第77話 閑話:世界の再編と、消え去った脅威
第77話 閑話:世界の再編と、消え去った脅威
辺境の街アシュタルの東、小高い丘に広がる特級クラン『絆紋亭』の拠点は、深淵の邪神という世界を滅ぼしかねない脅威を完全に浄化した後も、何ら変わることのない優しく穏やかな朝を迎えていた。
庭の中央にそびえ立つ精霊樹は、その神聖な魔力を周囲に惜しみなく振りまき、朝の風に揺れる葉擦れの音が、チリン、チリンと微かな鈴の音のように心地よく響き渡っている。
「ウォンッ!」
「キュイッ!」
「きゅるるーっ!」
澄み切った青空の下、縁側で朝の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる俺の足元へ、競い合うように三匹の魔物が飛び込んできた。
俺が王都を追放され、この名もなき辺境の森にたどり着いたその日、一番最初に俺の『絆紋』を受け入れ、共に歩み始めた最古参の相棒たち。銀色のウルフであるフェル、純白のポーションラビットであるピコ、そして空色小竜のソラだ。
邪神との決戦においても一切怯むことなく戦い抜いた彼らだが、拠点に戻ればただの甘えん坊の家族である。フェルは俺の手に鼻先をすり寄せ、ピコは長い耳をパタパタさせながら俺の膝に飛び乗り、ソラは俺の肩にふわりと着地して頬をすりすりと擦りつけてくる。
「おはよう、フェル、ピコ、ソラ。今日はギルドからの依頼もないし、辺境伯様のところへの呼び出しもない。一日中のんびりできそうだな」
俺が三匹の頭を順番に優しく撫でると、彼らは心底嬉しそうに目を細めて尻尾を振った。
庭を見渡せば、巨大な黒竜ノヴァが竜使いのルカに鱗を磨いてもらいながら気持ちよさそうに喉を鳴らし、紅蓮の火蜥蜴ガエンや鋼角の犀ザイン、岩砕の巨獣ダグといった大型の魔物たちが木陰でうたた寝をしている。黄金の甲殻を得て進化した砂塵の魔蠍ゼットは、新しく仲間になった太陽の精霊鳥ソルをハサミの上に乗せて日向ぼっこを楽しんでいた。
人間組の仲間たちも、アイラは剣聖シルヴィアと朝の鍛錬に励み、ルウはエリスに魔法の基礎を教え、セシルは厨房で鼻歌を歌いながら昼食の仕込みをしている。
この何気ない平穏な日常こそが、俺たちにとって何よりも守るべき宝物であった。
* * *
一方、俺たちがのんびりとした朝を過ごしている頃、アシュタルの領主の館では、大陸の歴史を塗り替えるほどの熾烈な政治交渉が繰り広げられていた。
アシュタル領主アルベルト辺境伯と、新たなギルド本部のトップとなったギルドマスターのバルカン。彼らの目の前には、大陸中の生き残った国家の使節団や、元ルミナス王国の貴族たちが、長蛇の列を作って謁見の順番を待っていた。
深淵の邪神をたった一撃で浄化した『絆紋亭』という規格外の特級クラン。その絶対的な力を持つ彼らを抱えるアシュタルは、もはや一介の辺境都市ではなく、大陸の中心、あるいは事実上の『世界の覇者』と言っても過言ではない立ち位置にまで昇り詰めていたのだ。
「次、ガレリア帝国の使者、前へ」
文官の呼び出しに応じ、豪奢な衣装を身に纏った初老の使者が、額に大粒の汗を浮かべながら進み出た。かつて大陸西部を力で支配し、傲慢を極めていた軍事国家の使者とは思えないほど、その態度は平身低頭であった。
「は、ははっ! ガレリア帝国皇帝陛下より、アルベルト辺境伯閣下、並びにバルカン殿へ、心からの祝辞と敬意を申し上げます。この度の魔王軍主力部隊の撃退、および邪神の浄化、誠に見事な御手前でございました……!」
使者は、震える声でそう言いながら、最高級の魔力結晶や美術品が詰まった目録を差し出した。
「我が帝国は、アシュタル『独立同盟』との間に、恒久的な平和条約の締結を強く希望しております。もちろん、関税の撤廃や、帝国領内の貴重な鉱山資源の優先採掘権など、アシュタル側に最大限有利な条件を提示させていただきます。どうか、どうか『絆紋亭』のマスター殿に、我が国には一切の敵意がないことをお伝え願いたい!」
アルベルト辺境伯は、使者の差し出した目録を一瞥し、重々しく頷いた。
「皇帝陛下の誠意、確かに受け取った。我々独立同盟は、平和を望む者には手を差し伸べる用意がある。だが、もし一度でも我々や『絆紋亭』を裏切るような真似があれば、その時は……分かっているな?」
「も、もちろんでございます! 我が帝国は、アシュタルの足元に平伏し、忠実なる同盟国として尽力いたします!」
使者は何度も何度も頭を地面に擦りつけ、逃げるように退室していった。
ガレリア帝国だけではない。南方商業都市の商人ギルド代表も、莫大な資金提供と引き換えにアシュタルでの独占交易権を求め、東方の小国群はアシュタルの属国としての保護を求めてきた。
アルベルト辺境伯とバルカンは、レインたちが望む「平穏な日常」を守るため、各国の思惑を巧みに捌き、アシュタルにとって最も有利な条件で交渉をまとめていった。
「……ふぅ。どいつもこいつも、魔王軍が猛威を振るっていた時は我先にと逃げ出していたくせに、脅威が去ったと見るや否や、すり寄ってくる。人間の浅ましさというものは、いつの時代も変わらんな」
バルカンが、差し出された高級なワインを煽りながら呆れたように吐き捨てた。
「全くだ。だが、これもレイン殿たちがもたらしてくれた『力』の抑止力だ。彼らが望む平穏な暮らしを守るための防波堤となるのが、我々の役目だからな」
辺境伯も苦笑しながら肩をすくめた。
「次の方、前へ」
文官の呼び出しに応じ、次に現れたのは、見すぼらしい衣服に身を包んだ、恰幅のいい中年の男だった。その顔には、かつてルミナス王国の王都で権勢を誇っていた貴族特有の傲慢な面影が、辛うじて残っている。
「お、おお……! アルベルト辺境伯殿! お久しゅうございます! 私です、王都で財務卿を務めていた、ガストン・フォン・ルミナスでございます!」
ガストンと名乗った元貴族は、辺境伯を見るなり、すがりつくように前に出た。
「王都の崩壊から辛くも逃げ延び、私兵を連れてこの辺境まで命からがら辿り着きました……! 聞けば、貴方様はこのアシュタルを独立国とし、あの忌々しい魔王軍をも退けたとか! 素晴らしい! 流石は王国筆頭の辺境伯殿だ!」
ガストンは、まるで自分がまだ王国の高官であるかのような、どこか上から目線の口調で捲し立てた。
「ついては、私の持つ王都での政治経験と人脈を活かし、この新たな独立国の要職に就かせていただきたい! なに、辺境の荒くれ者たちを纏めるのはさぞ骨が折れましょう。私が財務と内政を取り仕切って差し上げますぞ。あぁ、それと、あの『絆紋亭』とかいうクランの連中、随分と強大な力を持っているようですな。あのような危険な輩は、私がしっかりと管理・統制してご覧に入れます!」
その言葉を聞いた瞬間。
アルベルト辺境伯の目に、絶対零度の冷気が宿った。
隣に座っていたバルカンも、酒杯をテーブルにドンッと叩きつけ、怒りで髭を震わせている。
「……ガストン殿。貴様、自分が今、誰の前で、何について語っているのか理解しているのか?」
辺境伯の地を這うような低い声に、ガストンはビクッと肩を震わせた。
「え、あ……な、何を仰っているのです? 私は、貴方様のために……」
「黙れッ!!」
辺境伯の怒声が、謁見の間をビリビリと震わせた。
「我がアシュタルを救い、世界を絶望の淵から引き上げた恩人たちを、『危険な輩』だと? 貴様ら王都の腐れ貴族どもが、あのレイン殿の価値に気づかず、無能呼ばわりして辺境へと追放した結果が、王都の崩壊と勇者の死を招いたのだろうが!!」
「ひっ……!」
ガストンは腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「我々『独立同盟』は、絆紋亭の皆様とは『対等の同盟関係』にある。貴様のような腐りきった権力亡者に、彼らの平穏を乱す権利など万に一つもない! 貴様のその薄汚い手で、彼らに触れようとすることすら万死に値する!」
辺境伯は立ち上がり、衛兵たちに冷酷な命令を下した。
「この男を直ちにアシュタル領外へ追放しろ。二度とこの地への立ち入りを禁ずる。逆らうようであれば、魔物の餌として森へ放り出しても構わん」
「そ、そんな……! お待ちください、辺境伯殿! 私にはまだ金が……財産が……!!」
悲鳴を上げながら衛兵に引きずり出されていくガストンの姿を、バルカンは鼻で笑って見送った。
「自業自得だ。真の宝をゴミのように捨てた連中が、今更どの面下げてすり寄ってくるってんだ」
「全くだ。レイン殿たちの平穏な生活に、あのような毒を持ち込ませるわけにはいかないからな」
辺境伯は大きく深呼吸をし、再び次の使者との交渉へと向き直った。
* * *
その日の午後。
激務をこなしていた辺境伯とバルカンの元へ、特級密偵シオンの部下である隠密部隊の長が、息を切らして駆け込んできた。
「申し上げます! 大陸最北端、魔王軍の本拠地である『魔王城』に関する、緊急の報告です!」
「何事だ!? 奴ら、また何か新たな動きを見せたのか!?」
バルカンが身構える。
「いえ……その逆です。先ほど、我々が魔王城の監視網として設置していた魔力探知器が、突如として魔王城そのものの反応を完全にロストしました」
「ロストしただと? どういうことだ?」
辺境伯が眉をひそめる。
「遠見の魔法と、現地に潜入していた使い魔の視覚を共有して確認したところ……魔王城が存在していた大地が、巨大な『次元断層』によってえぐり取られ、城ごと完全に空間の彼方へと消失していたのです」
「空間の彼方へ、消失……?」
「はい。空間に残留していた魔力の痕跡から推測するに、魔王ゼアノス自らが古代のアーティファクトを使用し、魔王城とその周辺の土地ごと、この大陸とは別の異空間へと転移した可能性が極めて高いです。……事実上、魔王軍の『完全撤退』、あるいは『逃亡』を意味します」
その報告を聞いた瞬間、辺境伯とバルカンは顔を見合わせ、言葉を失った。
世界を恐怖で支配し、人類を絶望の淵に追い詰めていた魔王軍。
その絶対悪たる彼らが、辺境にいるたった一人の青年の『浄化の光』に恐れをなし、自ら世界から引きこもることを選んだのだ。
「……信じられん。あの魔王が、尻尾を巻いて逃げ出したというのか」
辺境伯が震える声で呟く。
「ガハハハハッ!! やった! やりやがった!! レインの奴、戦わずして魔王軍を完全に追い出しやがったんだ!!」
バルカンはこらえきれずに大爆笑し、手元にあった高級ワインの瓶をラッパ飲みし始めた。
この「魔王軍の完全逃亡」の報は、ギルドの通信網を通じて、瞬く間に大陸中へと伝達された。
恐怖の象徴であった魔王城が消滅し、残存していた下級魔族たちも統率を失い霧散していく。
街角で、酒場で、村の広場で。
人々は涙を流して抱き合い、空を見上げて歓喜の声を上げた。
長きにわたる絶望の時代が、ついに終わりを告げたのだ。
そしてその全てをもたらしたのは、名もなき辺境の街アシュタルに拠点を構える、伝説の特級クラン『絆紋亭』であると、人々の心に深く刻み込まれたのだった。
* * *
世界が歓喜の渦に包まれているその頃。
アシュタルの『絆紋亭』の拠点では、そんな歴史的な大事件が起きていることなど露知らず、いつも通りの穏やかで賑やかな夕食の時間が始まろうとしていた。
「レイン様、夕食の準備ができましたよ! 今日は魔王軍の残党もいなくなったお祝いということで、最高級のレッドボアの肉を使った特大ハンバーグです!」
セシルが満面の笑みで、大皿に盛られた熱々のハンバーグをテーブルに運んでくる。
「おおっ、美味そうだな! セシルの料理は毎日最高だよ」
俺が席に着くと、フェルやピコ、ソラたち魔物組も、自分たち用の特製肉料理が盛られたボウルの前に嬉しそうに並んだ。
「ガハハ! 魔王の奴らが逃げ出したって噂を聞いた時は笑ったぜ! アタシらのマスターの光にビビり上がっちまったんだな!」
アイラが木製ジョッキに並々と注がれたエールを高々と掲げる。
「ふふっ、これで本当に平和な日常が戻ってきたわね。……全部、レインのおかげよ」
ルウが優しく微笑み、俺のグラスに果実水を注いでくれる。
「レインさん。私、このクランに来て本当に良かったです。これからも、あなたの盾として、この平穏を守り抜きます」
セリアも真摯な眼差しで俺を見つめた。
「ありがとう、みんな。でも、俺一人の力じゃない。お前たちがいてくれたから、フェルやピコたちが俺を信じてくれたから、ここまで来られたんだ。……これからも、この場所で、みんなでのんびり暮らしていこう」
俺がそう言うと、フェルが「ウォォォンッ♪」と嬉しそうに鳴き、ピコが「キュイッ♪」と合いの手を入れ、ソラが「きゅるるーっ♪」と空中で一回転した。
ノヴァやガエン、ゼットたちも、庭のテラスから優しく俺たちを見守っている。
「それじゃあ……俺たちの最高の家族と、これからの平和な日常に。乾杯!」
「「「カンパーイ!!」」」
満天の星空の下、精霊樹の優しい光に包まれながら、笑い声とグラスを合わせる音が、いつまでも絶えることなく響き渡っていた。
世界がどれほど俺たちを英雄と崇めようとも、俺たちの願いはただ一つ。
この温かく、優しい絆の居場所を、いつまでも守り続けること。
最強にして最高の家族たちとの、新しい平穏な日々が、今ここから静かに始まっていくのだった。
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