第74話 深淵の邪神と、絶望の顕現(前編)
第74話 深淵の邪神と、絶望の顕現(前編)
熱砂の死漠の中心、すり鉢状の巨大な古代遺跡の底。
そこは今、この世のものとは思えないほどの濃密な瘴気と、耳を劈くような断末魔の絶叫に包まれていた。
「おおおおおっ……! ついに、ついに断ち切れるぞ!!」
第一軍団長、獣王バランが、全身の毛を逆立てながら狂喜の叫びを上げた。
魔王軍が数万という下級魔族の命を強制的に生贄として捧げ、何日もかけて流し込み続けた黒い呪詛の炎。それがついに、神話の時代から邪神を縛り付けていた巨大な『黄金の鎖』を完全に腐食させたのだ。
バキィィィィンッ……!!
という、世界そのものにヒビが入ったかのような甲高い音が砂漠全体に響き渡る。
遺跡の底を十字に縛っていた黄金の鎖が、限界を迎えて無数の光の破片となって砕け散った。
「やりましたわ……! これで、魔王様の悲願が……」
第二軍団長、妖将カーミラが、安堵と歓喜の入り混じった笑みを浮かべた。
しかし、第三軍団長である智将ベルフェだけは、カタカタと顎の骨を鳴らしながら、一歩、また一歩と後退していた。
「バ、バラン! カーミラ! 喜んでいる場合ではない! 退避だ! 急いで転移結晶の準備をしろ!!」
ベルフェの警告は、一瞬遅かった。
ズゴゴゴゴゴォォォォォンッ!!
鎖が切れた遺跡の底から、漆黒の泥のような、あるいは凝縮された宇宙の闇そのもののような『何か』が、ゆっくりと膨れ上がり始めたのだ。
それは明確な形を持たなかった。無数の目玉が泥の表面に浮かび上がっては消え、数え切れないほどの触手が蠢き、ただ周囲の空間を「捕食」するように広がり続けている。
『――アァ…………ァァァ…………』
世界そのものが軋むような、おぞましい産声。
深淵の邪神が、数千年の眠りから目覚めたのだ。
「な、なんだこれは……!? 息が、できん……ッ!」
獣王バランが、自身の首を掻き毟りながら膝をついた。邪神が発するただの『気配』だけで、魔王軍第一軍団長であるバランの強靭な肉体が内側から崩壊し始めているのだ。
「いやぁぁぁっ! わたくしの、わたくしの肌が……溶けていくぅぅっ!!」
カーミラが悲鳴を上げる。彼女の透き通るような白い肌が、邪神の放つ瘴気に触れただけでドロドロと崩れ落ち、醜いアンデッドの本性が露わになっていく。
「ば、莫迦な……! 我ら魔族の瘴気とは、根本的に次元が違う! これは、ただの『純粋な破壊』だ! この場にいるだけで、魂ごと消滅させられるぞ!!」
ベルフェは、自らの左腕の骨がボロボロと粉を吹いて崩れていくのを見ながら、必死に懐から漆黒の転移結晶を取り出した。
「バラン! カーミラ! 私に触れろ!!」
ベルフェの叫びに、バランは右腕を邪神の触手に削り取られながらも強引に跳躍し、カーミラも顔の半分を溶かしながらベルフェのローブにすがりついた。
「転移!!」
間一髪。
邪神の巨大な漆黒の触手が彼らのいた空間を薙ぎ払う直前、三人の四天王は光となって魔王城へと辛くも逃げ延びた。
彼らは魔王の命を完遂し、邪神の封印を解くことには成功した。しかし、その代償はあまりにも大きく、四天王としての誇りも肉体もボロボロに引き裂かれていた。
後にはただ、完全な自由を得て、周囲の砂漠を無限の闇へと飲み込もうと膨張し続ける、絶望の権化だけが残された。
* * *
「……なんだ、あれは」
魔王軍の四天王が逃げ去った直後。
上空から急降下してきた漆黒の竜、ノヴァの背に乗っていた俺たちは、眼下に広がるそのおぞましい光景に息を呑んだ。
すり鉢状の遺跡の底から溢れ出しているのは、光すらも逃さない漆黒の泥の塊。それはすでに遺跡の枠を越え、周囲の砂漠を黒く染め上げながら巨大化している。
魔王軍の姿はすでにない。逃げ遅れた下級魔族たちが、邪神の泥に触れた瞬間に音もなく消滅していくのが見えた。
「レイン! あのデカブツ、魔力とかそういう次元の存在じゃないぞ! ただそこにあるだけで、空間が死んでいくみたいだ!」
アイラが戦斧を構えながら、珍しく顔に冷や汗を浮かべている。
「魔王軍の連中、間に合わなかったのね……! あれが、おとぎ話に聞く『深淵の邪神』……!」
ルウも、杖を持つ手を微かに震わせていた。
(マスター。あの闇は、非常に危険です。私の竜の直感が、あれに触れれば魂ごと消滅すると告げています)
ノヴァの思念が、緊張に満ちた声で俺の脳内に響く。
(俺の炎でも、あれを焼き尽くすことはできないかもしれない……。炎そのものが、あの闇に食われてしまう)
新たに仲間となった紅蓮の火蜥蜴ガエンも、地上で低く唸り声を上げている。
「ウォォォンッ……!」
「キュイッ……!」
だが、そんな絶望的な光景を前にしても。
俺の足元に立つ銀狼のフェルと、白兎のピコは、一歩も退かずに牙を剥き、邪神を睨みつけていた。
俺が王都を追放されたあの日から、どんな強敵の前に出ても、彼らが俺を守るために背中を見せたことは一度もない。
彼らのその揺るぎない勇気が、俺の心から一切の迷いを消し去ってくれた。
「みんな、聞いてくれ」
俺は剣を抜き、右手の甲にある『絆紋』の光を限界まで解放した。
翠色の眩い光が、俺を中心にして半球状に広がり、ノヴァの背にいる仲間たち、そして地上のガエンやゼットたち全員を優しく包み込む。
邪神が放つ空間を侵食するような圧迫感が、絆紋の『調和』の光に触れた瞬間に和らぎ、仲間たちの顔から恐怖がスッと消え去った。
「敵は神話の邪神。間違いなく、これまでで最強最悪の敵だ。魔王軍は逃げ出したが、俺たちはここから逃げるわけにはいかない」
俺の言葉に、アイラやルウ、シルヴィア、シオンたちが強く頷く。
「あれがアシュタルの街まで届けば、俺たちの居場所も、新しい家族たちも全て飲み込まれてしまう。だから……俺たちの『絆』で、あの絶望をここで完全に浄化する!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
俺の号令に、仲間たちと魔物たちが一斉に雄叫びを上げた。
恐怖はない。俺たちには、どんな呪いも闇も打ち払う『絆紋』の絶対的な加護があるのだから。
「ノヴァ、上空から牽制を! アイラ、シルヴィア、シオン、フェル、ピコ! 地上から敵の触手を削って、核となる部分を探すんだ! ルウ、ガエンは後方から最大火力で焼き払え! ゼットは地中からの奇襲に備えろ!」
(承知した!!)
ノヴァが巨大な翼を翻し、邪神の頭上へと急降下する。
「ギャオオォォォォッ!!」
ノヴァの口から放たれたのは、触れたものを分子レベルで崩壊させる『滅びの黒炎』。それが邪神の漆黒の泥へと直撃し、凄まじい爆発を引き起こした。
だが。
『――ギィ…………ヂィ…………』
邪神の泥は、ノヴァの黒炎を文字通り『飲み込み』、一瞬で元の大きさに戻ってしまった。
「魔法やブレスが吸収された!? なら、物理で断ち切るまでよ!」
アイラが地上へと跳躍し、戦斧に闘気を限界まで込め、『旋風大車輪』で邪神から伸びてきた無数の触手へと突っ込んだ。
「オラァァァッ!!」
ドゴォォォンッ!
触手はアイラの戦斧によって見事に切断されるが、切断された端からすぐに泥が沸き立ち、新たな触手となってアイラへと襲い掛かる。
「絶技・白銀の飛燕!!」
シルヴィアの神速の斬撃が触手を細切れにし、シオンが影から急所らしき目玉を短剣で貫く。しかし、どれだけ物理的なダメージを与えても、邪神は痛痒を感じる様子もなく無限に再生を繰り返していく。
「ウォォォンッ!!」
「キュイッ!!」
フェルの極太の雷撃が邪神の泥を焦がし、ピコの浄化のキックが着弾点の瘴気を吹き飛ばす。ピコの『ホーリー・ムーン・キック』が当たった部分だけは、わずかに泥の再生が遅れていた。
「やっぱり、純粋な魔法や物理攻撃は通用しない! 効果があるのは、俺の『絆紋』の魔力を乗せた浄化の攻撃だけだ!」
俺は戦況を瞬時に分析し、大声で指示を飛ばした。
「ルウ、ガエン! お前たちの炎に、俺の魔力を極限まで同調させる! ただの炎じゃない、『浄化の炎』として放つんだ!」
「わかったわ! レイン、魔力をちょうだい!」
「ギャルォォォッ!!」
俺は屋上の役割をノヴァに任せ、自身も地上へと降り立った。
そして、両手をルウの背中とガエンの鱗に当て、『万物の調和と極限浄化』の力を彼らの魔力回路へと直接流し込んだ。
翠色の光が、ルウの杖とガエンの口元に集束していく。
それはもはや赤やオレンジの炎ではなく、純白と翠色が混じり合った、神聖な輝きを放つ炎へと変貌していた。
「いくわよ……! 神聖なる浄化の焔よ、深淵を焼き尽くしなさい!『ホーリー・インフェルノ』!!」
「ギャルォォォォォッ!!」
ルウの極大魔法と、ガエンのブレスが完全に融合し、巨大な光の激流となって邪神の中央へと直撃した。
『――ギィヤアァァァァァァッ!?』
先ほどまでノヴァの黒炎を平然と飲み込んでいた邪神が、初めて明確な『苦痛の叫び』を上げた。
純白の炎が漆黒の泥を焼き焦がし、蒸発させ、その体を大きく抉り取っていく。
効いている。間違いなく、絆紋の力を乗せた攻撃は邪神に届いている!
「よし! そのまま押し切れ……!」
俺が叫んだ直後だった。
ズゴゴゴゴゴォォォォッ!!
邪神の抉り取られた中心部から、突如として禍々しい赤紫色の光が漏れ出した。
それは邪神の『核』――純粋な破壊のエネルギーの結晶体だった。
『――滅…………ベ…………』
邪神の核から、空間そのものを消滅させるほどの高密度の魔力レーザーが、俺たち全員を薙ぎ払うように発射されたのだ。
「しまっ……防げない!?」
ルウが青ざめ、アイラが防御の姿勢を取る。
俺は即座に『絆紋』の魔力障壁を展開しようとしたが、レーザーの速度と威力が早すぎる。
その絶体絶命の瞬間。
「ギチチィィィッ!!」
砂丘の地中から、巨大な砂塵の魔蠍ゼットが飛び出した。
ゼットは自らの身を呈し、最も装甲の厚い巨大なハサミと甲殻を交差させて、俺たちとレーザーの間に立ち塞がったのだ。
ドゴォォォォォォンッ!!!
直撃。
凄まじい衝撃波と光が砂漠を吹き飛ばし、巨大なクレーターを作り出す。
俺たちは爆風に吹き飛ばされながらも、ゼットの甲殻の陰で直撃を免れた。
「ゼット!!」
俺が砂まみれになって起き上がると、そこには、自慢の硬い甲殻をボロボロに溶かされ、砂の上に崩れ落ちるゼットの姿があった。
(……マスター、皆……無事か……?)
ゼットの思念が、微かに俺の頭に響く。
「ゼット! 馬鹿野郎、なんで無茶を!」
俺は急いで駆け寄り、ゼットの体に手を当てて治癒の光を流し込もうとする。しかし、邪神のレーザーの呪詛が強すぎて、回復が追いつかない。
(……俺は、お前たちに救われた。だから、お前たちを守りたかった。……少しは、役に立てたか……?)
「役に立ったどころじゃない! お前がいなきゃ全滅してた! 死ぬな、絶対に助けるから!」
俺の言葉に、ゼットは琥珀色の瞳を細めて嬉しそうにハサミを鳴らし、そのまま意識を手放した。
「よくも……ゼットを……!!」
アイラが血走った目で邪神を睨みつける。
フェルやピコ、ノヴァたちも、家族を傷つけられた怒りで凄まじい魔力を放出していた。
邪神はゼットの犠牲によって放った一撃の反動か、一時的に動きを止めている。
だが、その核は赤紫色に脈打ち、次なる、さらに強大な破壊の一撃を準備しようとしていた。
「絶対に許さない……。お前はここで、俺が完全に消し去る!!」
俺はゼットをルウたちに託し、剣を強く握りしめて邪神の核へと歩み出た。
右手の甲の『絆紋』が、俺の怒りと悲しみ、そして仲間たちの想いと共鳴し、かつてないほどの激しい翠色の光を天へと放つ。
神話の絶望と、絆の光。
アシュタルを守るための、そして傷ついた家族の仇を討つための、最終決戦の後半戦が、今まさに幕を開けようとしていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!少しでも面白いと感じたら、画面下から【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】の評価をいただけると、執筆の大きなモチベーションになります!尚、現在新作 【安全第一】死に戻り商人の異世界スローライフ~万能魔法と『リトライ』を駆使して完璧な物流網とインフラを整備し、のんびり隠居を目指します~
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