第20話 閑話:王都の絶望
第20話 閑話:王都の絶望
大陸の中央に位置し、華やかな文化と堅牢な城壁に守られた人間族の最大拠点、王都グランゼル。
かつては連日のように勇者パーティー『暁の剣』の輝かしい戦果が報じられ、街角では吟遊詩人たちが彼らの英雄譚を歌い上げ、活気と希望に満ち溢れていたその場所は、今、重苦しい絶望の暗雲にすっぽりと覆われていた。
王城の最上階に位置する、円卓の間。
普段は国家の最重要決定を下すために用いられるその豪奢な部屋は、現在、ひどく張り詰めた、息が詰まるような沈黙に支配されていた。
円卓の上座に座る国王の顔には、かつての威厳ある余裕は微塵もなく、深い疲労と焦燥の色が色濃く刻み込まれている。その周囲を取り囲む大臣たち、王国騎士団長、そして冒険者ギルドの総長もまた、一様に顔面を蒼白にさせ、誰一人として口を開こうとしなかった。
「……それで」
沈黙を破ったのは、国王の低く、かすれた声だった。
「北方の防衛線である『黒鉄の砦』が、魔王軍の先陣によって完全に突破されたというのは、紛れもない事実なのだな?」
その問いに対し、白髪交じりの王国騎士団長が、重々しい金属音を鳴らして立ち上がり、深く頭を下げた。
「……はっ。大変遺憾ながら、昨夜未明、砦を守備していた第三騎士団は壊滅。生き残った兵士たちは散り散りになりながら後退を続けております。魔王軍の進行速度は我々の想定を遥かに上回っており、このままでは十日と経たずに、王都の絶対防衛圏内にまで敵の軍勢が雪崩れ込んでくる計算になります」
「馬鹿な……!」
財務大臣が悲鳴のような声を上げた。
「黒鉄の砦は、難攻不落の要塞のはずだ! それに、あそこには魔王軍の幹部クラスに対する絶対の抑止力として、勇者パーティー『暁の剣』が派遣されていたはずではないか! 彼らがいれば、いかに魔王軍の軍勢といえども……!」
「その『暁の剣』が……」
冒険者ギルドの総長が、重い口を開いた。彼の顔には、この世の終わりでも見たかのような絶望が浮かんでいた。
「彼らが、魔王領の入り口である『死者の回廊』において、魔王軍の幹部『地獄の番犬』と遭遇し……手も足も出ずに敗走したのです。彼らは緊急転移の魔石を使って辛うじて王都へと逃げ帰ってきましたが、もはや……戦えるような状態ではありません」
「戦える状態ではないだと? どういうことだ! 彼らは神に選ばれし勇者と聖女、そして稀代の天才魔法使いの集まりであろう!」
国王が玉座の肘掛けを強く叩き、立ち上がった。
「軽傷ならば、国庫にある最高級の霊薬を惜しみなく使え! 王宮の神官たちを総動員してでも、今すぐ彼らを前線に復帰させるのだ! 彼らがいなければ、この国は、人類は終わりなのだぞ!」
国王の怒号が部屋に響き渡るが、ギルド総長は首を横に振った。
「……陛下。事態は、肉体的な負傷の問題ではないのです。彼らは……完全に『壊れて』しまっております。よろしければ、私が直接視察に向かった、王立療養院の現状をお聞きください」
ギルド総長は、手元の羊皮紙の報告書を見つめながら、暗い声で語り始めた。
現在、王都の最も奥まった場所にある王立療養院の特別室。
そこには、かつて世界中から称賛と期待を一身に浴びていた四人の若者たちが収容されている。
だが、彼らの姿にかつての輝きは欠片も残されていなかった。
勇者アレク。
黄金の髪と端正な顔立ちで、常に自信に満ち溢れていた彼は、今や部屋の隅で膝を抱え、虚ろな目で壁の染みを見つめ続けている。王都の最高位の鍛冶師が打ち上げた白銀の鎧は砕け散り、彼が命よりも大切にしていたはずの伝説の聖剣は、刀身がどす黒く変色し、刃こぼれだらけの鉄屑と化して床に転がっていた。
療養院の職員が食事を運んでいっても、彼は「……こないでくれ……俺は勇者じゃない……食われる……あいつに、見捨てられたんだ……」と、うわ言のように繰り返すだけで、自発的に動こうともしない。魔王軍の圧倒的な恐怖と、自らの絶対的な敗北が、彼の精神を完全に破壊してしまっていた。
魔法使いのカイン。
数百年に一人の天才と謳われ、傲慢なまでに自らの才能をひけらかしていた彼は、両手を厚い包帯でぐるぐる巻きにされたまま、ベッドの上で狂ったように泣き叫んでいた。
「熱い! 手が、手が燃える! 俺の魔法が……俺の魔力が俺を焼き尽くす! 嫌だ、魔法なんて使いたくない! 杖を持たせないでくれ!」
彼は迷宮の濃密な瘴気の中で魔法を暴走させ、自らの手で重度の火傷を負っていた。肉体的な火傷は治癒魔法で塞がったものの、マナの暴走というトラウマが彼の魂に深く刻み込まれ、もはや魔力のわずかな流れを感じるだけでパニック発作を引き起こす廃人となってしまった。
聖女エルナ。
清らかな純白の法衣を身に纏い、人々に神の愛を説いていた彼女は、窓際の椅子に座り、自分の髪を力任せに引き抜き続けていた。
「神様……ごめんなさい、ごめんなさい……。私たちが間違っていました……。彼を、あの優しい人を追い出したから……罰が当たったのですね……。私の祈りはもう届かない……黒い泥が、私の中に入ってくる……」
彼女の美しい金糸の髪はあちこちが抜け落ちて斑になり、その瞳は狂気に濁っていた。他者の痛みを癒やすはずの彼女自身が、最も深い魂の闇に落ち、自らを傷つけることしかできなくなっていた。
斥候のミラ。
かつては誰よりも素早く、冷静に戦場を見渡していた彼女は、ベッドの下の狭い隙間に潜り込み、毛布を被ってガタガタと震え続けている。
「来る……足音が聞こえる……暗闇から魔物が来る……! 見えない、見えないよぉ……誰か、明かりを……レイン、明かりをつけて……罠がある、レイン助けて……!」
少しでも足音が聞こえるだけで悲鳴を上げ、自分の爪を噛み剥がすほどに怯え切っている。彼女の索敵能力は、迷宮の悪意にあてられたことで『幻聴』と『幻視』を絶え間なく引き起こす呪いと化してしまっていた。
「――これが、我が国の『希望』の惨状です」
ギルド総長が報告を終えると、円卓の間に重く、凍りつくような沈黙が降りた。
「嘘だ……」
国王が、力なく玉座に崩れ落ちた。
「彼らは、ほんの一ヶ月前には、脅威とされていた古竜すら無傷で討伐して凱旋したではないか……! それが、なぜ突然……たった一度の迷宮探索で、ここまで完膚なきまでに破壊されるというのだ!? 魔王軍の幹部が、それほどまでに規格外の力を持っていたとでも言うのか!」
国王の悲痛な叫びに答えたのは、部屋の隅に控えていた、王国最高の頭脳と謳われる白髭の宮廷魔導筆頭だった。
彼は分厚い資料の束をテーブルの中央に広げ、深く、重い溜息をついた。
「陛下。魔王軍の幹部が強大であったのは事実です。ですが、問題の根本はそこではありません。彼ら『暁の剣』が、一ヶ月前と今とで、決定的に『欠落』させてしまったものがあるのです」
「欠落だと? 装備も支援も、国を挙げて最高のものを与え続けていたはずだぞ!」
「ええ、物質的な支援は完璧でした。欠落したのは……人員です。正確には、彼らが一ヶ月前にパーティーから『無能だ』として追放した、一人の裏方担当の少年の存在です」
「裏方……? ああ、たしか『レイン』とかいう、魔力も剣の腕も平均以下の、荷物持ちの少年だったか。そのような雑用係の一人がいなくなった程度で、勇者たちが崩壊するわけがなかろう!」
騎士団長が声を荒らげるが、宮廷魔導筆頭は鋭い視線でそれを制した。
「その『雑用』の内容を、我々は根本から履き違えていたのです。……ギルドの記録と、勇者たちが残した日誌、そして今回の敗北の状況を照らし合わせ、私は信じがたい結論に至りました」
宮廷魔導筆頭は、一枚の羊皮紙を取り上げ、震える指でそれを指し示した。
「まず、勇者の聖剣。あれは神聖な力を宿す代わりに、非常に繊細な手入れを必要とします。毎日の研磨、聖水での清め、魔力経路の調整……それを少しでも怠れば、あっという間に瘴気に侵され、ただの鉄屑になります。勇者アレクは、自分自身の力で剣が輝いていると思い込んでいましたが、実際にその完璧なメンテナンスを毎日、睡眠時間を削って行っていたのはレインでした」
「な……」
「次に、魔法使いのカイン。彼の極大魔法は威力が高い反面、詠唱に時間がかかり、無防備になります。これまでの戦闘記録を見ると、彼が魔法を放つ際、周囲の魔物のヘイト(敵意)は常に不自然なほど彼から逸れていました。我々はそれをカインの隠密魔法だと思っていましたが……違います。レインが死角から魔物に石を投げ、微弱な魔法を当て、自らが囮となって完璧に戦場をコントロールしていたのです」
大臣たちの間に、ざわめきが広がっていく。
「さらに、聖女エルナ。彼女の祈りが神に届くためには、周囲のマナが清浄でなければなりません。魔王領のような濃密な瘴気の中では、本来、祈りなど通じるはずがないのです。しかし、彼らが過去に魔境を攻略できた理由……それは、レインが持つ謎の力にありました」
「謎の力、だと……?」
「はい。ギルドの古い登録資料に、彼が右手に奇妙な痣を持っていたという記述があります。一部の古文書に記された伝承……『絆紋』。魔物と心を通わせ、周囲の悪意や瘴気を無意識のうちに中和し、浄化する、失われた神代の力。レイン自身も気づいていなかったかもしれませんが、彼がパーティーにいるだけで、周囲の空間は常に清浄に保たれ、精神汚染から守られていたのです」
宮廷魔導筆頭は、資料をテーブルに置き、絶望的な結論を口にした。
「つまり……『暁の剣』というパーティーは、勇者や天才たちの集まりなどではなかった。レインという一人の少年が、その規格外の献身と未知の力によって、四人の凡人を『勇者』に仕立て上げていただけの、砂上の楼閣だったのです。要石を自らの手で捨てた彼らが、魔王領の悪意の前に一瞬で崩壊するのは、火を見るより明らかな必然でした」
静寂。
完全な、そして底知れない恐怖に満ちた静寂が、円卓の間を支配した。
自分たちが世界を救うと信じて投資し、持て囃してきた勇者たちが、実は一人の少年の見えない庇護の上で踊っていただけのピエロに過ぎなかった。
そして、その少年を「足手まとい」として追い出した結果が、現在の国家存亡の危機を招いている。
「なんという……なんという愚かなことを……!」
国王が、両手で顔を覆い、絞り出すような声でうめいた。
「我々は、真の『勇者』を、自らの手で辺境へと追いやったというのか……!」
「陛下、悔やんでいる時間はありません!」
王国騎士団長が、血走った目で叫んだ。
「魔王軍の進撃は止まりません! 今すぐ、そのレインという少年を捜索し、王都へ呼び戻すのです! 彼がいれば、あるいは彼がもう一度勇者たちを支えてくれれば、この絶望的な状況を覆せるかもしれない!」
「そうだ! すぐに国中の情報網を駆使しろ! 彼にいくら金積んでも構わん! 爵位でも、領地でも、望むものは何でも与えると伝えろ! 彼を、我々の真の救世主を、一刻も早く探し出すのだ!!」
国王の悲痛な命令が飛び交い、王都の中枢はかつてないほどのパニックと混乱の渦に飲み込まれていった。
伝令の騎士たちが血相を変えて飛び出し、ギルドの情報部隊が総動員され、国境検問所の記録がひっくり返される。
しかし、彼らはまだ気づいていない。
一度完全に断ち切られ、無情に捨てられた絆が、金や権力といった薄っぺらなもので再び繋ぎ止められることなど、絶対にあり得ないということを。
* * *
その頃。
王都グランゼルから遠く離れ、魔王軍の脅威すらまだ届かない平和な辺境の街、アシュタル。
そのはずれにある、豊かな緑と美しいハーブガーデンに囲まれた小高い丘の拠点では、信じられないほど穏やかで、幸福に満ちた時間が流れていた。
「おーいレイン! 窯の火の調子はどうだい? そろそろ鉄が打てそうか?」
ゴーグルをおでこに乗せたドワーフの少女ドーラが、中庭から元気に声を上げる。
「ああ、完璧だよ! マグマ・トータスからもらった炎精石のおかげで、最高の温度をキープしてる」
俺は分厚い革手袋をはめ、額の汗を拭いながら笑顔で答えた。
「きゅるるーっ!」
空色小竜のソラが、俺の頭上をくるくると楽しげに飛び回る。
「ウォンッ!」
「キュイッ!」
銀色のウルフであるフェルと、ポーションラビットのピコが、新しく完成したばかりの露天風呂の周りで追いかけっこをしている。
クリア・スライムのスイは、縁側でぽかぽかと日差しを浴びながらプルプルと気持ちよさそうに揺れ、クリスタル・ゲッコーのルチルと精霊獣のミエルは、エリスが用意した特製のおやつを美味しそうに頬張っていた。
「ねえレイン、今日のお昼ご飯は何にするの? 私、昨日のあの森のキノコを使ったパスタがまた食べたいわ」
ルウが、杖を磨きながらツンとした態度で、しかし期待に満ちた目で聞いてくる。
「よっしゃ、ならアタシが川ででかい魚を釣ってきてやるよ! キノコと魚のパスタ、最高じゃないか!」
アイラが豪快に笑い、釣り竿を担いで立ち上がった。
「ほっほっほ、ならばワシは、そのパスタに合う特製の薬草茶を淹れるとしようかのう」
ゴットが穏やかに髭を撫でる。
賑やかで、優しくて、誰もが誰かを必要としている場所。
世界がどれほどの絶望に包まれようと、王都の権力者たちがどれほど焦燥に駆られようと、この『絆紋亭』の庭に流れる温かな時間は、誰にも奪うことはできない。
俺は、仲間たちと魔物たちの笑い声を聞きながら、どこまでも高く青く澄み渡る辺境の空を見上げた。
急ぐ必要なんて、やっぱりどこにもない。
俺たちの穏やかで幸せな冒険譚は、これからもこの場所で、ゆっくりと紡がれていくのだから。
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