第25話 完成された嘘
エマは一歩、後ろへ下がった。
王妃は静かに立っている。
それまで微動だにしなかった蜜蝋の炎が、細く伸びて、また元の形へ戻る。窓は閉まっている。風など入るはずがないのに。
白い手袋をはめた手は前で重ねられ、背筋はまっすぐ伸びていた。中庭で見た時と同じ、穏やかで、少しも乱れのない姿だった。
だが、エマにはもう、その穏やかさが恐ろしかった。
「マリーさんを、連れて帰ります」
怖かったのに、エマの口からは自分でも驚くほど、強い声が出た。
王妃は何も答えず、ただ、じっとエマを見つめている。
――おまえは何を知ったのか
――おまえは何を見たのか
――どこまで気づいたのか
その目は、そう問いかけているようだった。
「ここは、マリーさんの部屋ではありません」
エマはそう言いながら、寝台のマリーに近づいた。
マリーは寝台に戻され眠っている。呼吸は浅く、頬は青白い。ジャンヌはその傍らで、古い人形を抱えたまま小さく震えていた。
「起きてください、マリーさん」
エマはもう一度、願うようにマリーに呼びかける。
だが、やはり返事はない。
それでも、マリーをここに置いていくことだけはできなかった。
エマはマリーの肩へ手をかけ、上体を起こそうとした。だが、眠りの深い身体は重く、思うように動かない。
「やめなさい」
王妃の声がエマに向けられる。
静かな声だった。
静かなのに、その一言だけで部屋の空気が冷える。
「その子は休んでいるの」
「違います!」
エマの大きな声に、ジャンヌがびくりと肩を震わせた。
王妃の目が、エマを睨むようにわずかに細くなる。
「眠っているのではなく、眠らされているのではありませんか?」
王妃は動かず、ただエマを見ている。
「おまえは、本当に――よく見るのね」
それは、優しい声だった。
「――神の目の妖精が、よく見ろと、そう申しております!」
エマは答えた。
声が震えなかったことが、自分でも不思議だった。
「見たものを、見たままに?」
王妃は微かに笑った。
「それは、幸せなことかしら」
そう言いながら、王妃が一歩エマに近づく。
その動きは、ひどくゆっくりだった。衣擦れの音もほとんどしない。
エマはマリーを庇うように、寝台の前で立った。
歩きながら、王妃の右手が、左袖の内側へ触れた。
ほんの一瞬だったが、エマの目は、それを見ていた。
王妃の右手には、細い銀の針が握られていた。
蝋燭の火を受けて、その先端がかすかに光る。
それは、刺繍針だった。
だが、普通の針ではない。
銀の針先には、暗い色が滲んでいる。
その瞬間、マリーの指先にいくつも残っていた小さな傷が脳裏をよぎった。
王妃は静かに歩み寄ってくる。
怒鳴りもせず、表情も変えず、ただ当然のように。
「よく見ているのね、エマ」
低く柔らかな声だった。
「けれど、」
エマの後ろにはマリーの寝ている寝台があり、逃げ場はない。
「おまえは、見すぎた」
もう一歩。
「おまえが見たものは、国を滅ぼす。それほどのことなの」
エマはマリーを置いて逃げることができなかった。
背後には寝台が、前には王妃いて、扉はその王妃の後ろだ。
どこにも行けない。
それでもエマは、マリーの前から動かなかった。
「この子を、どうするつもりだったんですか!」
その声に、王妃の足が止まる。
「マリーさんを、王女様の代わりにするつもりだったんですか!」
言った瞬間、エマは自分が踏み込んではいけない場所へ踏み込んだのだとわかった。
王妃の目が、氷のように冷たくなったように感じた。
「代わり?」
静かな声だった。
「代わりなど、どこにもいない」
エマは喉を鳴らした。
その言葉の意味が、わからなかった。
けれど、怖かった。
王妃がまた一歩近づく。
――よく見てごらん
王妃の右手の銀の針が、蝋燭の火を受けて光った。
エマはマリーを庇おうとしたが、あまりの恐怖に寝台の縁に足を引っ掛け、無様に床へともつれ込んだ。
「つっ……」
冷たい床に強く身体を打ちつけ、エマはその場に倒れ伏した。痛みに顔を歪め、身体を起こすことが出来ないまま、王妃を見上げる。
――よく見てごらん
その景色は、まるで、かつて誰かがこの部屋の床から見上げたものと同じ。
王妃が、倒れたエマを見下ろしながら、もう一歩近づく。
その時だった。
「だめです……!」
ジャンヌの絶叫が響いた。
ジャンヌは髪を振り乱して立ち上がった。その落ち窪んだ瞳は完全に狂気に染まり、床に倒れたエマを凝視している。
「だめです、リュシアン様!! 奥様を、奥様を放してください!!」
エマは息を呑んだ。それは、悲鳴に近かった。
ここにリュシアンはいないのに。ジャンヌの目は、エマを見ているのに、エマを見ていなかった。
王妃はジャンヌを見た。
「ジャンヌ!」
それだけで、ジャンヌの身体はびくりと震えた。
けれど、ジャンヌは今度は黙らなかった。
ジャンヌは王妃の傍に来てその腕を掴み、泣きながらすがりついた。その指は震えていたが、王妃を離さなかった。
「ジャンヌ! 下がりなさい!」
「だめです……リュシアン様!」
「離しなさい!」
「だめです、奥様……!」
ジャンヌのその声は、今までと違っていた。
怯えながらも、従わない声だった。
王妃が冷たく遮るが、錯乱したジャンヌの耳には届かない。ジャンヌは激しく呼吸を乱しながら、涙混じりの声を張り上げた。
「姫様を連れて行かないで! ヴァレンヌへ連れて行けば、旦那様が知ったら、奥様が殺されてしまう……! お返しください、リュシアン様! あたしのせいで、あたしが止めなければ……奥様が、奥様が苦しんでおられるのです、あたしのせいで……!」
王妃がジャンヌを振り払おうとし、ジャンヌは王妃の衣類に、袖に、必死にしがみつく。掴み合い、押し合う二人の身体が激しくぶつかり合った。
「この子は姫ではない! 離しなさい、ジャンヌ!」
「だめです! 触らないで、奥様! 触ってはいけません!」
ジャンヌの悲鳴のような声は、もうその場にいる誰を止めようとしているのか分からなかった。
王妃をエマから引き離そうとしているのか、あるいは王妃の持つ針を奪おうとしているのか。
過去なのか、現在なのか。
「だめです、奥様……! 離して、離して、リュシアン様! ああ、ああ、……!」
壁に映る二人の影が、蜜蝋の炎に炙られて巨大に、おぞましく歪む。
ジャンヌは王妃に縋りついたまま、荒い息を繰り返していた。
王妃が、初めて表情を歪めた。
「どきなさい、ジャンヌ!」
「だめです……!」
ジャンヌは必死に首を振る。
「あの夜みたいに……また奥様が壊れてしまう……!」
王妃の目が揺れた。
(何が……何が起きているの……?)
――よく見てごらん
床に倒れたまま二人を見上げるエマの目には、激しく交錯する二人の手が、霧の向こうの遠い記憶と完全に重なって見えた。
暗闇、悲鳴、引き裂かれるような拒絶、もみ合う三人の影、そして――床に倒れた誰か――
――霧の向こう側の世界を。
王妃の目が恐怖に揺れた、そのとき。
前触れもなく部屋の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、シギュールだった。
灯りも持たず、灰色の瞳だけが部屋の明かりを受けていた。
シギュールは一瞬で部屋の中を見た。
眠るマリー、エマ、ジャンヌと、ジャンヌがすがりついている王妃。
そして、王妃の指先の銀の針。
シギュールの顔から血の気が引いた。
「……王妃様!」
低い声だった。
王妃は振り返ってシギュールを見た。
「……シギュール」
王妃の声が、初めてわずかに揺れた。
「ジャンヌを下がらせなさい」
王妃は言い放つ。
しかし、シギュールは答えなかった。
動かない。
母親をどかすことも、王妃へ近づくこともしなかった。
ただ、そこに立ち尽くしていた。
その顔を見て、エマは初めて思った。
シギュールも、『王女様の遊び部屋』から出られないのだ。
「どきなさい!」
「だめです……!」
ジャンヌは王妃の針を見つめたまま、もう一度首を振る。
そのとき、さらに廊下の奥から足音がした。
石の階段を駆け上がってくる、迷いのない足音だった。
ガンっと大きな音を立て扉が大きく開いた。
「――!」
今度はバルテレミだった。
バルテレミも部屋の中を一瞬で見渡した。
碧玉の瞳が、全てを映した。
その場の、誰も動かず、誰も声を出さない。
そして、王妃の指先から、銀の針が床へ落ちた。
小さな音がした。
部屋の中から、音が消える。
バルテレミはゆっくりと部屋に入り、王妃の前に立った。
「……母上」
低く、静かな声だった。
王妃はバルテレミを見た。その目に、初めて何かが揺れた。
「ここに来るなと言ったのに……」
バルテレミは王妃に近づき、床に落ちた針を見た。
触れはしなかった。
ただ、それが何であるかを理解した顔をしていた。
バルテレミはただ王妃の右手を取った。
強くはない。けれど、逃がさない力で。
王妃は抵抗しなかった。
白い手袋の指が、ほんの少し震えていた。
バルテレミの青い瞳には、エマが今まで見たことのない色が沈んでいた。
驚きでも、怒りでもない、もっと深い、何か。
「王妃殿下……もう、終わりです」
シギュールの声は低く、ひどく掠れていた。
王妃はシギュールを見た。
何かを言うように唇が動くが、言葉は聞こえてこなかった。
「母さん……」
シギュールがジャンヌを王妃から引き離す。呼びかけると、ジャンヌの瞳がゆっくり動いた。
焦点の定まらないブラウンの目が、シギュールを見つめる。
けれど、その顔を別の誰かとして見ていた。
「……へ、陛下……」
シギュールの身体が止まる。
ジャンヌは弱々しく笑った。
「ご安心くださいませ……」
その声は怯えるように震えている。
「マルグリット様は……また城の中で迷子になっておられるだけです……」
シギュールの唇が震えた。
「姫様が迷子になるのはいつものことですから……。すぐに……シギュールに探させますので……」
その言葉に、部屋が静まり返る。
バルテレミとシギュールは動かなかった。
王妃は目を閉じ、長い沈黙が落ちた。
やがてバルテレミが低く言う。
「……北塔を閉じろ」
それは誰に向けた言葉かはわからなかった。
シギュールは返事をしない。
ただ、ジャンヌの手を強く握っていた。
王妃はゆっくりとバルテレミの手をほどいた。
逃げるためではなかった。
ただ、自分の足で歩くためだった。
すぐ横に、ジャンヌを支えるシギュールが立っている。
王妃はシギュールを一瞥し、それから背筋を伸ばした。
白い手袋の手を前で重ねる。
中庭で見た時と同じ、少しも乱れのない王妃の姿だった。
王妃は誰にも支えられず、誰にも手を引かれず、静かに部屋を出ていった。
その背中を見ながら、エマはようやく理解した。
――誰も、『真実』を口にしなかった。
北塔の窓の外では、灰色の霧が静かに揺れていた。
しかし、十二年間止まっていた時間は、ようやく少しだけ動き出したように感じられた。
部屋の中には、バルテレミとエマと、ジャンヌと、シギュール、そして眠るマリーだけが残った。
ジャンヌはその場にくずおれるように座り込み、小さく肩を震わせている。
「あぁ……また姫様が迷子なの……。早く姫様を探さなきゃ……。シギュールはどこなの……」
バルテレミはジャンヌに近づいた。その場に膝をついて、ジャンヌの目線に合わせた。
「ジャンヌ」
ジャンヌは顔を上げるとバルテレミの『碧玉の瞳』を見た。その焦点の合わない目が、この時だけは、少しだけ定まった気がした。
「あぁ……坊ちゃま」
バルテレミは何も言わなかった。ただ、ジャンヌの手に自分の手を重ねた。
エマは体を起こしその場に座ったまま、二人を見ていた。
バルテレミの横顔は冷たくもなく、怒ってもいない。やっと、長い時間をかけてここに辿り着いた人間の顔に見えた。
やがてバルテレミが立ち上がり、エマの方を向いた。
その碧玉の瞳がエマを見つめ、それから眠るマリーの方を見た。
「立て、梟娘。マリーを連れて行け。この部屋から出さなければならない」
エマは頷いて、立ち上がった。マリーの体を抱き起こすと、シギュールが来てマリーをそっと抱きかかえる。
エマはバルテレミの横顔をもう一度見た。
バルテレミはもうエマを見ていなかった。ジャンヌの隣で、小さくなった乳母をそっと支えていた。
蜜蝋の炎は、まだ揺れていなかった。
その翌朝、ヴァレンヌ帝国へ向け、正式な書簡が送られた。




