第24話 呼び出し
北の塔へ続く階段は、夜になるといっそう冷えた。
城の下層で燃える暖炉の熱も、ここまでは届かない。
石壁の隙間から入り込む風が、蝋燭の火を細く揺らしている。湿った石の匂いと、古い木材の軋む音。エマは片手で燭台を支えながら、慎重に階段を上っていた。
エマの小さな靴音だけがこつこつと響く。
こんな時間に呼び出してくるのは、きっとマリーの事だろう。
だが、胸の奥には別のざわめきもあった。
(多分、呼び出したのはバルテレミ王子じゃない……)
侍女頭に告げられた時、エマは一瞬だけシギュールの姿を探した。
バルテレミが自分を呼ぶ時は、いつもシギュールを通して、あの書斎に連れて行かれる。
バルテレミは、北の塔には入れないと言っていた。
それなのに、向かう先は北の塔の『王女の遊び部屋』だという。
では、誰がエマを呼んだのか。
シギュールなのだろうか、別の誰かなのか。
それでも、エマは石段を上る足を止めなかった。
考えながら歩いているうちに、いつの間にか階段は終わっていた。
北の塔の三階。
十二年前から時間が止まったままの、『王女様の遊び部屋』。
扉の隙間から、蜜蝋の灯りが漏れている。
人の気配はない。
それなのに誰かが待っている気がした。
炎は揺れていない。
エマは小さく息を呑み、そっと扉へ手をかけた。
† † † † †
部屋の中は静まり返っていた。
小さな椅子。古びた玩具。窓辺へ並べられた人形。色褪せた絵本。
甘い蜜蝋の香りが、今も微かに残っている。
以前入った時と同じ。まるで誰かが、十二年前のまま、この部屋を閉じ込めてしまったみたいだった。
「……バルテレミ殿下? いらっしゃいますか?」
返事はない。
「……シギュールさん?」
やはり返事はない。
窓辺の蜜蝋燭が三本、静かに燃えている。
その下の小さな寝台に、人影があった。
エマは近づき、息を止めた。
「……マリーさん」
マリーは眠っている。
薄い寝間着のまま、白い枕へ金髪を散らして。頬は青白く、唇から血の気が失われている。肩に手を触れると冷たかった。
「マリーさん、起きてください……!」
エマの呼びかけに返事はなく、目を覚ます気配はなかった。
呼吸はある。
脈も、弱いが確かにある。
けれど、どれだけ呼びかけても目を覚まさない。
何か薬を飲まされたのかもしれない。
エマは慌ててマリーの身体を抱き起こそうとした。
「ここから出ないと……」
そのとき、部屋のどこかで音が鳴った。
控えの間の扉が、キイっと音をたててゆっくりと開く。
現れたのは、白髪交じりの女だった。
痩せ細った身体。深く落ち窪んだ瞳。
手入れされていない髪、小さく丸めた背中、膝まで届くほど長い寝間着。布の人形を胸に抱いている。
ジャンヌだった。
ジャンヌはエマの姿を見つけると、ふらつきながら寝台の方へ近づいてきた。だが、その視線はエマを見ているが、エマ自身を見ていない。
もっと遠く、もう戻らない夜のどこかを見つめているようだった。
「あぁ……リュシアン様……!」
その声は掠れていた。
怯えたように顔を歪め、ジャンヌは寝台のマリーの身体へ覆い被さるように抱きしめた。
「やめてください、リュシアン様……」
掠れて震える声が、マリーの上に落ちる。
「ひ、姫様を連れて行かないでください……」
必死で首を振る。痩せた腕が、眠ったままのマリーを連れて行かれまいと守るように、必死に抱え込んでいた。
「お願いです……この子だけは……」
その声には、もう理屈も順序もなかった。ただそこには、失ってはいけないものへ縋りつくような響きだけが残っている。
その姿に、エマは立ちすくんでしまい、動くことが出来なかった。
この人は本気で姫を守っている。
ジャンヌの目は、今の部屋を見ていない。この人は、十二年前のどこかを、ずっと彷徨ったままなのだ。
「奥様は……苦しんでおられるのです……」
掠れた声が途切れる。
「あたしのせいで……」
その言葉とともに、マリーを抱く腕へ力が強くなっていた。
「だから、姫様だけは……」
ジャンヌは壊れたように同じ言葉を繰り返す。
「守らないと……」
そのとき、マリーが苦しそうに小さく呻いた。
「マリーさん!?」
エマが名を呼んだ。
その瞬間、ジャンヌはビクリと肩を震わせ、マリーを奪われまいとさらに強くその身体を抱き寄せる。
「だめです……ヴァレンヌへ連れて行けば……!」
ジャンヌの言葉の断片から、十二年前の霧の中の出来事が浮かび上がってくる。
まるで、リュシアンが幼い王女をこの城から連れ出そうとしていたかのように。
「いけません! 旦那様が知ったら……」
そこで言葉が切れた。
落ち窪んだ瞳が、怯えるように揺れる。
エマの背筋を、冷たいものが這い上がった。
「でも、あたしは言いません……絶対に……だから……お願いです」
ジャンヌは首を振った。
その先の言葉は続かなかった。ただ、嗚咽だけが喉の奥で絡まり、細い肩が震えている。
しかし、震えが止まるとゆっくりと体を起こし、光を失った目でぶつぶつと独りつぶやいた。
「リュシアン様を止めなければ……奥様を守らなければ……奥様が……」
その時だった。
「違うでしょう、ジャンヌ」
静かな声が、部屋へ落ちた。
エマははっと振り返る。
いつからそこにいたのか分からなかった。
王妃が、扉の前に立っていた。
白い手袋を嵌めた両手を静かに重ね、真っ直ぐこちらを見ている。表情は穏やかだった。だが、その穏やかさが、かえって恐ろしい。
王妃はジャンヌをじっと見ていた。その腕の中の、眠るマリーを見やった。
そして二人の様子を確認して、ようやくエマへと視線を向けた。
「……おまえは、何を見たの?」
低い声だった。
その声に責める響きはない。
しかし、その静かな眼差しは、エマの中まで覗き込もうとしているようだった。
「おまえ、エマ、と言ったかしら」
低く、静かな声だった。
けれど、エマは答えられなかった。
喉が動かなくて声が出ない。
王妃はしばらく黙ってエマを見つめていた。
その静かな視線が、何かを測っている気がした。
部屋には、ジャンヌのすすり泣きだけが響いている。
「姫様を……守らなければ……」
王妃は小さく息を吐いた。
「ジャンヌ」
王妃の声だけで、ジャンヌの身体がびくりと震える。
「その子を寝かせなさい」
それは叱責ではなく、命令だった。
ジャンヌは怯えたように頷き、マリーの頭を枕の上にそっと動かした。
エマは王妃を見つめたまま、足を一歩だけ後ろに引いた。
逃げ道を探していた。でも、ここは北の塔の三階で、入り口の扉は王妃の背後にある。
閉じ込められている。
そう気づいた瞬間、全身が冷えた。
王妃はエマをじっと見つめて目を逸らさない。
(どうしよう……)
エマの頭の中で、エリュディウスが首を回す気がした。
それなのに、今は、よく見てごらん、という声は聞こえなかった。
部屋の蝋燭が、ふっと揺れる。
窓の外は、灰色の霧が北の塔を静かに包み込んでいた。
まるで、この夜を外へ逃がさないように。




