第26話 隠蔽の結界と、影を纏う密偵
第26話 隠蔽の結界と、影を纏う密偵
王都グランゼルが国家の総力を挙げ、莫大な予算と優秀な密偵たちを動員してまで捜索を行っているにもかかわらず、なぜレインの足取りは煙のように完全に途絶えてしまったのか。
その理由は、王都の権力者たちには到底理解できない、自然の摂理と魔力というものの根源的な性質にあった。
ギルドの古い登録資料である "絆紋" にも記されている通り、レインの持つこの固有スキルは「どんな魔物とも心を通わせる」という稀少な才能である。だが、その真の価値は単なる魔物のテイムにとどまらない。絆を結んだ対象が増え、彼らの魔力とレインの魔力が交じり合うことで、周囲の悪意や瘴気を無意識のうちに中和し、浄化する神代の結界として機能し始めていたのだ。
現在、辺境の街アシュタルの丘に位置するクラン『絆紋亭』には、空色小竜のソラ、銀色のウルフのフェル、宝石蜘蛛のルリ、雷鳴の怪鳥ライをはじめとする、高ランクに指定されてもおかしくない強力な魔物たちが集い、完全な調和の中で生活している。彼らの放つ膨大で清浄な魔力は、レインの『絆紋』を要石として一つに束ねられ、巨大で透明なドームとなって丘全体を覆い尽くしていた。
この結界は、外からの敵意や探索の魔法を「自然のノイズ」として乱反射させ、完全に同化してしまう。そのため、王都からどれほど強力な探知魔法を放とうとも、水晶球にはただの「自然豊かな森」としてしか映らない。
レインは意図的に身を隠しているわけではない。ただ、彼と彼を慕う者たちが織りなす温かく強固な『絆』そのものが、理不尽な悪意と追跡を無意識に弾き返しているだけであった。
だが、魔法の目を欺くことはできても、人間の執念と足を使った泥臭い調査までを完全に防ぐことはできない。
その日、一人の少女がアシュタルの街にひっそりと足を踏み入れていた。
* * *
漆黒の外套に身を包み、フードを深く被ったその少女――シオンは、路地裏の影に溶け込むようにして息を潜めていた。
彼女は、王国情報部に所属する特級の密偵である。魔力探知に頼らず、わずかな足跡や物流の不自然な偏り、噂話の断片を繋ぎ合わせることで、ついにこの辺境の街まで辿り着いたのだ。
「……間違いない。ここ最近、この街のギルドから異常な品質の素材が流通している。それに、巨大な魔物を見たという商人の噂……王都が探しているターゲットは、この街にいる」
シオンは乾いた唇を舐め、自身の懐で微かに震える小さな塊をそっと撫でた。
それは、彼女の唯一の相棒であり、共に暗殺や諜報をこなしてきた使い魔――『シャドウ・キャット』の仔猫だった。影に潜み、気配を消すことに特化した希少な魔物だが、数日前に王都の追手から逃れる際に深手を負い、さらに呪毒を受けてしまっていた。
「もう少しだけ我慢して、クロ。ターゲットである『絆紋使い』を見つければ……あるいは、お前のその呪いも解けるかもしれない」
シオン自身も、王国情報部という非情な組織の中で、道具のように使い潰されてきた人間だ。今回の任務も、「見つけ次第、どんな手段を使ってでも王都へ連行しろ。失敗すればお前の居場所はない」と脅されて送り込まれた。
だが、シオンの目的は少し違っていた。王都の惨状と上層部の腐敗を知る彼女は、もしターゲットが本当に魔物を従える力を持っているなら、彼にクロを助けてもらい、そのままこの国から逃亡しようと考えていたのだ。
シオンは影から影へと跳躍し、街のはずれにある小高い丘――ターゲットの拠点であると思われる『絆紋亭』へと近づいていった。
「……なんだ、ここは」
丘の中腹の木の上に身を潜めたシオンは、目の前の光景に息を呑んだ。
庭の周囲には、太陽の光を受けて七色に輝く異常な強度の糸が結界のように張り巡らされている。そしてその内側では、Aランク相当の銀色のウルフと、空色小竜、そして伝説の雷鳴の怪鳥が、まるで家犬のように楽しげにじゃれ合っているではないか。
「あり得ない……あんな強力な魔物たちが、一切の殺気もなく共存しているなんて。情報部の資料にあった『魔物使い』というレベルじゃない……!」
その時だった。
「ウォンッ!」
庭で寝そべっていたフェルが、ピクリと耳を動かし、シオンの潜む木の方へと鋭い視線を向けた。
「しまっ……気づかれた!?」
シオンは慌てて気配遮断のスキルを最大まで引き上げたが、遅かった。上空から空色小竜が滑空してきて、シオンの頭上をくるくると回り始めたのだ。
「きゅるるーっ!」
さらに、背後の枝からシュルシュルという音が聞こえ、振り返ると、瑠璃色の巨大な宝石蜘蛛が、逃げ道を塞ぐように見事な虹色の網を張って待ち構えていた。
完全に包囲された。
シオンは冷や汗を流し、懐の隠し短剣に手をかけた。強力な魔物たちを前に、自分の命はここで終わるのだと覚悟を決めた。
「フェル、ソラ、ルリ、どうしたんだ? お客さんか?」
庭の奥から、エプロン姿の青年がのんびりとした足取りで歩いてきた。彼こそが、王都が血眼になって探している『暁の剣』の元裏方――レインだった。
レインは木の上にいるシオンを見上げると、驚くでもなく、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「……そんな高いところにいると危ないよ。よければ、降りてこないか? ちょうどお昼ご飯ができたところなんだ。うちの子たちが驚かせてしまったなら謝るよ」
「え……?」
シオンは毒気を抜かれたように瞬きをした。不法侵入を試みた怪しい密偵に対して、彼は「ご飯を食べていかないか」と言っているのだ。
「罠……かもしれない」
シオンが警戒を解かずにいると、懐の中にいた影猫のクロが、ふらふらとシオンの腕を抜け出し、そのまま木から飛び降りてしまった。
「あっ、クロ!」
落下するクロを、レインが慌てて両手で優しく受け止めた。
「おっと、危ない。……この子は、君の相棒かい? ひどい怪我をしているし、それに……何かの呪いを受けているな」
レインの右手の甲に刻まれた翠色の痣――『絆紋』が、淡く優しい光を放ち始めた。
その光がクロの体を包み込むと、クロの苦しげな呼吸がスゥッと落ち着き、体から立ち上っていたドス黒い呪いの瘴気が、朝霧のように消え去っていったのだ。
「にゃぁ……」
クロは心地よさそうに目を細め、レインの腕の中で喉を鳴らし始めた。
「な……嘘……治癒師でも解けなかった呪いが、一瞬で……」
シオンは信じられない思いで木から飛び降り、レインの前に降り立った。
「返して……それは、私の相棒よ」
「ああ、ごめん。でも、まだ体力が回復しきってない。よかったら、中で温かいスープでも飲んでいかないか? 君も、ずいぶん疲れているみたいだし」
レインの瞳には、一切の打算や警戒心がなかった。ただ目の前の傷ついた命を放っておけないという、純粋な優しさだけがそこにあった。
* * *
クラン『絆紋亭』のリビングに案内されたシオンは、テーブルに並べられた温かい食事を前にして、戸惑いを隠せずにいた。
「ほーら、遠慮せずに食べな! アタシが森で獲ってきた新鮮な肉のシチューだよ!」
女戦士のアイラが豪快に笑いながら、シオンの前に大盛りの皿を置く。
「……怪我をしているなら、食後に私の特製ポーションを飲んでいきなさい。すぐに良くなるわ」
魔導士のルウが、ツンとした態度の中にも気遣いを見せる。
「はいっ、焼きたてのパンです! たくさん食べてくださいね!」
エリスが満面の笑みでカゴを差し出す。
シオンは震える手でスプーンを取り、シチューを一口口に運んだ。
「……っ!」
その瞬間、じんわりとした温かさと、驚くほどの旨味が口いっぱいに広がり、冷え切っていた胃の腑を優しく満たしていった。王都の冷たい地下室で、硬い干し肉と濁った水だけで生き延びてきた彼女にとって、それは信じられないほど美味しい、命の味だった。
気がつけば、シオンの目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
「あっ……ごめん、なさい……私……」
慌てて涙を拭おうとするシオンに、レインはそっとハンカチを差し出した。
「ゆっくりでいいよ。クロの分も、特別に消化にいいミルク粥を作ったからね」
レインの足元では、すっかり元気を取り戻したクロが、小さな皿のミルク粥を夢中で舐め取っている。
「……私は、王都から派遣された情報部の密偵です。あなたを、王都へ連れ戻す任務を帯びてきました」
シオンはスプーンを置き、全てを打ち明ける覚悟を決めた。
「王都は今、魔王軍の侵攻でパニックに陥っています。勇者パーティー『暁の剣』は完全に崩壊し、国王はあなたを救世主として探し出そうと血眼になっています。……私は、あなたを捕らえるためにここへ来たんです。なのに……どうして、こんなに優しくしてくれるんですか」
レインは少し驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「俺は救世主なんかじゃないよ。ただの、雑用が得意な冒険者だ。……君が王都の人間だろうと、俺たちにとっては『お腹を空かせて、怪我をした相棒を助けようとしている一人の女の子』にすぎない。だから、ご飯を食べてほしかった。それだけさ」
「……」
「それに、君は俺を捕まえなかった。クロを助けるために、一人で無理をしてここまで来たんだろう? よく頑張ったね」
その言葉は、シオンが生まれて初めてかけられた、純粋な労いの言葉だった。
「道具として扱われるのは、もうウンザリだろ? もし王都に帰りたくないなら、ここにいればいい。うちのクランは、訳ありのはみ出し者ばかりだからね。君みたいな凄腕の密偵が仲間になってくれたら、これほど心強いことはないよ」
シオンは、レインの真っ直ぐな瞳と、周囲で笑い合う温かい仲間たち、そしてレインの足元で無防備に腹を見せて眠るクロの姿を見た。
王都へ帰れば、また非情な任務と死と隣り合わせの冷たい日々が待っている。
だがここには、命を慈しみ、共に笑い合える確かな居場所がある。
「……私を、ここに置いてください。もう王都には戻りません。あなたの……皆さんのために、私の技術を使ってください……っ!」
シオンは深く頭を下げ、声を上げて泣き崩れた。
アイラが優しくシオンの背中を撫で、エリスがそっと寄り添う。
こうして、王都から派遣された冷徹な密偵は、その仮面を脱ぎ捨て、『絆紋亭』の新しい家族として迎え入れられることになった。
* * *
数日後。
クランの庭では、新しい生活にすっかり馴染んだシオンの姿があった。
彼女は新しい仕立屋リナに作ってもらった機能的で美しいお揃いのマントを羽織り、真剣な表情で庭の警備網――ルリの糸を使ったトラップの改良を行っていた。
「うん、この角度なら死角はない。レインさんたちの安全は、私が完璧に守ってみせる」
その肩には、すっかり甘えん坊になった影猫のクロがちょこんと乗っている。
「シオン、お茶が入ったよ。少し休憩しないか?」
縁側からレインが声をかけると、シオンはパッと顔を輝かせ、小走りで駆け寄ってきた。
「はいっ! 今行きます、レインさん!」
その笑顔には、もう暗殺者としての冷たい影は微塵も残っていない。ただの一人の、年相応の可愛らしい少女の顔だった。
レインは仲間たちの笑い声を聞きながら、温かいハーブティーを口に運んだ。
王都の絶望も、勇者たちの破滅も、ここには届かない。彼らが織りなす絆の結界は、どんな強大な魔法よりも確かな強さで、この穏やかな日常を守り続けている。
急ぐ必要はない。彼らの物語は、これからもこの温かい庭で、どこまでも優しく紡がれていくのだ。
【現在のステータス】
名前:レイン
職業:冒険者(クラン『絆紋亭』マスター)
称号:追放されし者 / 魔物に愛されし者 / 辺境の癒し手 / 森の守護者 / 大地の開拓者
Lv:32(※高度な呪いの浄化によりアップ)
HP:340 / 340
MP:140 / 140
【スキル】
・生活魔法 Lv.9
・剣術 Lv.3
・解体 Lv.5
・野営技術 Lv.9
・野戦調薬 Lv.7
・植物知識 Lv.7
・建築・修繕 Lv.8
・鑑定 Lv.4
・気配察知 Lv.6(※シオンの技術を観察し向上)
・魔導知識 Lv.4
・料理 Lv.7
【固有スキル】
・絆紋:対象の魔物と心を通わせ、警戒心を解き放つ。集った魔物たちの魔力を調和させ、巨大な隠蔽と浄化の結界を無意識に形成している。
【クラン『絆紋亭』メンバー】
・空色小竜:絆レベル5
・銀色のウルフ(フェル):絆レベル5
・ポーションラビット(ピコ):絆レベル5
・クリスタル・ゲッコー(ルチル):絆レベル4
・スピリット・フォーン(ミエル):絆レベル4
・クリア・スライム(スイ):絆レベル4
・宝石蜘蛛:絆レベル4
・雷鳴の怪鳥:絆レベル4
・シャドウ・キャット(クロ):新規合流 / 絆レベル3
・ウールシープの群れおよび森の小動物たち
・アイラ(女戦士・正式なクラン協力者)
・ルウ(魔導士・正式なクラン協力者)
・ゴット(薬師・正式なクラン協力者)
・エリス(見習い魔導士・クランメンバー)
・ドーラ(ドワーフの若き職人・クラン専属建築士兼鍛冶師)
・リナ(服飾職人・クラン専属仕立屋)
・シオン(元王都特級密偵・クラン専属防衛担当として新規加入)
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