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第5話 俺の婚約者だ

 予定されていた王都入りは、その場で取りやめになった。


 レオンハルト王子は、捕らえた男の一人を護衛に預け、私を黒い馬車へ乗せた。


 向かう先は、王都ではない。

 街道沿いにある、王家直轄の狩猟館だった。


 暗殺者の証言を取るにも、ベルクレール家の追手をかわすにも、そこが一番近い安全地帯なのだという。


 馬車の中は、ひどく静かだった。

 車輪の音だけが、規則正しく響いている。


「悪女になると言ったな」


 窓の外を見たまま、レオンハルト王子が言った。


「なら、なぜ止めた」


「……何をですか」


「宿の男の指を落とそうとした時だ」


「必要以上に傷つけることはないと思いました」


「甘いな」


 膝の上で、赤いドレスを握る指に力が入った。

 返す言葉がなかった。


「半端な気持ちなら、無理はしないことだ」


 静かな声だった。

 責めるというより、見極めている声だった。


 私は、ドレスの布をさらに強く握った。


「他に道はないのです」


 レオンハルト王子が、ようやくこちらを見る。


 灰色の目に、わずかな光が揺れた。


「難儀なことだ」


 やがて馬車は、狩猟館へ入った。


 花も、噴水も、明るい笑い声もない。

 高い塀。

 飾り気のない黒い門。


 敵を捕らえ、嘘を剥ぐ場所だった。


 案内された部屋は広かった。

 黒いカーテン。

 重い机。

 壁に掛けられた剣。


 暖炉には火が入っているのに、空気は冷えている。

 そして奥には、整えられた寝台があった。


「座れ」


 示された先を見て、私は足を止めた。


「……寝台に、ですか」


「問題が?」


「未婚の令嬢が殿方の寝台など」


「外聞を気にする余裕があるのか」


 確かにそれは正しかった。


 私は端に腰を下ろし、背筋を伸ばした。

 膝の上で指を組む。

 震えを隠すためだった。


 レオンハルト王子は、ゆっくりと近づいてくる。


 一歩。

 また一歩。


 距離が縮まるたびに、息が浅くなる。

 膝の上の指に、力が入った。


 王子が、私の顎に指をかけた。

 顔を上げさせられる。


 逃げられない距離だった。


 灰色の目が、すぐそこにある。


 低い声が、吐息と一緒に落ちてきた。


「お、おやめください」


 声が裏返った。


 王子の口元が、わずかに上がる。

 その顔で、試されたのだと気づいた。


「スパイなら、ここで俺を誘う。暗殺者なら、この程度で動揺しない」


 王子の指が、私の顎から離れる。


「これが演技なら、お前は一流だ」


「……演技に見えましたか」


 王子の灰色の目は、少しも甘くならなかった。


「だが、完全に信じたわけではない」


 離れたはずの指が、今度は私の手首に触れる。

 脈を測るように。


 逃げ道を確かめるように。


「裏切れば殺す。それだけは変わらない」


「承知しています」


 私は、手首をつかむその指を見下ろした。


 怖い。

 怖くないはずがない。


 けれど、ベルクレール家へ戻る方がもっと怖かった。


 あの家は、微笑みながら私の名を使う。

 優しい言葉で私の署名を奪い、泣き声で私の罪を作る。


 ふいに、首筋が痛んだ気がした。


 傷などない。

 それでも私は、自分の首に手をやっていた。


 この人は、少なくとも刃を隠さない。


「私も、殿下に信じていただこうとは思っていません」


 王子の眉が、わずかに動いた。


「ほう」


「殿下は私を利用する。ならば、私も殿下を利用します」


 灰色の目が細くなる。


「可愛げのない令嬢だ」


「可愛げで生き延びられるなら、とっくにそうしています」


 王子は、短く笑った。


「条件を言え」


「ベルクレール家へ返さないでください。そして、復讐に力を貸してください」


「復讐か」


 王子の目は少しも揺れなかった。


 血に飢えた狂犬なら、喜ぶところだと思った。


 けれど、その目はひどく痛そうだった。


「きれいごとよりは、ましだ」


「では」


「契約書は預かる」


 レオンハルト王子はそう言って、机の上に紙束を置いた。


「まだ保護するとは言っていない」


「えっ……」


 息が止まった。

 視界が、ぐにゃっと歪む。


 最後の希望だと思ったものが、音もなく足元から抜け落ちた。


「お前の目は使える。だが、お前を信じたわけではない」


「……では、私はどうすれば」


「俺を納得させろ」


 冷たい声だった。


 その時、扉の外が騒がしくなった。


 護衛の声。

 低く押し殺した男の声。


 胸の奥が、嫌な音を立てた。


「殿下。ベルクレール後見伯が参っております」


 全身から血の気が引いた。


「通せ」


「殿下」


 思わず声が出た。

 王子は私を見ない。


「通せと言った」


 扉が開く。


 父が入ってきた。

 その後ろに、継母の家令。

 さらに、オスカーがいた。


 オスカーは私を見るなり、痛ましそうな顔をした。


「レティシア」


 その顔を見た瞬間、吐き気がした。


「ご迷惑をおかけしました、殿下」


 父は深く頭を下げた。


「娘は少し錯乱しております。王族の契約書を持ち出したことも、すべて家の中で処分いたします」


「処分か」


 王子が低く繰り返した。


 父は穏やかに笑った。


「静養させます」


 静養。


 その言葉の中に、鍵の音が聞こえた気がした。


 閉じ込められる。

 薬を盛られる。

 署名を奪われる。


 そして今度は、半年もかからない。


「さあ、レティシア」


 父がこちらへ歩いてくる。


「帰ろう。話は家で聞く」


 父の手が、私へ伸びる。


「い、いやです」


 声は、思ったより小さかった。

 それでも、足は一歩後ろへ下がっていた。


 父の眉が、かすかに動く。


「レティシア」


 優しい声だった。

 だからこそ、背筋が冷えた。


「聞き分けなさい」


 また一歩、後ずさる。


 戻される。

 あの家へ。

 今度は、今日死ぬ。


「触るな」


 低い声が落ちた。


 父の手が止まる。


 部屋の空気も止まった。


 レオンハルト王子は椅子に座ったまま、父を見ていた。


「その女は返せない」


「……殿下?」


「俺の婚約者だ」


 誰も動かなかった。


 父の顔から、色が消える。


 オスカーが目を見開いた。


 私も、息を忘れた。


「婚約者、でございますか」


「二度言わせるな」


 王子はようやく私を見た。


 灰色の目。

 冷たい目。


 けれどその視線だけが、私をあの家から引き剥がしていた。


「レティシア・ベルクレール」


 名前を呼ばれた。

 奪われ続けた、私の名前を。


「お前は今から、俺のものだ」


 助かった。


 そう思うより先に、別の檻へ入れられたのだと分かった。


 それでも。


 ベルクレール家へ戻るよりは、ずっといい。


 私は震える指を握りしめた。


「……ええ、あなたのものになります」


 王子の目が、わずかに細くなる。


「ですが、ただ飼えるとは思わないでください。あなたを使って、私はこの家を裁きます」


 声は震えていた。

 それでも、言い切った。


 父の顔が引きつり、オスカーは何も言わないまま、読み取れない静かな目で私を見ていた。


「いい返事だ」


 次の瞬間、背後から腕が回った。


 レオンハルト王子が、私を後ろから抱き寄せる。

 黒い手袋の手が頬に触れ、そのまま顔を半ば覆うように持ち上げた。


 父の前で。

 オスカーの前で。

 まるで、誰のものかを示すように。


「楽しませてもらうぞ、レティシア・ベルクレール」

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