第27話 名前を呼ばない
エマが城を去った日の夜、バルテレミは書斎に一人でいた。
暖炉の火が小さく燃えていた。
蜜蝋の炎は揺れず、炎揺らしの妖精はここにはいない。
机の上に、帳面が一冊置かれていた。
今朝、エマから渡されたものだった。シギュールを通じて届けようとしたのはバルテレミの方だったが、エマもまた、渡したいものがあったらしい。
二つの帳面が行き違いになって、結局シギュールがどちらも受け取る形になった。
帳面には微かにインクの匂いが残っている。
つい今朝まで持ち主の手の中にあったことが分かる。
バルテレミは机の上の帳面を手に取った。
しばらくすると扉が開き、シギュールが入ってくる。
「失礼します」
「シギュール、来い」
シギュールはバルテレミの隣に立った。
バルテレミの手元の帳面を横から覗き込む。
開いているページに、ミミズクのような何かがいた。
「なんだこれは」
「それは、エリュディウスでは?」
以前、バルテレミが「下手すぎ」と言い放った妖精の姿。
「……では、これは?」
「……リグネア……でしょうか? あぁ、左下に妖精の名前が」
バルテレミはしばらくその絵を見た。
次のページをめくった。ル・コルヌらしき何かがいた。ネズミのようにも見えるが、丸くて、耳なのか角なのかわからないものが生えている。
その次はノワジールだろうか。羽根のようなものがあるが、鳥なのか虫なのか判別がつかない。
全部へたくそだった。
「……何故、へたくそな妖精ばかり描いたものを俺に?」
「殿下が『妖精嫌い』なので、好きになってほしいと言って」
バルテレミは黙ってページをめくり続けた。
やがて最後のページで、手が止まった。
左下に『Gruette』と書かれている。バルテレミが最も嫌いな妖精の名だ。その姿を想像したくもなかったが。
「グリュエット……」
そのページだけ、空気が変わった気がした。もちろん気のせいだ。
だが、それまでの落書きのような妖精たちとは違っていた。
それはすこし歪な顔だち。人のような、そうでないような輪郭。でも、その顔だけは、他の妖精の絵とまるで違った。
へたくそ――ではない。描かれているのは全身ではなく顔だけだが、その輪郭、目の形、鼻の高さ。細部まで、実際に見て描いたような正確さがある。
「……これだけ、上手いな。だが、不気味だ。間近から見上げているような……」
バルテレミはシギュールに帳面を差し出した。
シギュールは受け取り、そこに描かれたグリュエットの絵を見る。
しばらく黙っていたが、眉だけがぴくりと動いた。
「どうした」
「いえ……」
シギュールはもう一度、絵を見つめていた。
二人は黙ったまま、暖炉の火だけがぱちぱちと小さく爆ぜた。
バルテレミはグリュエットの絵をもう一度見た。
夜の霧の中を歩く、人の顔をした妖精。
まるで誰かの記憶が、そのまま紙の上に閉じ込められているようだった。
蜜蝋の炎が、音もたてず静かに燃えていた。
† † † † †
霧の向こうに、モン・ルグリュは沈んでいた。
北の塔の影も、碧玉の瞳も、もう見えない。
霧が、後ろで静かに閉じた。
――王女は、死んでいない。
ただ、その名を呼ぶ者が、もういないだけだった。




