第9話 足音のない王子
冬の朝の回廊は、冷えた石の匂いと、遠くの厨房から漂うパンの焼ける香りが混じっていた。
エマは朝食を終えると、昨日に引き続き書庫へと向かった。
暖炉のある食堂から石壁の回廊に出ると、吐いた息が白くこぼれる。
水桶を腕に抱えて歩きながら、昨日までのことを頭の中で並べ直していた。
書庫に現れた『碧玉の瞳』の青年。
王家の系譜の本。
そこから消された名前。
そして、彼はマリーに会うために書庫へ来た。
マリーは王妃のお気に入りの侍女。
王様と同じ『灰色の瞳』。
死んだ王女と同じ十五歳。
そして、マリーと同じ『灰色の瞳』の青年。
マリーが倒れたことを知って、毒が盛られたかを侍女に確認していた。
知らないことが多すぎで、頭の中でうまく整理できないでいた。
中庭へ出る扉を抜けたところで、エマは足を止めた。
井戸のそばに、今考えていた人の姿があった。
灰色のマントに、ダークブラウンの髪。
一昨日の『灰色の瞳』の青年だ。
青年は年配の侍女と何か話していた。
(あれは、左の耳たぶにホクロのある人……)
その侍女は青年に臆することもなく、話が終わると小さく「ありがとうございます」と言った。
男は短く頷いただけだったが、その頷き方はぞんざいではない。
年配の侍女が去ると、男は井戸の縁に片手をついて中庭を見渡した。その目は、何かを見ている目だ。
エマは水を汲まなければならず、青年のいる井戸の方に向かった。
青年は近づいてきたエマに気がつくと、声をかけてきた。
「お前が新入りの十五歳か」
低く、平坦な声だった。
エマは足を止める。
「はい……」
「マリーと同室だな」
質問ではなく、確認だった。この人はもう知っている、とエマは思った。
「はい、そうです」
さっきの耳たぶホクロの侍女が、エマにマリーと代わってに書庫に行くように言ったことも聞いたのかもしれない。
「マリーが倒れた時、そばにいたのはお前なのだな」
「えっ?!」
青年の問いかけに、エマは違和感を覚えた。
「どうした」
「あっ、いえ……。なんでもありません……」
初日に回廊ですれ違ったこの青年は足音がしなかった。
でもマリーが倒れた時の冷ややかな灰色の視線には、かすかに足音があった。
(この人は、あの時いなかった……?)
だから確認している。
(じゃあ、あの視線は……誰?)
――あの時の『灰色の瞳』は、別の人。この人じゃない。
「マリーが倒れた時、様子はどうだった」
「えっと、……階段を上りきったところで、急に崩れるように倒れました」
「その前に、何か飲んだり食べたりしたか」
「あれは、わたしと会ってすぐのことだったので、そこまではわかりません」
青年の目が少し変わった。そして、エマにだけ聞こえるように声を落とした。
「毒の可能性は考えたか」
唐突に『毒』と言われ、驚いたわけではないが、エマは一瞬だけ間を置いた。
若い男に、あまり口にするべきではない話が頭をよぎる。
エマは一瞬だけ視線を落とし、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……あの、わたし、マリーさんは血が足りないんだと思います」
青年がエマをじっと見た。
「血が足りない……?」
「マリーさんの血の気の無い顔色と、唇の色と、脈の弱さから、そうじゃないかと思ったんです。わたし、まだここに来て三日目なのでわかりませんが、食事に血の味のするものがありません。それに、マリーさんはスープの汁を残す癖もあって……」
灰色の瞳の青年はしばらくエマを見ていた。
「……そうか」
短い沈黙。少し空気が重くなる。
そのとき。
エマの腹の虫が「きゅ~っ」と鳴った。
二人は思わず沈黙する。
エマはじわじわと顔が熱くなり、なんと言っていいのか青年を見つめたまま言葉を探す。
青年がわずかに口元を動かした。
笑いをこらえている。が、こらえきれていない。
「……お前も血が足りていないのか」
低い声だったが、どこか温かさがあった。
「ち、違いますっ。朝食を、少し急いでしまって……」
灰色の瞳の青年はそれ以上何も言わなかった。でも、さっきまでとは少し違う目でエマを見ていた。
「お前はどこから来た」
「ピエルモンです。サント=ヴェール修道院から参りました」
青年の表情が、わずかに変わった。
ほんの一瞬だけだが、やはり何かを確認するような目だった。しかし、すぐに元の無表情に戻る。
このやりとりは、昨日の『碧玉の瞳』の青年と同じだ。
「ピエルモンか」
「はい」
「修道院に預けられたのはいつだ」
昨日の碧玉の瞳の青年よりも、少し踏み込んできた。
「……物心がつく前です。正確にはわからなくて」
青年はまた少し黙った。
昨日と同じように、エマは灰色の瞳の青年も観察した。
この人は足音がしない。足跡を残さないためか、靴に泥もついていない。
服は城の使用人よりは良いが、王族のような華やかさはない。でも衣服に乱れはなく、所作は洗練されている。
年配の侍女からお礼を言われたり、エマの腹の虫の音に笑いをこらえる。もしかしたら、優しい人なのかもしれない。
(でも、一昨日も侍女に同じことを聞いていた。この人、誰かのために情報を集めている)
エマは桶のついた鎖に手をかけ、滑車をゆっくり回した。
鎖が、ぎ、と鈍い音を立てる。
桶が傾き、ざぶりと水がこぼれた。
「あっ、コ――」
コルヌが、と言いかけて、エマは口を閉じた。
ここでは妖精の話をしてはいけないんだった……。
だが青年は特に何も言わなかった。ただ、滑車をちらりと見た。
「誰かに何か聞かれても、余計なことは話すな」
そう言うと、青年はエマの元から立ち去ろうとした。
「滑車が錆びているようだな。城の普請方に伝えておく」
井戸端を去っていく灰色の瞳の青年の足音は、やはり聞こえなかった。
エマは濡れた手を布巾で拭いながら、滑車を見上げた。
鉛色の滑車のふちが少し赤銅色に蝕まれていた。
(……コルヌじゃなくて、滑車か)
† † † † †
昼過ぎ、書庫での作業を終えたエマが食堂に向かうと、侍女たちが隅のテーブルで肩を寄せ合っていた。
エマが少し離れた席に着くと、話し声が少し小さくなった。でもすぐにまた再開される。
今日のスープも昨日と変わらない薄い色だった。野菜の種類が一つ減り、パンは昨日より少し硬い。厨房の大鍋は黒く煤けていたが、火の入り方が均一ではなかった。城の厨房が、少しずつ傷んでいるのだろうか。
「ねえ、聞いた? 昨日あの方を書庫の近くで見かけたって」
「あの方が? 最近ずっと引きこもってて滅多に出てこないのに」
「さっき厨房でも、今朝早くに、珍しく中庭に居てたって噂してた」
エマはスープの器を両手で包みながら、さりげなく耳を澄ませた。
「あの方、怖いわよねえ。昔、廊下の窓からパンくずを鳥に投げていた侍女が、翌日には荷物をまとめて出ていったって話、知ってる?」
「知ってる知ってる。それだけじゃないわよ。夜に回廊で鼻歌を歌っていた子も、次の日から仕事を外されたって」
「何もそこまで……」
「でも本当の話よ。直接何か言われるわけじゃないらしいの。ただ、気づいたらそうなってるの。それが余計怖いのよ」
エマはスープに浮かぶ野菜を見つめながら、静かに聞いていた。
「妖精の話なんて、もってのほかよ。以前、新入りが食堂でル・コルヌの話をしたら、翌日から仕事を外されたって」
「だから王城では妖精の話はご法度なのよ」
エマの手が、少し止まった。
(妖精の話をしてはいけない理由って、そういうことだったのね)
妖精が嫌いな誰かがいる。
王城の人事を動かせる権力を持った人。
マリーや侍女たちが『ここで妖精の話はしちゃいけない』と言ったのを思い出す。
「王女様と同い年の侍女がいなくなるのも、あの方のせいなのかしら」
「さあ……でも、呼ばれたら帰ってこないのは本当のことよ」
誰かが小さく付け加えた。
「マリーはまだいるけどね」
誰も返事をしなかった。
侍女の一人がふとエマの方を見た。しかし、エマは素知らぬ顔でスープをすすった。
その視線の意味を、エマは考えないようにした。




