第13話 王女のいない部屋
錆びついた取っ手に手をかけ、エマはそっと押した。
古い扉は、驚くほど静かに開いた。
錆びているのは外側だけだ、とエマは気づく。蝶番には油が差され、木の反りも直されている。閉ざされた部屋の顔をして、ここは今も誰かが管理している。
(この扉、ちゃんと手入れされてる。誰かがここに来てるんだ)
エマは灯りを掲げ、足を踏み入れた。
ぬるい空気が、ゆるやかに流れ出る。
エマは部屋を見回した。中は思ったよりも広い。
塔の丸みに沿って壁がゆるく弧を描き、天井は高い。北向きの細窓には分厚い夜が張りつき、月明かりさえ差しこまない。部屋の中央だけが蝋燭の光に照らされ、周囲は薄闇のなかに沈んでいる。
そこは、子どもの部屋だった。
小さな寝台。低い背の椅子。脚の短い机。壁には色褪せた刺繍布が掛けられ、花と鹿と、小さな冠を戴いた少女の図柄がかろうじて残っている。
だが、幼い部屋の主だけがいない。
壁際の棚には木馬の玩具、積み木、布で作られた小さな王冠、人形たちが並んでいる。どれも古び、色は抜け、布は痩せていた。それでも乱れてはいない。積み木は崩れず、人形の裾は整えられている。
誰かが、何度も触れている。
時間を止めたまま、この部屋を守るように。
棚の上では、細い蝋燭が三本、まっすぐ炎を立てていた。
獣脂のような油の匂いはなく、ほんのりと甘い香りだけが漂う。祈りの場か、王族の部屋でしか使われぬ高価な火だ。
(あれは、祈りや王族のための蜜蝋)
その灯りの近くに、一人の女が座っていた。
背を丸め、膝に何かを抱いている。
髪は長く伸びたまま乱れ、そのあいだに白いものが幾筋も混じっていた。頬は削げ、肩は薄い。だが崩れた姿の奥に、かつて端正だった面影が残っている。
抱いているのは、古びた布人形だった。
女はそれを胸に寄せ、赤子をあやすように身体を揺らしている。
そして、誰かに聞かせるようでもなく、ぽつり、ぽつりと語りかけていた。
「……大丈夫よ。もうあの人は来ないからね。怖くないよ、マルグリット……」
エマは目を見開いたまま動けなかった。
マルグリット。
死んだはずの王女の名前が、女の口から静かな部屋の中に落ちた。
エマの心臓が、また早く打ち出した。
幽霊ではなかった。
目の前にいるのは、生きた人間だ。呼吸し、声を持ち、涙の乾いた顔をしている。
けれど、その声には現世の重みがなかった。
エマはこうした人々を見たことがある。修道院でも、定期的に彼らの支援に行っていたから。
深い痛みに心を壊され、身体だけがこの世に残った人たち。
胸の奥がひやりとする。
そっと扉を閉め、立ち去るべきだと思った。
そのとき。
石床に、カツンと靴音がなった。
女が、ゆっくり顔を上げた。
蝋燭の火が、その目を照らす。
焦点が合っているのか、いないのか分からない。濁った水面のような瞳だった。
だが次の瞬間、その奥に凄まじい恐怖が走った。
女の腕が、布人形ごと震えだす。
「……リュ、リュシアン、様……」
女の声は、ひどくかすれていた。
エマは身じろぎもできない。
その名を知らない。けれど、自分へ向けられていることだけは明白だった。
(……わたしを、誰かと見間違えている)
エマは一歩下がろうとした。でも足が何かに当たった。
「お許しください……、リュシアン様……どうか……あぁぁ」
女は立ち上がろうとしたが、脚がもつれ手を床に着いた。でも目だけはエマを見続けている。
「あなたが……姫様を連れていこうとしたから……あたしは……。あぁ、姫様を……」
女の声が震えた。いつの間にか、女の視線はエマを見ておらず、何か違うものに話しかけているようだった。
「奥様に償わないと……守ると……必ず……姫様を……」
女の言葉の形は段々と崩れていく。「ぁあぁぁ」と唸るような、悲鳴のような音となった。
リュシアンとは誰なのか。
この女は何者なのか。
マルグリットとはどういう関係なのか。
でも一つだけ、はっきりわかることがあった。
(この人は、マルグリットをまだ呼んでいる)
女はまた人形に視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「……ぁぁ、リュシアン様……。マルグリット様を……連れて行かないで……」
そこで女の言葉が途切れた。
まるで蝋燭の炎が消えるように、女の目から光が失われた。
また人形を抱きしめると話しかけ始める。さっきと同じ言葉で。
「大丈夫よ。そばにいますからね……」
もう、女の目にエマの姿は映っていなかった。
そのとき、背後の闇がわずかに形を変えた。
突然、背後から伸びてきた手がエマの口を塞ぐ。
「――っ!?」
叫びは掌に吸いこまれる。
強い腕が肩ごと引き寄せ、身体の自由を奪った。
手燭が傾き、炎が大きく揺れる。
落ちる――そう思ったが、別の手がそれを受け止める。
灯りは消えない。
声はない。
そのままエマは、暗い廊下へ引きずられるように連れ出された。
石床に響くのは、自分の足音だけだった。




