第68話 閑話:魔王軍の焦燥と新たなる標的
第68話 閑話:魔王軍の焦燥と新たなる標的
大陸の最北端、陽の光さえも届かぬ常闇の地にそびえ立つ、巨大で禍々しい漆黒の城。
天を突く尖塔からは常に黒い瘴気が噴き出し、周囲の大地は命の息吹を完全に絶たれた不毛の荒野と化していた。
ここが、大陸全土を恐怖に陥れ、人間たちを絶望の淵へと追いやっている絶対悪の根城――『魔王城』である。
その最深部。
血のように赤い絨毯が敷き詰められた広大な謁見の間には、息を呑むような重圧が立ち込めていた。並の魔族であれば、この空間に足を踏み入れただけで精神が崩壊し、泡を吹いて倒れてしまうだろう。
部屋の最奥、白骨と黒曜石で設えられた巨大な玉座に深く腰掛けているのは、魔王軍を統べる絶対的支配者、魔王ゼアノスだった。
漆黒の鎧に身を包み、兜の奥で爛々と輝く真紅の双眸は、底知れぬ力と冷酷さを湛えている。彼の周囲には、空間そのものが歪むほどの濃密な闇の魔力が渦巻いていた。
そして、玉座へと続く赤絨毯の両脇には、魔王軍の最高幹部である『四天王』が片膝をつき、主君へと頭を垂れていた。
第一軍団長、獣王バラン。身の丈三メートルを超える筋骨隆々の獣人で、全身を覆う黄金の剛毛と、背に負った巨大な戦槌が圧倒的な武の力を象徴している。
第二軍団長、妖将カーミラ。透き通るような白い肌と蠱惑的な美貌を持つ吸血鬼の女王。真紅のドレスを纏い、扇の陰から獲物を狙うような妖しい笑みを浮かべている。
第三軍団長、智将ベルフェ。灰色のローブを目深に被り、無数の目玉が浮かび上がる不気味な魔導書を携えた、骸骨の魔道士。魔王軍の頭脳であり、策謀と情報収集を司る。
第四軍団長、竜将ドラグ・ゾル。人間の姿をしているが、その全身は黒竜の硬質な鱗で覆われており、背中には巨大な竜翼を折り畳んでいる。魔王軍最強の機動力と破壊力を誇る竜騎士部隊の長である。
「……面を上げよ、我が手足たる将たちよ」
玉座から放たれた魔王ゼアノスの声は、地底から響くような低く重い音色で、謁見の間の空気をビリビリと震わせた。
「はっ」
四天王が一斉に顔を上げる。
「さて、ベルフェよ。人間たちの最大拠点であったルミナス王国。その顛末について、改めて報告を」
ゼアノスの問いかけに、智将ベルフェがローブの裾を揺らしながら一歩前に出た。
「御意に。魔王様におかれましては、すでに朗報としてお耳に入っているかと存じますが……我らが最大の障壁であったルミナス王国は、自滅いたしました」
ベルフェの言葉に、獣王バランが鼻を鳴らして笑った。
「自滅だと? 我らが軍勢を以てあの王都の城壁をこじ開け、人間どもの絶望の悲鳴を聞くのを楽しみにしていたというのに。なんとも呆気ない幕切れだな」
「全くだ。だが、その自滅の規模は凄まじいものだぞ、バラン」
ベルフェは骸骨の顎をカタカタと鳴らしながら説明を続ける。
「王都の地下に設置され、数百年にわたって王国を支えてきた巨大魔力炉が、突如として臨界を突破し暴走。大規模な魔力爆発と共に、致死量の瘴気を王都全域に撒き散らしました。現在、王都は完全に死の都と化し、王族や貴族、そして王国軍の主力の九割が消滅しております」
「ふふっ……それは素晴らしい光景だったことでしょうね。人間どもの傲慢の象徴が、自らの魔力に溺れて瓦礫と化すなんて」
妖将カーミラが、扇の陰で妖艶にクスクスと笑った。
「さらに」
ベルフェは言葉を継ぐ。
「我らが討伐目標の筆頭であった、勇者アレク率いる『暁の剣』。奴らもまた、王都から遠く離れた常闇の森にて、ただのオーガの群れに敗れ、全滅したことが確認されました」
「……なんだと?」
竜将ドラグ・ゾルが、信じられないというように眉をひそめた。
「あの勇者パーティーが、下等なオーガ風情に後れを取ったというのか? 奴らの持つ聖剣や大魔法は、我が配下の竜たちすらも手こずるほどの威力があったはずだ。いくらなんでも、オーガなどに……」
「それが、事実なのです。回収した映像記録を解析したところ、信じ難いことに、勇者の聖剣は手入れを怠った鈍らのようにボロボロで、オーガの棍棒と打ち合っただけで砕け散りました。聖女の治癒魔法は発動せず、魔法使いの防御結界も紙切れ同然。……まるで、何らかの強大な『加護』を失い、ただの素人に成り下がったかのような有様でした」
ベルフェの報告に、謁見の間は一時的な静寂に包まれた。
「フハハハハハッ!!」
その静寂を破ったのは、魔王ゼアノスの大笑いだった。
「滑稽だな! 我が首を狙うと豪語していた勇者どもが、自らの得物の手入れすらできず、下等魔族の餌食になるとは! そして、我らが軍勢を阻んできた王都は、己の魔力炉の管理すらできずに自爆したか! 人間どもは、ついに自らの無能さによって滅びを招いたのだな!」
魔王の哄笑に、バランやカーミラたちも「我らの勝利は揺るぎない!」と歓喜の声を上げた。
大陸全土を制覇するための最大の障害であった王国と勇者が消滅したのだ。もはや、残る小国や辺境の街など、魔王軍の圧倒的な軍事力の前には赤子も同然である。
「魔王様、ならば直ちに全軍を進発させ、残る人間たちの領土を蹂躙いたしましょう! 我輩の戦槌が、今か今かと血を求めておりますぞ!」
獣王バランが戦意を剥き出しにして進言する。
「ええ。残った人間どもは、全て私の可愛いアンデッドや吸血鬼の眷属にして差し上げますわ」
カーミラも目を細めて舌舐めずりをした。
しかし。
歓喜に沸く幹部たちの中で、ただ一人、智将ベルフェだけが骸骨の顔に深い陰りを落としていた。
「……恐れながら、魔王様、並びに各軍団長。喜ぶのはまだ早いかと存じます」
冷や水を浴びせるようなベルフェの言葉に、バランが不機嫌そうに牙を剥いた。
「なんだと、ベルフェ? 王都も勇者も消えた今、我らに敵対し得る勢力などどこにも残っておらんではないか。貴様はまだ、何か懸念があるというのか?」
「大ありだ、バラン。実は……王国の崩壊と同時期から、大陸の東部、辺境の街『アシュタル』の周辺にて、我が軍の作戦が次々と失敗し、派遣した部隊が悉く音信不通になっているのだ」
「辺境のアシュタルだと? あんな田舎街、辺境伯の私兵と小汚い冒険者が少しいる程度だろう。我が軍の精鋭が手こずるはずがなかろう」
ドラグ・ゾルが鼻で笑う。
「それが、そうではないのだ」
ベルフェは懐から何枚もの報告書を取り出し、空中に魔法で展開した。
「見よ。まず、アシュタルの北、牙石地帯に建設中であった我らが前線基地。ダークナイト・ジェネラルを指揮官として配置していたが、たった数人の集団による強襲を受け、基地は完全に壊滅。ジェネラルも討ち取られ、後日、通信施設も破壊された」
「なっ……ジェネラルが、辺境の冒険者ごときに討たれただと!?」
バランが驚愕に目を見開く。
「それだけではない」
ベルフェは次々と報告書を切り替えていく。
「アシュタルの西、鳴砂の渓谷を封鎖していた部隊も全滅。南西の農業の要衝、フリージア村への略奪部隊も壊滅。東の鉱山街ガレリアの占拠部隊も、たった一日で全滅させられ、街は奪還された。……さらに、私の直属の部下であった死霊術師ネクロマンサー・ゼノンも、地下要塞ごと叩き潰された」
「馬鹿な……!」
ドラグ・ゾルが絶句する。
「たかが辺境の街に、それほどの戦力が潜んでいるというのか? まるで、かつての勇者パーティー以上の機動力と突破力ではないか」
「問題は、それ以上の異常事態が起きていることだ」
ベルフェの頭蓋骨の眼窩で、不気味な青い炎が揺らめいた。
「我々が人間どもの街を攻める際、野生の強大な魔物たちに『呪いの首輪』を嵌め、強制的に使役して前線に立たせていたのは知っているな?」
「ああ。砂塵の魔蠍や鋼角の犀、岩砕の巨獣など……Aランク相当の強力な魔獣どもを使い捨ての兵器として利用する、お前の立てた効率的な戦術だろう?」とカーミラが頷く。
「その、我らが洗脳・呪縛していたはずの強大な魔獣たちが……なぜか悉く人間側に寝返り、我々の部隊を殲滅する片棒を担いだのだ」
「…………は?」
謁見の間にいた全員が、己の耳を疑った。
バランが信じられないというように声を荒らげる。
「おいベルフェ、貴様の頭蓋骨はついに中身が空になったのか!? 我らが使用している『呪縛の首輪』は、魔界の呪詛を凝縮した代物だぞ! 人間の魔道士ごときが、しかも戦いの最中に解除できるはずがない!」
「解除どころではない。魔獣どもは恐怖による支配から解放されただけでなく、自らの意思で、人間たちと親しげに連携して我が軍を粉砕したのだ。……報告によれば、この一連の事態を引き起こしているのは、アシュタルを拠点とする『絆紋亭』と名乗る、小規模な非公式クランだという」
「絆紋亭……」
魔王ゼアノスが、玉座の肘掛けを強く握りしめた。ミシミシと黒曜石がひび割れる音が響く。
「ベルフェよ。そのクランには、魔獣の心すら操る未知の術者がいるとでも言うのか」
「はい、魔王様。生き残った兵の証言を統合すると……そのクランのリーダーらしき青年の右手の甲には、不思議な翠色の痣が輝いているそうです。彼がその光を魔獣に触れさせた瞬間、絶対のはずだった呪縛の首輪は粉々に砕け散り、魔獣は牙を収めて青年にすり寄ったと。……おそらく、彼は『万物を調和させ、いかなる呪いをも解き放つ力』を有しているものと推測されます」
その言葉を聞いて、謁見の間の空気は歓喜から一転、底知れぬ悪寒と焦燥感に包まれた。
魔王軍の強さの根幹は、圧倒的な数の暴力と、魔物たちを恐怖と呪いで縛り付け、狂暴化させて使い捨てる戦術にある。
もし、その呪縛を無効化し、あろうことか魔物たちを味方に引き入れてしまう存在がいるとしたら。それは魔王軍にとって、聖剣を振り回すだけの勇者などよりも、遥かに恐ろしく、システムそのものを崩壊させかねない致命的な「天敵」に他ならない。
「しかも、奇妙な符合があります」
ベルフェがさらに言葉を重ねた。
「その『絆紋亭』のリーダーの青年の容姿や年齢……過去の情報を遡ると、かつて勇者パーティー『暁の剣』に所属しており、彼らが辺境へ追放した『ただの荷物持ち』の特徴と完全に一致するのです」
「なんだと……?」
魔王ゼアノスが、低く唸った。
「王国最強の勇者どもが、自らの手で己の強さの根源を捨てた……。そして、その追放された男が、今度は辺境で我らの前に立ち塞がっているというのか。……なんという皮肉、なんという因果か」
魔王はゆっくりと玉座から立ち上がった。
その巨躯から放たれる圧倒的な闇の魔力が、謁見の間の空間を歪め、赤い絨毯を焦がしていく。四天王たちはその凄まじい覇気に当てられ、思わず深く頭を垂れた。
「……方針を変更する」
ゼアノスの声は、絶対的な冷酷さを伴って響き渡った。
「王国の残党狩りや、小国の蹂躙は後回しでよい。現在の我らにとって最大の、そして唯一の脅威は、辺境アシュタルに巣食う未知の天敵『絆紋亭』だ。このまま放置すれば、我らの軍の基盤たる魔物の使役システムが崩壊し、逆に巨大な魔物の軍勢が我らに牙を剥くことになろう」
「魔王様、ならばこの獣王バランに先陣をお命じください! 我が軍団の圧倒的な暴力で、そのアシュタルという街ごと、青年の四肢を引き千切ってご覧に入れます!」
バランが戦槌を床に叩きつけて咆哮する。
「いえ、魔獣を操るというのなら、私の魅了の魔法とアンデッドの大軍で対処すべきですわ。あちらの心を操る力が強いか、私の支配が強いか、試してみたいものです」
カーミラも妖しく微笑んで進み出る。
「静まれ」
魔王の冷ややかな一瞥に、二人は言葉を飲み込んだ。
「敵は、未知の力を持っている。勇者どもを裏から支え、王都の魔力炉の暴走すら防いでいた可能性がある男だ。決して侮ってはならぬ。……ドラグ・ゾルよ」
「はっ」
名を呼ばれた第四軍団長、竜将ドラグ・ゾルが進み出る。
「お前の率いる竜騎士部隊と、精鋭の飛竜部隊を以て、アシュタルの空を制圧せよ。上空からの圧倒的な機動力と竜のブレスで街を焼き払い、奴らの連携を分断するのだ。そして、その『絆紋』を持つ青年を……必ず殺すか、生け捕りにしろ」
「御意。我が竜の軍勢の前に、辺境のチンピラ冒険者など塵芥も同然。必ずや、魔王様のご期待に応えてご覧に入れます」
「ベルフェ、バラン、カーミラ。お前たちもドラグ・ゾルの作戦を支援しつつ、アシュタルを完全に包囲するための布陣を敷け。……人間どもに、我らが真の恐怖というものを刻み込んでやるのだ」
「「「「ははっ!!」」」」
四天王の力強い返事が、禍々しい謁見の間に木霊した。
王国と勇者が滅び、勝利を確信したはずの魔王軍。
しかし、彼らの胸中には今、未知の力を持つ一人の青年への焦燥と、得体の知れない恐怖が確実に芽生えていた。
絶対的な支配と破壊をもたらす魔王軍の矛先が、今、辺境の穏やかな街アシュタルへと、その黒い切先を完全に向けようとしていた。
忍び寄る暗雲の存在に、アシュタルで笑い合うレインたちが気づくのは、もう少しだけ先のことである。
【現在の魔王軍の動向】
・討伐目標の優先度を「ルミナス王国残党」から「辺境アシュタル及び絆紋亭」へ変更。
・第四軍団長、竜将ドラグ・ゾル率いる竜騎士部隊がアシュタル攻略に向けて進発準備を開始。
・他三名の軍団長も包囲網の構築へ着手。
・魔王軍全体に、「翠色の痣を持つ青年を最優先で排除せよ」との命令が下される。
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