第30話 閑話:砕け散った暁と、王都を覆う絶望の影
第30話 閑話:砕け散った暁と、王都を覆う絶望の影
絶望というものは、ある日突然、雷のように空から降ってくるものではない。
それは足元に空いた小さな、本当に些細な綻びから始まり、真綿でじわじわと首を絞めるように、気がついた時にはすでに全身を底なしの泥沼へと引きずり込んでいるものなのだ。
大陸の中央に位置し、人類の希望の象徴として栄華を誇ってきた王都グランゼル。かつては連日のように華やかなファンファーレが鳴り響き、吟遊詩人たちが勇者パーティー『暁の剣』の偉業を歌い上げていたこの大都市は、今や分厚く重い絶望の暗雲にすっぽりと覆われていた。
北方の絶対防衛線であった『黒鉄の砦』が魔王軍の猛攻により完全に陥落したという知らせは、瞬く間に王都の隅々にまで知れ渡った。市民たちの間には拭いようのない恐怖と混乱が蔓延し、市場の物価は数倍に跳ね上がり、安全な南方の領地へと我先にと逃げ出そうとする貴族たちの馬車で街道は溢れ返っていた。取り残された平民たちは毎日のように王城の正門前に詰めかけ、国軍の出動と勇者の復活を叫んで暴動寸前の騒ぎを起こしている。
しかし、彼らがすがるべき唯一の希望であった勇者たちは、もはや立ち上がることすらできない悲惨な抜け殻と化していた。
* * *
王都から遠く離れた、魔王領との国境地帯に広がる陰鬱な荒野。
降り続く冷たい泥雨の中、かつて世界中から「神に選ばれし希望」として持て囃された勇者パーティー『暁の剣』の面々は、這うようにして泥濘を進んでいた。
「はあっ……はあっ……くそっ……! なんでだ……! なんで俺たちの攻撃が、あの程度の雑魚の魔獣に通じないんだ……ッ!」
勇者アレクの血を吐くような絶叫が、荒野に虚しく反響した。
彼の纏う特注の白銀の鎧――王都の最高位の鍛冶師が三年がかりで鍛え上げたはずの絶対の防具は、今やあちこちに深い亀裂が走り、泥と魔物の返り血で見るも無残に汚れきっていた。かつて王都の貴族令嬢たちをため息と共に魅了した黄金色の髪は、何日も洗われていないせいで脂と泥でどす黒く固まり、生気を失っている。
何よりも彼を絶望させているのは、握りしめている伝説の聖剣だった。本来であれば魔を祓う眩いばかりの神聖な輝きを放つはずの刀身は、今やどす黒い紫色の瘴気にひび割れるように侵され、鈍く不気味な光を明滅させているだけだ。刃こぼれも酷く、重いだけの鉄の棒と化していた。
「ふざけるな……俺は勇者だぞ! 神に選ばれた、世界を救う人間だ! こんなところで、ただのゴブリンの群れ相手に逃げ回るなんて、あり得ない!」
アレクは錯乱したように叫びながら、錆びついた聖剣を無茶苦茶に振り回した。しかし、手入れを怠り瘴気を溜め込んだ剣は、驚くほど重く、彼の体力を無慈悲に削り取っていく。
「うるさい……! アレク、少し黙ってくれ! 君が喚くせいで、僕の集中力が乱れるじゃないか!」
泥まみれのローブを引きずりながら、魔法使いのカインがヒステリックに怒鳴り返した。
かつて天才と謳われた彼の魔法は、今や完全に使い物にならなくなっていた。強力な極大魔法を放つためには、安全な後方と詠唱のための絶対的な時間が必要だ。以前は、魔物の敵意が彼に向かわないよう、レインが命懸けで死角から石を投げ、囮となって戦場を完璧にコントロールしていた。
だが、レインがいなくなった今、カインが詠唱を始めた瞬間に全ての魔物が一斉に彼に襲いかかってくる。恐怖で詠唱は途切れ、無理に魔法を放とうとすれば魔力暴走を起こし、味方を巻き込む大惨事となる。その結果、彼は魔法を使うことすら恐れるようになり、ただ杖を抱えて逃げ惑うだけの足手まといに成り下がっていた。
「私の……私の魔力も、もう限界ですわ……。お腹が空いて……もう一歩も歩けません……」
聖女であり癒し手であるエルナは、泥水に膝をつき、嗚咽を漏らしていた。
レインがいれば、どんな過酷な環境でも温かく栄養満点の食事が用意され、夜は安全な結界の中で熟睡し、魔力を全回復させることができた。しかし今は、カビの生えた硬い干し肉を泥水で流し込むだけの生活だ。結界も張れず、夜通し魔物の襲撃に怯えるため、彼らはもう一週間以上もまともな睡眠をとっていない。
エルナの治癒魔法は魔力枯渇により完全に底を突き、ちょっとした擦り傷すら治せなくなっていた。
「ミラ……ミラはどこに行ったの!? 斥候の彼女が周囲を警戒してくれないと、また奇襲を……!」
「あいつなら、昨日の夜、俺たちの荷物と残り少ない金貨を全部持って逃げたよ!」
アレクがギリッと歯を食いしばり、血の滲むような声で吐き捨てた。
斥候のミラは、パーティーの崩壊をいち早く悟り、彼らを見捨てて保身に走ったのだ。
「ああああっ! なんでだ! なんでこんなことになったんだ! 俺たちは最強だったはずだ! 無能な荷物持ちのレインを追い出して、真のエリートだけで編成した完璧なパーティーになったはずだろうがッ!」
アレクの絶叫は、冷たい雨音にかき消されていった。
彼らは理解していなかったのだ。自分たちが強かったわけではなく、レインという存在が、彼らの弱点を全て完璧にカバーし、快適な環境を整え、文字通り身を粉にして彼らを「最強の勇者」に仕立て上げていたという事実を。
要石を失った城は、どれほど外見が華美であろうとも、僅かな風で呆気なく崩れ去る。
泥濘に塗れた勇者たちの逃避行は、もはや魔王を倒すどころか、明日の命すら保証されない絶望の底へと完全に転がり落ちていた。
* * *
一方、王都グランゼルの王城、国王の執務室。
重厚な扉が乱暴に開かれ、ギルドの総長と情報部の長官が、顔を蒼白にして駆け込んできた。
「へ、陛下! ご報告申し上げます! 緊急事態です!」
「なんだ、騒々しい! 魔王軍がさらに進軍したとでも言うのか!?」
玉座で頭を抱えていた国王が、血走った目で怒鳴りつける。
「い、いえ、魔王軍の動向ではありません。……レイン殿の捜索に向かわせていた、情報部特級密偵のシオンからの定期連絡が……完全に途絶えました!」
「何だと!?」
国王は玉座から立ち上がり、目を見開いた。
「シオンは、我が国が誇る最高の密偵だぞ! 魔力探知に頼らず、あらゆる痕跡からターゲットを見つけ出す技術を持つ彼女が、消息を絶ったというのか!?」
「は、はい……。最後の通信によれば、彼女は『辺境の街アシュタル方面に、異常な品質の素材が流通している痕跡を発見した。ターゲットが潜伏している可能性が高い』と報告していましたが、その後、ぱったりと……。おそらく、ターゲットであるレイン殿の持つ強力な『絆紋』の力により、魔物の群れに襲撃されたか、あるいは……」
「あるいは、なんだ!」
「寝返った、可能性も否定できません……」
情報部長官の震える声に、執務室は凍りつくような沈黙に包まれた。
部屋の隅に控えていた宮廷魔導筆頭が、深く、重い溜息をつきながら歩み出た。
「……陛下。もはや、認めるしかありません。我々は、完全に手遅れなのです」
「手遅れだと……? ふざけるな! 我が国にはまだ、莫大な予算も軍隊もある! たった一人の少年を見つけ出せないなどということが……!」
「予算や軍隊の問題ではありません。レイン殿の持つ『絆紋』……どんな魔物とも心を通わせる神代の力は、我々の想像を遥かに超える領域に達していると推測されます。ギルドに報告されているアシュタル方面での未知の『巨大な浄化と隠蔽の結界』。あれは間違いなく、彼と彼を慕う魔物たちが無意識に形成しているものです」
宮廷魔導筆頭は、机の上に広げられた王国の地図を指し示した。
「あの結界は、外からの敵意や探索の魔法を完全に同化し、乱反射させます。最高峰の密偵であったシオンすら取り込まれた(あるいは排除された)となれば、もはや我々がレイン殿を捕捉する手段は存在しません。我々は、自分たちの手で世界最大の至宝を泥水の中に放り捨て、その価値に気づいた時には、すでに手の届かない場所へと永遠に失われてしまっていたのです」
「そんな……馬鹿な……。では、我が国は……このまま魔王軍に蹂躙されるのを待つしかないというのか……」
国王は力なく玉座に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「彼が七年間、誰にも認められずとも、この国のために裏方として尽くしてくれていたあの時。我々が少しでも彼に感謝し、その価値を認めていれば……今頃、彼は魔王軍をも凌駕する力で、この国を守ってくれていたでしょう」
宮廷魔導筆頭の言葉は、冷酷なまでに事実を突きつけていた。
慢心と傲慢が招いた、取り返しのつかない破滅。
勇者たちは泥の中で絶望に狂い、王都の権力者たちは迫り来る滅びの足音にただ震えることしかできない。
彼らが見下し、追放した一人の心優しい青年が、今や辺境の地でどれほど美しく強固な絆を築き上げているかなど、知る由もなかった。
王都グランゼルに落ちた絶望の影は、もはや誰にも払うことはできず、ただ静かに、そして確実に、この国を終焉へと導いていくのだった。
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