第22話 北の塔の王女
エリザベートが城へ来てから、エマは以前より侍女部屋へ戻る時間が減っていた。
朝は身支度を手伝い、そのまま客間へ付き添う。
昼は散歩や茶会。
夜は読んだことのある本の感想会をすることもあった。
エリザベートは気まぐれで、けれど退屈を嫌う人だった。
エマの描く帳面にも興味を持ち、時々隣で自分も絵を描いていた。
だから最近、マリーとはほとんど顔を合わせていない。
マリーより先に起きてエリザベートの部屋へ行き、そして遅くに侍女部屋へ戻る頃には、マリーは眠っているのだと思っていた。
それでも数日前の夜、一度だけ、遅くに侍女部屋へ戻った時。
小さな卓の上に燭台が置かれ、その前でマリーが刺繍枠を抱えていた。
マリーは細い針を布へ通そうとしている。
けれど、動きはぎこちなかった。
さらに獣脂の炎が揺れて、手元は見えにくい。
「……あ……エマ……」
どこか眠そうにマリーが顔を上げる。
「マリーさん、こんな時間まで起きていたんですか?」
「……少し、練習をしなくちゃ……」
白い布には、歪な花模様が刺されていた。
縫い目の間隔が揃っていない。
「痛っ……」
「大丈夫ですか?」
エマが慌てて取り上げた布には、滲んだ血が赤い小花のように咲いていた。
「……最近……ずっとやってるんだけど、全然上手く出来なくて……」
マリーの指先は、刺し傷だらけで赤くなっている。
「もう暗いし、こんな時間までやらなくても……」
「……でも、……覚えないと……いけないわ」
マリーは俯いた。
「……王妃様が、……王女様なら……これくらい出来なくてはいけないと……」
その言い方も話し方も気になったが、エマにはそれ以上聞くことはできなかった。
それから数日後。
「ねぇ、最近、マリーを見ないわね」
洗濯場で、年嵩の侍女がぽつりと言った。
「とうとうマリーも呼ばれたんじゃない? あそこに」
「……やめなさいよ、縁起でもない」
別の侍女が小声で笑う。
エマは水桶を持ったまま顔を上げた。
エマの顔を見た侍女たちは顔を見合わせる。
「前に教えたでしょ。『王女様の遊び部屋』の噂」
「最近、また夜中に灯りがつくとか」
「だからやめなさいって……」
あんたも夜中に呼ばれないようにね、とふざけて笑う声が響く。
けれど、その中に少しだけ本気の怯えが混じっていたように感じられた。
その夜、マリーは戻ってこなかった。
エマは侍女部屋の扉のそばで少し待ってから、廊下に出た。城の夜はいつも冷えていて、燭台の灯りが石壁を鈍く照らしている。
(マリーさん、どこにいるんだろう……。王妃様の私室? それとも王女様の部屋? でも、どっちもわたしが勝手には入れない場所……)
以前、迷い込んた王女の部屋でも、王妃の前室でも、シギュールが入り込んできたのを思い出した。マリーを探すより先に、シギュールを見つけなければという気がした。
あの人なら、城の中のどこへでも行けるはずだ。
それに、北の塔にはあの人の母親のジャンヌがいる。
何か知っているかもしれない。
エマはストールを羽織ると、手燭を持ち、廊下を歩きだした。
まだ寝静まるほどの時間ではない。足音を立てて誰かに見つかるのが怖くて、エマは寝台の下に靴を残してきた。けれど石の床は思ったより冷たく、歩くたびに裸足の足先から体温が奪われていく。
暗闇の中、井戸端を覗き、花壇のそばを通り、侍女たちの詰所の方へ向かいながら、シギュールの姿を探した。
しかし、エマはまた廊下の途中でどこにいるかわからなくなっていた。
(また迷子……。どうしたらいいの)
石の回廊を裸足で歩いたので、氷を押し当てているように痛む。
その時、回廊の窓から灰色の霧を眺めていると、背後に気配が現れた。
「何をしている」
振り返ると、シギュールが立っていた。灯りも持たず、そして、相変わらず足音はしなかった。
いつもなら心臓が跳ねあがっていたが、今はその灰色の瞳を見つけ心底ほっとした。
エマはシギュールを見て、思わず一歩前へ出た。
「……あ、あなたを探していたんです!」
シギュールはかすかに首を傾げる。
「マリーさんを探してもらえませんか」
エマの手元の灯りがシギュールの顔を照らした。
シギュールの灰色の瞳が怪訝そうに細くなる。
「マリーを?」
「マリーさん、今夜も部屋に戻ってこないんです……。『王女様の遊び部屋』に呼ばれたって噂も出てて……。あそこには、ジャンヌさんがいるんですよね?」
シギュールはしばらく黙っていた。
「マリーさんは、北塔にいるんですよね?」
エマの問いかけに、少しだけ視線を伏せる。その沈黙が、答えのように見えた。
「マリーさんに会ったんですか?」
「今は、入れない」
「何か知ってるんですか?」
シギュールは口を閉ざしたままだった。
答えないということが、答えのように思えた。
「お前は、あそこへ近づくな」
「でも――」
「確かめておく」
シギュールは踵を返し、回廊の闇の中へ音もなく去っていった。
そのまま置いていかれたエマは、シギュールを追いかけたが、回廊をずいぶんさまよい、侍女部屋に戻れた頃にはすっかり城は静まり返っていた。
† † † † †
二日後。
エマがいつものようにエリザベートの滞在している客間を訪れると、部屋の中は妙に静かだった。
窓辺にも暖炉の前にも、エリザベートの姿がない。
留守を預かっていた女官に「お戻りになられるまで、こちらでお待ちください」と言われ、エマは落ち着かないまま椅子へ腰掛けた。
しばらくすると、廊下の向こうから衣擦れの音が近づいてきた。
そして、外気をまとったまま、エリザベートが部屋へ戻ってきた。
「おかえりなさいませ」
エリザベートは外套を侍女へ預けると、どこか考え込むように指先で袖口を撫でた。
「エマ、さっきまで王女に会っていたのよ」
エマは一瞬、息を止めた。
「……え?」
「今朝、急に王妃様が案内してくださったの。北の塔の、王女様のお部屋に」
言いながら、エリザベートは椅子へ腰掛ける。
「わたくしが、ずっと王女様に会いたいって言っていたからかしら。でも少し無理を言ってしまったみたいで申し訳なかったわ。わたくしのお出迎えの後から、ずっとお加減が良くないみたいで……」
エリザベートは首を傾げる。
「けれど、少し不思議だったわ。会わせてくださったのに、眠っているところしか見せていただけなかったの。王女様、ずっと眠っていらしたわ」
エマは無意識に、自分の指先を握りしめていた。
冷えた指が、なかなか温まらない。
その夜、侍女部屋へ戻ると、マリーの寝台は空だった。
乱れたまま直されていない枕と、卓の上に置きっぱなしになった刺繍枠。布の上には、途中まで刺された歪な花模様が残っていた。
エマは燭台の灯りを落とさないまま、自分の寝台に腰かけた。
眠れそうにない――。
窓から霧の降りた中庭を眺めると、北の塔の方角に、ぼんやりとした灯りが見えた。獣脂の燭台は揺れる。あの塔の灯りも、霧のせいでゆらゆらと揺れている。
あの灯りの下で眠っているのが、本当に王女なのか――エマには確かめようがなかった。




