第15話 閑話:泥に塗れた聖剣と、失われた要石――『暁の剣』の崩壊
第15話 閑話:泥に塗れた聖剣と、失われた要石――『暁の剣』の崩壊
絶望というものは、ある日突然、雷のように空から降ってくるものではない。
それは足元に空いた小さな、本当に些細な綻びから始まり、真綿でじわじわと首を絞めるように、気がついた時にはすでに全身を底なしの泥沼へと引きずり込んでいるものなのだ。
アシュタルの街から遥か遠く離れた、大陸の最北端に広がる魔王領。その入り口にそびえ立つ『死者の回廊』と呼ばれる呪われた地下迷宮の最深部で、かつて世界中から「神に選ばれし希望の星」として持て囃された勇者パーティー『暁の剣』の面々は、今やその眩しい栄光の面影を完全に失っていた。
彼らはただ死の恐怖に怯える惨めな敗北者として、湿ってぬるぬるとした苔の生える岩陰にうずくまり、荒い息を吐き出していた。
「はあっ……はあっ……くそっ……! なんでだ……! なんで俺たちの攻撃が、あの程度の雑魚の魔獣に通じないんだ……ッ!」
勇者アレクの、血を吐くような絶叫が、苔むした地下水路の壁に虚しく反響した。
彼の纏う特注の白銀の鎧――王都の最高位の鍛冶師が三年がかりで鍛え上げ、いかなる魔物の爪も弾き返すと豪語したはずの絶対の防具は、今やあちこちに深い亀裂が走り、見るも無残にひしゃげていた。かつて王都の貴族令嬢たちをため息と共に魅了した黄金色の髪は、何日も洗われていないせいで埃と脂と魔物の返り血でどす黒く固まり、完全に生気を失っている。
彼が両手で縋るように握りしめている伝説の聖剣ですら、本来の眩いばかりの神聖な輝きは見る影もなかった。刀身全体が、まるで血管が浮かび上がるようにどす黒い紫色の瘴気にひび割れるように侵され、鈍く不気味な光を明滅させているだけだ。刃こぼれも酷く、今やただの重い鉄の棒と化していた。
「アレク様……もう、魔力ポーションも、回復の聖水も……一つも残っていません……! これ以上傷を負えば、全員、ここで死んでしまいます……!」
聖女エルナの悲痛な叫びが、暗い迷宮の底に響き渡った。
純白の法衣は原形をとどめないほどに引き裂かれ、泥と魔物の粘液でひどい悪臭を放っている。回復魔法の奇跡を司り、神の愛し子とまで称された彼女の両手は、激しい疲労と、限界を超えた魔力枯渇によって激しく痙攣していた。
もはや彼女の桜色の唇から、神聖な祝詞が紡ぎ出されることはない。周囲に満ちる濃密な瘴気が彼女の祈りを遮断し、神との繋がりを完全に絶ち切ってしまっていたからだ。彼女の目からは、ただ後悔と絶望の涙がとめどなく溢れ落ち、泥だらけの頬に白い筋を作っていた。
「ふざけるな……! おかしい、絶対におかしいんだ……!」
魔法使いのカインは、壁にもたれかかるようにして座り込み、うわ言のように頭を抱えていた。
彼の足元には、かつて「国宝級」と謳われた一級品の魔導杖が、無残にも二つにへし折られて転がっている。彼自身の両手は、暴発した自らの魔法の炎によって酷い火傷を負い、赤黒く爛れていた。
「俺の計算では、俺の魔力効率ならば、この階層の魔物など一網打尽にできるはずだったんだ……! なぜだ、なぜ俺が詠唱するたびに周囲の魔力が反発し、暴走するんだ……っ! 空気が、マナが濁りきっている……こんな環境で魔法など、まともに使えるわけがないだろうがッ!」
斥候のミラは、暗闇の向こうから聞こえる不気味な魔物の足音に怯えながら、両腕で自らの身を強く抱きしめてブルブルと震えていた。
「嫌だ……帰りたい……王都に帰りたいよぉ……っ! 足音がいっぱい聞こえる……罠の解除なんて無理だ、指先が凍りついて動かない……それに、索敵スキルを使っても、ノイズばかりで何も見えない……っ!」
彼女の得意とする隠密や索敵能力は、この迷宮に立ち込める濃密な瘴気と悪意の前では全く役に立たず、今やいつどこから凶刃が襲いかかってくるか分からない恐怖に精神を極限まですり減らしていた。かつて自慢にしていた美しく手入れされた爪はすべて折れ、泥と血がこびりついている。
極限のストレスと疲労の中で、四人の間にはひどく重く、醜い沈黙が降りていた。
王都を出発したあの日、彼らは自分たちが世界を救う絶対的な存在だと信じて疑わなかった。魔王討伐など、自分たちの天賦の才と圧倒的な武力があれば、容易い通過点に過ぎないと、心の底から高を括っていたのだ。
街を出る時の歓声、王様からの期待の眼差し、吟遊詩人たちが歌う自分たちの英雄譚。すべてが彼らのプライドを肥大化させ、真実を見る目を曇らせていた。
だが、その慢心は、魔王領に足を踏み入れた瞬間に音を立てて砕け散った。
――いや、正確には、もっと前から彼らの歯車は狂い始めていたのだ。
数日前、彼らは魔王領への入り口付近で、野営を行っていた。
しかし、誰もテントの設営をまともにできず、見張りの交代も機能しなかった。食事にいたっては悲惨の一言だった。高級な干し肉や保存食は持ち込んでいたものの、誰もまともな火おこし一つできず、冷たく硬い肉を無言で咀嚼するしかなかった。
夜になれば、安全な結界が張られていないため、絶え間なく小悪魔やアンデッドが襲撃してくる。睡眠時間は削られ、疲労は蓄積し、やがてお互いの些細なミスをなじり合うようになった。
「お前の索敵が甘いから奇襲されたんだろうが!」
「何よ! あんたこそ剣を振るのが遅いのよ!」
「エルナ、回復が遅いぞ! もっと早くヒールをかけろ!」
「無理です! カインの魔法が邪魔で前に出られません!」
そんな口論が日常茶飯事となり、パーティーの空気は最悪だった。
そして、戦闘における決定的な「違和感」。
かつてであれば、アレクが前に出て剣を振るい、カインが後方から大火力の魔法を放ち、エルナが支援し、ミラが遊撃する――その完璧な陣形が、面白いように機能していた。
だが今は違う。
アレクが渾身の力で剣を振り下ろす瞬間、なぜか足元に石が転がっていてバランスを崩す。あるいは、剣の刃が魔物の硬い鱗に弾かれ、手首に激痛が走る。
カインが極大魔法の詠唱を始めると、必ずと言っていいほど、背後や死角から小さな魔物が嫌がらせのように飛びかかってきて、詠唱を中断させられる。
ミラの索敵から漏れた魔物が、一直線に後衛のエルナを狙い、パーティー全体がパニックに陥る。
最初は「運が悪い」と思っていた。魔王領の魔物が強いからだと言い訳をしていた。
だが、幾度となく死線をさまよううちに、アレクの脳裏に、ある恐るべき仮説が浮かび上がったのだ。
戦闘中の、絶妙なタイミングでの敵の足止め。
誰も気づかない死角から忍び寄る魔物の気配の察知と、その確実な処理。
夜営地における完璧な結界の展開と、誰よりも早く起きて全員の武器をピカピカに磨き上げていた細やかな気配り。冷たく硬い干し肉を、温かく栄養満点のシチューに変えてくれていた魔法のような手際。
そして何より――彼らが無意識のうちに浴び続けていた暗黒大陸の呪いや精神汚染を、その身を挺して、あるいはその特殊な『絆紋』の放つ微かな波紋によって、無言のまま浄化し続けてくれていた存在。
「……レイン」
アレクの口から、ひどく乾いた声がこぼれ落ちた。
その名を聞いた瞬間、エルナ、カイン、ミラの三人が、弾かれたように顔を上げた。
――「お前はもう、いらない」
王都の高級宿の円卓で、アレクが冷酷な口調で言い放ったあの言葉が、今になって呪いのように彼らの鼓膜に蘇る。
――「魔力量は最下位、剣の腕も平均以下。これ以上連れていく理由がない」
あの日、彼らは心底そう思っていた。才能のない男が、自分たちのような天才の足を引っ張っているのだと。彼さえ切り捨てれば、彼に割いていた僅かなポーションや食料も浮き、自分たちはもっと高く、もっと速く進めるのだと。
だが、真実は全くの逆だった。
剣の手入れを怠れば、いかに国宝級の名剣といえども刃こぼれし、魔物の分厚い皮を斬れなくなる。
戦場で周囲へのヘイト(敵意)を緻密にコントロールし、後衛に安全な魔法詠唱の時間を稼いでくれていたのは、他でもない、泥だらけになって立ち回っていたレインだった。
そして、魔王領の瘴気を薄れさせ、聖女の祈りを神へ届かせ、魔法使いのマナの暴走を防いでいたのも、彼の持つ『絆紋』が放つ、魔物を鎮め、空気を浄化する不可視のオーラだったのだ。
自分たちが天才として輝けていたのは、レインという名の、最強の「要石」が、彼らの足元を泥まみれになりながら支え続けてくれていたからに他ならなかった。彼がいなくなった途端に、砂上の楼閣であった『暁の剣』の強さは、呆気なく崩れ去ったのだ。
「あぁ……あああああっ……!」
カインが、自らの爛れた手を掻きむしりながら狂ったように泣き叫んだ。
「俺たちは……俺たちはなんて馬鹿なことをしたんだ……! あいつは無能なんかじゃなかった……! あいつの完璧なサポートがあったから、俺の魔法は完成していたんだ! あいつがいなければ、俺たちはただの烏合の衆じゃないか……!」
「ごめんなさい……ごめんなさい、レイン……っ!」
エルナも泥だらけの顔を覆い、しゃくり上げながら崩れ落ちた。
「私、あの時……あなたが理不尽に追放されるのを見て見ぬふりをした……。あなたがいなくなって、宿の部屋が広く使えるようになって清々したなんて、そんな恐ろしいことまで考えていた……。だから、神様に見放されたのね……っ」
「嫌だ、嫌だ嫌だ……! 誰か助けて……! レイン、レイン助けてよぉ……っ! もう文句言わないから、あんたの作ったスープ、不味いなんて言わないからぁ……! 全部私が悪かったから、お願いだから助けに来て……!」
ミラは完全に錯乱し、見えない虚空に向かって手を伸ばして、必死に許しを乞うていた。
遅すぎる。
あまりにも遅すぎる後悔だった。
アレクは、ひび割れた聖剣を杖代わりにして、ガクガクと震える足でゆっくりと立ち上がった。
「……レイン……お前は、自分がどれだけ重要な存在か、知っていたのか……? 知っていて、俺たちに追放されるとき……あんなに穏やかな顔で、俺たちを許したのか……?」
――「……そっか。なら、いいや」
あの時のレインの微かな微笑みが、脳裏を焼き尽くすようにフラッシュバックする。
あんなにも献身的に尽くしてくれた男を、自分たちはゴミのように捨てた。その報いが、今、圧倒的な死という形をとって押し寄せようとしていた。
ズズン……ッ!
迷宮の奥底から、これまでとは比較にならないほどの重低音が響き渡った。
暗闇の中から、瘴気を割って姿を現したのは、三つの巨大な首を持ち、全身から地獄の業火を噴き出す凶悪な魔獣――魔王軍の幹部クラスである『地獄の番犬』だった。
その三対の燃え盛る赤い瞳が、這いつくばる四人の「元・勇者パーティー」を、ゴミでも見るかのように無慈悲に見下ろしている。
「グルルルルルルルルッ……!!」
鼓膜を破るような咆哮と共に、圧倒的な死の気配が迷宮を埋め尽くした。
熱風が吹き荒れ、彼らの肌を焦がす。
「……あぁ……終わりだ……」
アレクは、もはや剣を構える気力すら失い、カラン、と音を立てて聖剣を石畳の上に落とした。そして、ただ呆然とその巨大な牙が迫り来るのを見上げていた。
自分たちが手放してしまった、最も尊く、最も必要だった「絆」。
それを失った者たちに用意された結末は、あまりにも惨めで、誰にも知られることのない冷たい蹂躙だけだった。
「きゃあああああっ!!」
「ぐああぁぁぁぁっ!!」
暗黒の回廊に、絶望の悲鳴と、肉が焼ける音が断末魔のように響き渡った。
彼らは全滅こそ免れたものの、持っていた全財産をつぎ込んで買っていた『緊急転移の魔石』が発動し、這々の体で迷宮から弾き出された。王都の裏路地のドブ川に放り出された彼らは、武器も防具も名声も、そして勇者としての誇りもすべて失い、一生消えない傷と恐怖を抱えて、二度と冒険者として立ち上がれない廃人同然の姿へと成り果てたのだった。
* * *
一方その頃。
凄惨な血の匂いや、絶望の悲鳴など欠片も届かない、遠く離れた辺境の街アシュタル。
そのはずれにある、豊かな緑と美しいハーブガーデンに囲まれた一軒家――非公式クラン『絆紋亭』の拠点では、信じられないほど温かく、そして賑やかな時間が流れていた。
「ほーらソラ、フェル、ピコ! ルチルにミエルも! 今日はお前たちのために、西の森で採れた特上の魔ボア肉と、新鮮な野菜をたっぷり使った特製シチューを作ったぞ!」
満天の星空の下、庭の広々としたテラスで、ランタンの温かな琥珀色の光に照らされながら、俺ことレインは大鍋をかき混ぜ、芳醇な香りを漂わせていた。
じっくりと煮込まれた肉はスプーンでほぐれるほど柔らかく、数種類のハーブとスパイスが絶妙なバランスで溶け合っている。
「きゅるるーっ!!」
「ウォンッ!」
「キュイッ!」
「キュキュッ!」
「キュゥ~ン♪」
空色小竜のソラ、銀色のウルフであるフェル、ポーションラビットのピコ、クリスタル・ゲッコーのルチル、そして精霊獣のミエルが、目をキラキラと輝かせて尻尾を振り、俺の周りを嬉しそうに飛び跳ねている。ウールシープの群れも、エリスが用意した特別な干し草をモグモグと美味しそうに食べていた。
「相変わらず、レインの作る飯は世界一美味いねぇ! このシチュー、エールが無限に進んで仕方がないよ!」
巨大な戦斧を傍らに置いたアイラが、豪快に木製のジョッキを傾けながら、大口を開けて笑い声を上げる。
「ちょっとアイラ、飲みすぎよ。また明日二日酔いになっても知らないわよ……でも、確かに今日のシチューは絶品ね。スパイスの調合が完璧だわ」
ルウも、ツンとした態度を取りながらも、頬を緩めて何度もおかわりをしている。
「ほっほっほ、皆でこうして美味しい食卓を囲み、笑い合う時間こそが、何よりの長生きの秘訣というものじゃな」
ゴットが穏やかに髭を撫で、温かいシチューを味わう。
「はいっ! 私、こんなに美味しくて温かいご飯、今まで食べたことありません! レイン様、本当にお料理がお上手ですね!」
新しく仲間に加わった見習い魔導士のエリスが、満面の笑みで大きく頷いていた。
ランタンの光が、集まった人間の仲間たちと、愛すべき魔物たちの笑顔を優しく、どこまでも均等に照らし出している。
誰かを蹴落とすことも、見下すこともない。誰かの失敗を責めることもなく、ただ互いを思いやり、足りない部分を補い合い、絆を深め合う、穏やかで幸せな日常。
「……みんな、たくさん食べてくれよ」
俺がポツリと呟くと、ソラが口元をシチューで汚したまま俺の膝に飛び乗ってきて、思いきり顔をすりつけてきた。フェルも足元に顎を乗せ、ピコやルチル、ミエルもそれぞれに俺のそばへすり寄ってくる。
世界を救う勇者のような、歴史に名を残すような派手な栄光は、俺には必要ない。
俺にはただ、この優しくて温かい「帰る場所」と、笑い合える家族さえいれば、それだけで十分なのだ。
夜風が心地よく吹き抜け、ハーブの香りを遠くまで運んでいく。
追放から始まった俺の新しい人生、クラン『絆紋亭』の賑やかな夜は、これからもどこまでも穏やかに、幸せな音を立てて更けていくのだった。
【現在のステータス】
名前:レイン
職業:冒険者(クラン『絆紋亭』マスター)
称号:追放されし者 / 魔物に愛されし者 / 辺境の癒し手
Lv:24
HP:260 / 260
MP:75 / 75
【スキル】
・生活魔法 Lv.6
・剣術 Lv.3
・解体 Lv.5
・野営技術 Lv.8(※極まる)
・野戦調薬 Lv.5
・植物知識 Lv.4
・建築・修繕 Lv.4(※レベルアップ)
・鑑定 Lv.2
・気配察知 Lv.3
・魔導知識 Lv.2
・料理 Lv.5(NEW / ※仲間たちに振る舞うことで開花)
【固有スキル】
・絆紋:対象の魔物と心を通わせ、警戒心を解き放つ。深い絆を結んだ魔物と感覚や力を共有できる。
【クラン『絆紋亭』メンバー】
・空色小竜:絆レベル5
・銀色のウルフ(フェル):絆レベル4(※絆深化)
・ポーションラビット(ピコ):絆レベル4(※絆深化)
・クリスタル・ゲッコー(ルチル):絆レベル3
・スピリット・フォーン(ミエル):絆レベル3
・ウールシープの群れおよび森の小動物たち
・アイラ(女戦士・正式なクラン協力者)
・ルウ(魔導士・正式なクラン協力者)
・ゴット(薬師・正式なクラン協力者)
・エリス(見習い魔導士・クランメンバー)
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