第10話 エリュディウスは夢を見る
夜が深まると、城はいっそう静かになった。
蝋燭の灯りが一本、石壁に二人分の影を落としている。
エマは自分のベッドの端に腰を下ろし、マリーの様子をそっと確かめた。昼間より顔色が戻っている。唇にも、わずかだが血の気が戻っていた。
窓の外では霧が城壁を這い、遠くで風が石の隙間を鳴らしている。昼間の回廊や食堂の騒めきが嘘のように、この部屋だけが切り取られたように静かだった。
マリーは天井を見たまま、小さく息をついた。
「今日も書庫の作業だったの?」
「はい。だいぶ片付いてきました。明日には終わると思います」
「書庫って、侍女が勝手に入れる場所じゃないでしょう? だから、私が頼まれたんだと思ってたけど、そうじゃなかったのね」
エマはマリーの言葉の裏に少しざらつきを感じた。
蝋燭の炎が、かすかに揺れる。
しばらく、二人は黙っていた。
遠くで風が鳴り、蝋燭の炎が細くなる。
「ねえ、エマ」
マリーが天井を見たまま、静かに口を開いた。
「食堂で、侍女たちと話せた?」
「少しだけです……」
「そう」
マリーの声は平坦だった。
「みんな、あなたに親切にしてくれた?」
「いえ、そんなには……」
「そうよね」
マリーは小さく笑った。でもその笑い方は、どこか安堵しているように感じられた。
「私がここに来た時もそうだったわ。誰も親切にしてくれないの。それなのに、何かと王女様と同い歳のって噂して」
エマは何も言わなかった。
「王妃様だけが、私に良くしてくださるの」
マリーの声に、少し力が入った。
「王妃様は私のことを特別に気にかけてくださっていて、他の侍女とは違う扱いをしてくださるの。それは、ここに来てからずっとそうだから」
エマは蝋燭の炎を見つめながら、静かに聞いていた。
「エマは、王妃様にもう会った?」
「いいえ、まだです」
「そう」
またあの安堵の色が、マリーの声に混じった。
(……マリーさん、わたしのことを探っている)
エマは気づいた。親切で話しかけているのではない。エマが自分の居場所を脅かすかどうか、確かめている。
でもエマは素知らぬ顔で続けた。
「マリーさん、王子様には会いましたか? 書庫に王族のみなさんの絵画があったけど、どんな人だろうって」
マリーの表情が、少し変わった。天井から視線を外して、蝋燭の炎をじっと見る。頬がわずかに赤くなった気がした。
「……侍女たちは怖いって言うけど、私には優しくしてくれるわ」
声が、少し柔らかくなった。
「書庫の近くで時々会うんだけど、名前を聞いてくれたり、体の具合を気にしてくれたり。私だけ特別に気にかけてもらえているのかなって」
「どんな方なんですか?」
エマが静かに聞くと、マリーは少し得意げに続けた。
「『灰色の瞳』で、物静かで、所作がとても綺麗なの。最初に廊下ですれ違った時、急に声をかけられてびっくりしたわ。足音も気配もなかったから」
「足音がない……」
「不思議でしょう? 幽霊みたいって思ったけど、さすがに失礼かしら」
それからマリーは、エマをちらりと見た。
「エマは、会った? 王子様に」
また探るような目だった。
「いいえ」
エマは静かに答えた。
嘘ではなかった。エマはまだ、王子に会ったことがない。
マリーは少し満足そうに、また天井を見た。
「そう。ならいいわ」
蝋燭の炎が、細く揺れた。
マリーは自分が特別だと自覚している。
王妃に優しくされ、王族や書記官しか入れない書庫の仕事を頼まれ、そして王家の血の証である『灰色の瞳』。
しばらく沈黙が続いた。
エマは自分のベッドに横になりながら、天井を見つめた。
「……マリーさん」
「なに」
「昨日書庫に、碧玉の瞳の男の人が来たんですけど。マリーさんに会いに来たみたいで」
マリーの気配が、少し変わった。
「碧玉色の瞳? 髪の色は?」
「落ち着いた金色です」
「知らないわ」
少し間があった。それから、どこか鼻にかかったような声で続けた。
「碧玉の瞳で金髪の人なんて、この城では見たことないわ」
「身分の高い方じゃないかと思うんですけど……」
「王家の瞳は灰色よ。王子様も、王様も、みんな同じ色」
エマは天井を見たまま、黙っていた。
王家の瞳は灰色。
書庫の肖像画も、全員灰色だった。
では、碧玉の瞳のあの青年は一体誰なのだろう——。
「もう眠いから寝るわ」
マリーが寝返りを打った。話は終わりだという声だった。
やがてマリーの寝息が聞こえてきた。
エマはしばらく、蝋燭の灯りが揺れる天井を見ていた。
蝋燭は燃え尽き、部屋が静かになる。
エマは天井を見上げたまま、目を閉じた。
瞼の裏に映像が浮かぶ。
体の丸い灰色の羽の鳥が飛んできて、部屋の天井にぶら下がった。
――神の目の妖精。
エリュディウスは、静かに首を回す。目は一つしかない。その一つの目がエマを見つめている。
――よく見てごらん
エマは頭の中で、今まで見たものを順番に並べてみる。
王家の瞳は灰色。
書庫の肖像画に描かれた王、王妃、王子、王女。全員、同じ灰色の瞳だった。
マリーの瞳も灰色。だからマリーは王妃のお気に入りなのかもしれない。
そして、マリーが「王子様」と呼ぶ人物も『灰色の瞳』。
午前中、井戸で出会った灰色の瞳の青年は、滑車のさびを「普請方に伝えておく」と言った。つまり、城の内部構造に口を出せる立場の人だ。
年配の侍女に「ありがとうございます」と礼を言われていた。
そして、エマの腹の音を聞いて笑いをこらえていた。
この城内では妖精の話が禁じられている。
妖精が嫌いな人物がいて、妖精の話をすると仕事を外される、と侍女たちは噂していた。
噂の中のその人は、姿を見せない。けれど、誰もが知っている。
マリーは書庫の近くで王子様と、時々会ったと言う。
マリーは言っていた。王子様は足音がしない、と。
――でも。
エリュディウスが、もう一度首を回した。
あの時。
書庫の前で聞いた足音。
碧玉の青年は、マリーが書庫に来ると知っていた。そして、系譜の本の場所を知っていた。
何かを確認するために。
そして、埃綴りの妖精の名を口にした。妖精を知っているからこそ、嫌いなのかもしれない。
――そうだとすれば。
マリーが見ているものと、自分が見ているものは――同じではない。
エマは目を開けた。
そこにエリュディウスの姿は無い。
(もし間違っていたら、エリュディウスに笑われてしまう)
でも――
まだ、わからないことの方が多い。
答えはまだ、霧の中にある。しかし、霧が少しだけ薄くなった気がした。
けれど、その霧の向こうに何があるのかはまだ見えない。
エマは考えるのをやめ、ようやく眠りについた。
妖精嫌いの偏屈王子 終




