第12話 夜の巡回
夜になって、エマが食堂から部屋へ戻ろうとした時だった。
「ちょっとあなた。悪いんだけど」
廊下の影から、年かさの侍女に呼び止められた。
「今夜の夜番、代わってもらえない? 急に頭が痛くなってしまって……」
そう言われて、エマは侍女の顔を見た。
顔色は悪くない。唇にも血の気があり、目の下にも疲れた影は見えなかった。
(仮病、かな)
そう思いかけて、エマは視線を下げた。
侍女の手の甲と指先が、いつもより赤い。爪の隙間に、細かい傷跡がいくつもある。そして、靴の先が、片方だけすり減っていた。
頭が痛いのは、本当かもしれない……。
「わかりました。何をしたらいいでしょう?」
「灯りを見て回るだけよ。余分な火は消して、消えかけのは少し整えて。順番も簡単よ。二階の回廊をひと巡りしたら、図書室の前まで。北の塔のほうは放っておいていいから」
最後の一言だけ、妙に早口だった。
「助かるわ」
そう言って侍女は、返事を待たずに去っていった。
一人廊下に残され、エマは蝋燭を一本手に取った。
† † † † †
残す火を、間違えてはいけない。
深夜の城は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
二階は王族と客人のための階で、昼間は侍女や従者が絶えず行き交っている。王妃の私室、貴婦人の間、客間、図書室、そして王子の居室までが長い回廊で繋がっているのだと、ここに来た次の日に教えられた。
だが今は、人の声がひとつもない。
石壁の冷たさだけが残り、長い回廊は左右どちらへも果てしなく伸びて見えた。
灯りを消すたび、足元から闇が深くなっていく。
遠くで風が鳴るたび、塔のどこかで小窓が鳴る。
誰もいないはずなのに、曲がり角の向こうや階下の吹き抜けに、何かが息を潜めているようだ。
エマは手燭の炎を庇いながら、教えられた順路を歩いた。
(廊下は間引いて、使っていない部屋は消す。王族の区画は触らない……)
最初の燭台の前で足を止めた。
炎がわずかに伸びている。
エマは炎に触れないように、指先で芯の先の焦げだけを軽くつまんだ。小さく、ぱち、と音がして、黒い塊が落ちた。
炎がすっと細く整う。
修道院で何度もやった手つきだった。
(……夜番って、こんな仕事なんだ)
ぽつりと思い、次の灯りへ進む。
王妃の私室前には香の匂いが残っていた。
貴婦人の間の扉下からは、昼間こぼれていたであろう笑い声の名残も消えている。
客間の並ぶ西側回廊は冷え込みが強く、窓の隙間から夜気が細く流れ込んでいた。
この城は思っていたより広くはない。
なのに、同じような石壁と回廊が続くせいで、すぐに向きを失う。
手燭の縁に溜まった脂が、歩くたびにわずかに揺れる。イグニルが一緒にいると思いながら次の灯りへ向かった。
二階の王妃の私室前を通り、貴婦人の間の前を通り、次は図書室の方向に向かう――はずだった。
(……あれ?)
エマは足を止めた。
そこは見覚えのない廊下だった。
回廊の幅が少し狭い。壁掛けもなく、窓も少ない。
床の絨毯だけが妙に厚く、足音を吸ってしまう。
昼間の賑やかな二階とは違う。
人が住む場所というより、誰にも忘れられた通路だった。
(曲がる場所を一つ間違えた……?)
灯りを向けると、石壁の積み方まで少し古い。
(えぇ? また迷子なの?! きっとコルヌも眠ってるから、これは完全にわたしのせい……)
方向を確認するために月を見たかったが、近くに窓もない。
エマが引き返そうと振り返った、そのとき。
上の方に、かすかな灯りが見えた。
エマが蝋燭の灯りを向けると、石段がぼんやりと浮かび上がる。
二階の奥から、塔へと巻きつくように続く狭い階段。
その上の、閉ざされているはずの扉の隙間から、細い光が漏れていた。
それは、エマの手元の蝋燭より明るい光。
普通なら、そのまま引き返すべきだった。
でも。
(消すはずの火だ)
エマの足は石段に向かっていた。
石段には絨毯は敷かれておらず、一歩ごとにコツと足音が響く。眠っている人を気遣って、なるべく足音が鳴らないようにそっと足をおろす。石の冷気が足元からひやりと這い上がってくる。
蝋燭の炎が揺れる。エマは一段一段ゆっくりと上った。
夜の城の音さえも遠くなる。
風の鳴る音も、どこかの扉が軋む音も、全部が薄くなって、小さな靴音と自分の息の音だけが近くなる。
灯りの漏れる扉の前で、足が止まる。
古い木の扉で、鉄の取っ手が錆びている。隙間から漏れる灯りは、蝋燭の炎よりも暖かい色だった。
(この灯り……イグニルがいない)
自分の手元の獣脂の蝋燭はゆらゆらと揺れているのに、扉の隙間から漏れる光は微動だにしない。そして、ほんのかすかな甘い香り。
そのとき、手元の炎が不意に強く揺れた。
(……誰か、いる)
エマは耳を澄ませた。
かすかに、声が聞こえる。
女の声だ。誰かに話しかけているような、だがその女の声に対しての返事はない。
まるで、子守唄のような、祈りのような。
(王女様……の幽霊?)
マルグリット王女は十二年前に死んだ。それはこの国の誰もが知っている。
そして、城の噂では、『王女の遊び部屋』に呼び出された王女と同い年の侍女は、その後、食堂に現れなくなると言う——。
ここは、誰も消しに来なかった場所だ。
心臓の音が、自分でもはっきり分かるほど大きくなった。
しかし、エマは取っ手に手をかけた。
錆びた金属の冷たさが、指先に伝わる。
そっと、押す。
扉は、音もなく開いた。




