第11話 見たものと、見ていないもの
エマが王城にやってきて十日経った。
当初の『特別に選ばれた侍女』と言う噂はなんだったのかと思うほど、エマは下女がするような雑用をこなす日々を過ごしている。
同じ『特別に選ばれた侍女』のマリーは、体調が回復してから、王妃に呼ばれて過ごす時間が増えていた。
こちらは、文字通り特別に選ばれたような日々を過ごしているようだった。
そして、王妃に呼ばれた後、部屋に戻ってくるマリーの所作は、少しずつ変化していた。
背筋の伸び方、椅子への座り方、言葉の選び方。どれも、十日前とは微妙に違う。
エマはその変化を毎日観察していた。
王妃と一緒に食事をとる日などは、マリーは部屋に戻ってくるのが遅い日もあった。
今晩も、エマは既に就寝の支度を終えたが、マリーはまだ部屋に戻っていない。
その時間、エマは蝋燭の灯りを独り占めして、ペンと帳面を手に取る。
以前の夢の残像が、瞼の裏にあるうちにエリュディウスを描いておこうと帳面を開く。
インク壺にペンをすっと浸ける。
獣脂製の蝋燭の灯りはゆらゆらと揺れ、時折手元が暗くなる。
(炎揺らしの妖精が邪魔してるのね)
と思いながら、エマは空想のエリュディウスの形に集中した。
灰色がかった白い羽根。丸い体に異様に回る首。琥珀色の一つ目。
しかし、ペンを何度も走らせるが、どうしてもうまく描くことが出来ない。
ミミズクのような体とフクロウのような羽根、鶏のような嘴。そして、一つの神の目。
しかし、何度描いても、夢の中で見たあの姿をそのままには描けない。
描くたびにその姿は違うものになってしまい、最後に描いたエリュディウスの絵は、いつの間にか鳥よりもウサギに近い姿になっている。
エマは徐々に自分の記憶に自信がなくなったきた。
「……夢で見たはずにのに、どうしてうまく描けないのかな」
エマは独り言ちながら、首を傾けた。
人から聞いたものや空想したもの、つまり自分の目で見たもの以外は、てんで下手なのだ。何故かわからないが、エマは幼い頃から自分の目で見たものしか上手く描くことが出来なかった。
修道院で小さな子達と一緒に描いたユニコーンの絵も、一番下手だとみんなに笑われてしまった。
エリュディウスも、夢の中でしか見たことのない存在だ。
エマはゆらぐ蝋燭の小さな炎を見つめた。灯りは安定せず、少し焦げた脂の匂いが鼻をかすめる。修道院でもイグニルはいつもいたので、この匂いは嫌いではない。
エマは気を取り直し、帳面の一ページの隙間をすべて埋めるように、何度も描いていく。
そのうちに、紙の上には歪なミミズクが何羽も重なって、ますます収拾がつかなくなった。
「……エマ? 何を描いてるの?」
いつの間にか部屋に戻ってきたマリーが、エマの背後から台の上の帳面を覗いていた。
「あっ、マリーさん、お帰りなさい。エリュディウスを描いていたんですけど。どうしてもうまく描けなくって」
エマの言葉に、マリーの表情がすっと変わった。
「ここでは妖精の話はしない方がいいって、言ったわよね。絵も描かない方が良いんじゃないかしら」
静かだが、冷たい声だった。
エマはペンを置いた。
「……そうでしたね。ごめんなさい」
マリーは軽く息をはくと、自分のベットに腰を掛けまとめていた髪を解き始めた。
エマは帳面を伏せて、窓の外の闇をしばらく見ていた。
蝋燭の淡い光が、マリーの白金色の髪をやわらかく照らしている。
エマはその様子をしばらく眺めてから、思い切って声をかけた。
「マリーさんを描いてもいいですか?」
マリーは手を止めた。
「私を?」
「はい。さっきうまく描けなかったので、ちゃんと目に見えているものを描きたくて」
マリーは少し考えてから、背筋を伸ばして椅子に座り直した。どこか得意げな様子だった。
「いいわよ。でも、変に描いたら許さないから」
「はい」
エマは帳面のページをくるりとめくり、ペンの先をインク壺に浸けた。
仄かな明かりの中、マリーの顔を端から順番に見ていく。
白金色の髪の流れ、形の良い眉、灰色の瞳の光の具合、薄い唇の色。頬骨の高さ、顎の輪郭。
ペンが、紙の上を走り始めた。
薄暗くても、迷いなく。
目で見たものを、見たままに。紙の上に写し取る。
しばらくして、エマは手を止めた。
「出来ました」
マリーが立ち上がり、帳面を覗き込んだ。
一瞬、息を呑む気配がした。
「……これ、私?」
「はい」
マリーはしばらく黙って、自分の肖像を見つめていた。
灰色の瞳が、紙の上の灰色の瞳と向き合っている。
「すごいわね。まるで鏡みたいだわ」
珍しく、素直な声だった。探るような色はない。
「絵の描き方を修道院で習ったの?」
「いえ、習ったわけじゃないんですけど……見たものを描くのは得意なんです。でも」
エマはさっきまで描いていたミミズクもどきで埋め尽くされたページを思い出す。
「実際に見たことないものは、全然うまく描けないんですけど」
マリーは肖像からエマに視線を移した。それから、また肖像に戻した。
「これ、王妃様に見せたら、きっと喜ばれるわ」
その一言には、またいつもの計算が混じっているように感じられた。
エマは素知らぬ顔でペンを置いた。
「じゃあ、これ、どうぞ」
エマは帳面の紐をほどき、マリーの顔を描いた紙を外して差し出した。
マリーは肖像をもう一度眺めてから、蝋燭の炎に視線を移す。
「最近ね、王妃様がよくマルグリット王女様の話をされるの」
独り言のような、でも聞かせたいような声だった。
「マルグリット王女様の?」
「ええ。王妃様ったら、私の所作や言葉遣いを直してくださりながら、マルグリット王女様もきっと私みたいだったでしょうっておっしゃるの」
マリーは少し得意げな、でも何気ないふりをした声で続けた。
「王妃様がそんなふうに打ち明けてくださるのは、私にだけらしいわ。他の侍女には一切おっしゃらないって、女官長が教えてくれたの」
エマは黙って聞いていた。
「王女様のお部屋は今も北の塔にそのままになっているって、おっしゃっていたわ。誰も片付けていないって」
蝋燭の炎が、かすかに揺れた。
エマはふと侍女たちの言葉を思い出した。
――王女様と同い年の侍女が『王女様の遊び部屋』に呼び出されると、その後姿を見かけることはないわ
――もし呼ばれても行っちゃだめ
――忠告しても、みんな行く。それで、いなくなる
マリーもその噂は侍女たちから聞いていることだろう。
一体誰が、王女と同い年の侍女を王女の部屋に呼んでいるのだろうか。
エマが考えていると、その思考をかき乱すように、窓の外で夜鳥の羽ばたく音がかすかに聞こえてきた。
† † † † †
翌朝、エマが食堂へ入ると、年かさの侍女たちがいつものように固まって小声で話しているのが聞こえてくる。
「……また昨夜も見えたらしいわ。北の塔の窓に灯りがついてたって」
「しっ、そういう話はやめなさいって言ってるでしょう」
「でも本当のことよ。あそこには誰もいないはずなのに」
声がぴたりと止んだ。
エマに気づいた侍女たちが、揃って口をつぐむ。
しばらくして、年かさの侍女がぽつりと呟いた。
「……あの子、呼ばれるのかしら?」
「マリーは王妃様のお気に入りだから、まだ呼ばれないでしょうけど……」
誰もそれに返事をしなかった。
エマはさっさと食事を終えて食堂を出た。
中庭に面する窓のある廊下を歩き出す。
北の塔。
誰もいないはずの部屋。
そこに、灯りが見えたと言う噂。
(……あそこは、王女様の遊び部屋、だ)
冬晴れの空に薄い雲が広がっている。
夜でなければ、灯りは見えない。
石畳を踏みしめながら、エマは頭の中では北の塔のことを考えていた。




