第26話 知らない幸せ
ヴァレンヌ帝国へ向けた書簡に記されたのはただ一行だけ。
――王女マルグリットは、十二年前に病により逝去した
それが記録となり、歴史となり、それが誰も覆さない嘘となった。
その紙の上では、十二年という歳月さえ簡単に消されていた。
† † † † †
それから七日が過ぎた。
城の中は、表向き何も変わらない。回廊にはいつも通り蝋燭が灯り、厨房からは湯気と焼きたての黒麦パンの匂いが漂っていた。
ただ、ささやき妖精があちこちで囁いていた。
王妃は私室に籠ったままで、公の場には姿を見せない。王妃の部屋の前を通る侍女たちは、無意識に声を潜めていた。きっと体調が優れないのだろうと侍女たちは噂をした。
あの夜の出来事を、バルテレミとシギュールが何をどう処理したのか、エマには知らされなかった。ただ、あの夜以来、北の塔の三階に近づく者はいなくなった。
ジャンヌがどうなったかは、エマの耳には聞こえてこなかった。
マリーは別の部屋に移され、医者が毎日往診に来ている。少しずつ目が開くようになってきたが、まだ言葉は少ない。エマが声をかけると、薄く微笑むことがある。
エマとエリザベートとの時間は続いていた。城内の散歩も、絵を描く午後も、変わらず続いた。
エリザベートは時々バルテレミと過ごす時間があり、その間はエマの少しだけ自由な時間を得たが、結局一人で絵を描いて過ごすだけだった。その時に、少し視線を感じたこともあるが、それはきっと覗き見妖精のしわざだろう。
エリザベートは一度だけエマに言った。「この城は、たくさんのものを抱えているのね」と。エマは答えなかったし、エリザベートもそれ以上は聞かなかった。
たしか、その日も、窓の外では霧が中庭を流れていたのを覚えている。
そして、バルテレミとエリザベートの婚姻の話は、静かに進んでいた。
バルテレミが決断したのだと、侍従たちの噂で聞こえてきた。王子自らヴァレンヌ帝国との縁組を受け入れた。
その理由を語った者は誰もいなかった。
† † † † †
エリザベートの出立が決まった日の前日、エマはバルテレミに呼びだされた。
いつもの書斎に、蜜蝋の炎が二本、静かに燃えている。部屋には暖炉の熱が残っていて、窓硝子は冬の冷気で白く曇っていた。その日も、シギュールはいなかった。
バルテレミは窓の前に立っていた。硝子は曇っているので、外の景色を見ているわけでもないのに、ただそこに立っていた。
「座れ、梟娘」
いつもと同じだ。エマは椅子にそっと座る。
しかし、バルテレミは、しばらく何も言わなかった。暖炉の火が小さく爆ぜる音だけが、部屋の中に満ちた。
やがてバルテレミが口を開いた。
「お前は妖精に詳しいのだろう」
唐突な問いだった。しかし、あの夜のことを聞かれると思って緊張していたので、エマの肩の力が抜けた。
「はい。修道院で伝わる妖精のことなら全部覚えています」
バルテレミはエマの方に身体を向けた。
「グリュエットに連れ去られた子どもは、妖精の国で育てられると、昔ジャンヌに聞いたことがある」
「はい、そうです」
エマは真っすぐ前を見たまま頷いた。
「妖精の国は……幸せだと思うか?」
その問いは、静かだった。
静かすぎて、エマはしばらく意味を測りかねた。
妖精嫌いの王子様。だが、妖精のことが嫌いなのは、多分バルテレミがその存在を信じているからだと思った。
窓の外では、冬の城が夕暮れの灰色に沈んでいく。北の塔の影が、長く伸びていた。
「……妖精の国に連れていかれた子は、きっと、幸せに暮らしています」
それがバルテレミの求める答えなのかわからなかったが、エマは自分の考えを答えた。
「妖精の国は、霧の向こうにあるんだと修道院で習いました。連れ去り妖精に連れて行かれた子どもは妖精の子どもとして育てられるって。新しい名前をもらって、新しい家族ができて」
バルテレミはエマをじっと見つめていた。
エマの答えに納得したのか、不満なのか。エマにはバルテレミの感情は読めなかった。
「ただ」
エマは少し考えてから、続けた。
「妖精みたいないたずらっ子になっているかもしれませんけど」
しばし二人は黙ったままだった。
それからバルテレミが、かすかに息を吐いた。笑ったのか、ため息をついたのか、エマには判別できなかった。
バルテレミはそれ以上何も言わなかった。
エマも何も聞かなかった。
† † † † †
翌朝、エマは荷物をまとめた。
大したことない、行きと同じ小さな鞄一つだけだった。
エリザベートの出立の日に合わせて、エマも城を出ることが決まっていた。バルテレミから直接そう告げられた。理由は教えられなかった。ただ、「修道院に帰れ」とだけ言われただけだった。
王城の妖精たちは『あの子が王子の前で妖精の話をしたからだ』と囁いていた。
エリザベートとは前日の夜に別れを告げた。
「エマ、また会えるかしら」
「はい。エリザベート様が会いたければいつでも会えますよ。だって……未来のお妃様ですし」
「……そうね」
エリザベートはふふっと微笑んだ。その笑みは、最後まで暖かかった。
「あなたは面白い人だったわ。伯父様が好きそうな人」
その言葉が、胸の中に静かに落ちた。
† † † † †
出立の朝も、霧だった。
城の尖塔は半ば霧に沈み、人影さえ霞んで見える。
中庭には馬車が待っていた。エリザベートの一行が先に出て、その後でエマの小さな荷物も積まれた。
城の人たちは、エリザベートを見送るために集まっていた。エマのことを見ている者は、ほとんどいなかった。
(巨人さん、さようなら……)
エマは一度だけ、城を振り返った。
北の塔が霧の中に沈んでいた。『王女の遊び部屋』の窓は閉ざされたままだった。
あの夜に見た灯りは、もうどこにもない。
(なぜ、あの夜、王妃はあんな顔をしていたのだろう)
ジャンヌがエマをリュシアンと呼んだこと。
バルテレミが「母上……」と言った時の顔。
シギュールが「もう終わりです」と言った時の声。
王妃が最後にバルテレミを見た、あの目。
全部が、どこかで繋がっている気がした。でも、どう繋がっているのか、エマにはわからなかった。
馬車の扉が開いた。エマは乗り込むと扉が閉められた。
車輪が石畳を軋ませ、ゆっくりと動き出す。
霧を裂くように進み始める。
エマは窓の外を見た。
灰色の巨人が、霧の中に埋もれるようにして、少しずつ遠ざかっていく。
黒い尖塔も、北の塔の影も、何もかもが灰色の中に消えていった。
ピエルモンへの道は、霧の中にあった。
馬車の窓から見える景色は、城を出た時からずっと灰色だった。でも、修道院に近づくにつれて、少しずつ見知った景色が混じってくる。
石畳の路地。古い井戸。洗濯物が揺れる庭。
灰色ばかりだった景色の中に、少しずつ色が戻り始める。
エマは窓の外を見ながら、帳面を膝に乗せていた。
バルテレミから渡された帳面だった。出立の直前、シギュールを通じて届けられた。それは、何も描かれていないまっさらな帳面。
なぜバルテレミがこれを渡してきたのか、エマにはわからなかった。
(お返しかな……?)
ページを撫で、紙の感触を楽しんでいると、中に、一枚だけ、別の紙が挟まれていることに気が付いた。
その小さな紙に、一行だけ書かれている。
字は硬く、飾り気がなかった。
『迷うな』
たった、それだけ。
エマはなくさないように紙を帳面に戻した。
(迷うな、か)
城の書斎でバルテレミに言われた言葉と、同じだった。
あの時は城内を迷子になった話だと思っていた。でも今は、違う意味に聞こえる気がする。
馬車が坂道を下り始めると、霧の向こうにサント=ヴェール修道院の尖塔が見えてきた。
エマは新しい帳面を胸に抱き締めた。
冬の日は短い。夜の帳が降りたころ、馬車は修道院の門の前で止まった。
エマは扉を開けて石畳に降り立つ。
冷たい空気が、頬を叩く。
春はまだ遠い。
エマは顔を上げた。
修道院の鐘がひとつ鳴った。
街の空気を、小さく震わせるように。
妖精の国 終




