡い琥珀色の紅茶が置かれている。
銀盆の端に添えられた宮廷暦には、春告月十七日とあった。
首に手を当てる。
つながっている。
私は、生きていた。
けれど、すぐに思い出した。
今日は、処刑の日ではない。
処刑された半年前。
それでも、私が殺された日だった。
ミレーヌの毒殺未遂。
契約書への署名。
半年後、私の首を落とすことになる罪は、すべてこの日から作られた。
一度目の私は、それに気づかなかった。
けれど今は違う。
「お嬢さま? お目覚めですか」
扉の向こうから、侍女の声がした。
ぬるい紅茶を出し、私が何も言わないことを知っていた女だ。
銀盆の紅茶は、ほとんど湯気を立てていない。
「入って」
侍女が入ってくる。
「本日はご家族との朝食がございます。旦那さまが、例の書類のことでお話があると」
例の書類。
胸の奥で、処刑台で見た光景がよみがえる。
白い紙の末尾に、私自身の署名がある。
その上の本文を、法服を着た男の手が綴じ替えていく。
父の手が、ベルクレール伯爵家の印章を押す。
赤い封蝋が潰れる音。
最後に、オスカーのペン先が証人欄へ滑り込む。
家族と婚約者の手が、紙の上で、私の罪を作り上げていた。
「紅茶を下げて」
「え?」
「ぬるいわ。淹れ直して」
侍女の顔が強張った。
「も、申し訳ございません」
たかが、ぬるい紅茶。
けれど私は、こういう小さな屈辱をずっと飲み込んできた。
笑って、許して、何も言わないことで、この家の誰もが私を軽く見るようになった。
もう、二度と。
戸棚の奥に、母の衣装箱がある。
一度目の人生では、継母に封じられ、触れることも許されなかった箱だ。
鍵の場所は知っている。
知らないふりをしていただけだ。
箱を開けると、深い赤が朝の光に現れた。
血の色にも、薔薇の色にも、燃える契約印の色にも見えるドレス。
継母はこの色を嫌っていた。
下品な色。
悪女の色。
レティシアには似合わない色。
何度もそう笑っていた。
けれど、母はこのドレスを残した。
胸元には、古い金糸の刺繍がある。
絡み合う蔓のような、契約印にも王冠にも見える文様。
指先でなぞると、《真約の瞳》がかすかに熱を持った。
ただの飾りではない。
これは、私が私の名前を取り戻すための、最初の宣戦布告だ。
赤いドレスに袖を通す。
戻ってきた侍女が、私を見て息を呑んだ。
「お嬢さま、そのお色は……」
「似合わない?」
「い、いえ。ただ、奥さまが」
「継母の許可が必要なの?」
侍女は何も言えなくなった。
***
朝食の間へ向かうと、食卓の空気が止まった。
父が目を見開く。
継母エレノアの指が、銀のナイフの上で固まる。
ミレーヌは唇を開いたまま瞬きを忘れた。
オスカーだけがすぐに表情を取り繕ったが、その一瞬の動揺は見えた。
全員が、私の赤いドレスを見ていた。
昨日まで白しか着なかった令嬢が、今日は血の色をまとっている。
それだけで、こんなにも空気が変わる。
面白い、と思った。
怖くない、と思った。
「レティシア、その服はどうした」
「母のものです」
「勝手に触れたのか」
「私が継ぐべきものですから」
継母が微笑む。
「……下品な色を着て、何のつもり?」
銀のナイフを置く音が、やけに硬く響いた。
「あなたには少し強すぎるわ。もっと淡い色の方が、家の品位にも合うでしょう」
「白は嫌いなんです」
沈黙が落ちた。
昨日までの私は、この沈黙に耐えられなかった。
謝って、笑って、自分が悪くなくても頭を下げた。
けれど今は、少しも怖くない。
父は咳払いをし、革の書類入れを開いた。
「レティシア。母上の遺産に関する確認書だ。家のために必要な手続きでな」
食卓の上に、たくさんの書類が並べられる。
退屈な名をした紙ばかりだ。
けれど、その白さが怖い。
この国では、紙が人を殺す。
「まずは、これに署名しなさい」
父は当然のようにペンを差し出す。
一度目の私は、何も疑わずにそのペンを取った。
けれど今は違う。
指先で紙の端に触れた瞬間、右の瞳がかすかに熱を持った。
金色の光が、紙の上を走る。
追補承認。
あとから綴じ足された別紙にも、私が同意したことにできる条項。
母の遺産を守るための書類ではない。
私から、母の家を奪うための書類だ。
「この内容、おかしいですわね」
父の顔が歪む。
「何?」
「追補承認。あとから加えられた別紙にも、私が同意したことになる。母の遺産を守るための確認書に、なぜこんな条項が必要なのですか」
「確認など必要ない。お前のための書類だ」
「私のためなら、なおさらお答えいただけますわね」
「レティシア」
「母の遺産に関わる書類です。読まずに署名する方が不自然でしょう」
ミレーヌが不安げに目を伏せる。
「お姉さま、お父さまを困らせないで」
前の私なら、その一言で折れていた。
でも今は、彼女の瞳の奥に揺れた苛立ちが見える。
「困っているのは私よ。意味の分からない条項に同意を求められているのだから」
オスカーが眉をひそめた。
「レティシア、伯爵閣下に失礼だ」
「後見伯閣下、ですわね。正確には」
オスカーの口元が固まった。
「ベルクレール伯爵家は母の家です。父は、私が成人するまで預かっているだけ。だからこそ、母の遺産に関わる書類は確認が必要です」
その時、ミレーヌが小さく呻いた。
白い指が胸元を押さえ、呼吸が浅くなる。
前と同じだ。
「ミレーヌ!」
継母が悲鳴を上げ、オスカーが彼女を支える。
ミレーヌは苦しげに私を見た。
「お姉さま……薬箱を……母君の薬箱に、たしか薬が……」
同じ白い指。
同じ震える睫毛。
同じ、私だけに向けられた助けを求める目。
よくできた芝居だ。
前の私は、この一幕に拍手までして、罠の中へ駆け込んだ。
だから今回は、動かない。
「家医を呼んで」
全員が私を見る。
「正式な医師に診せましょう。素人判断で薬を飲ませて、もし何かあったら困るもの」
「でも、すぐに」
「毒の可能性があるなら、高等法院付の検毒官も必要ですね」
父の顔色が変わった。
「なぜ高等法院まで」
「公的な証人がいれば、あとで誰も困らないでしょう?」
その隙に、私は食卓の上の書類をまとめた。
革の書類入れごと抱えると、父がはっと顔を上げた。
「レティシア、それは」
「内容を確認するために預かります」
ミレーヌが大きく咳き込む。
その表情の奥で、一瞬だけ怒りが光った。
苦しいなら、そんな目はできない。
私は席を立つ。
「部屋に戻ります。医師が来るまで、私がここにいても邪魔でしょう」
赤いドレスの裾が、朝食の間の床を鮮やかに横切った。
父の声が追いかけてくる。
継母の息が、止まる音がした。
振り返らなかった。
この書類を読み解けば、次の一手が見える。
次の一手が見えれば、この屋敷を出られる。
この屋敷を出られれば。
私は、やっと始められる。




