第21話 梟と烏合の衆
その日の午後、エマはエリザベートと絵を描いていた。
リュシアンの帳面に描かれた順に、エリザベートは同じ場所の絵を描きたいと言い、エマはそれに付き添っている。
昨日は中庭の花壇で小さな白い花を描き、今日は馬屋で馬を描く。
薄暗い厩舎の中では、毛並みの良い数頭の馬が静かに藁を食んでいる。エリザベートは木箱に腰掛け帳面を開き、人の好い馬丁に時々昔の話を聞きながら絵を描いたりメモを取っていた。
「お偉い方々は、こんな場所には滅多に来られませんよ」と言いながら、馬丁は鼻歌交じりに新しい藁と古い藁を入れ替えている。
これもヴァレンヌの調査の一環なのかなと思いながら、エマも付き合って小さな帳面に木炭を走らせていた。
「……あなた、本当にそのまま描くのね。本当に上手」
隣から、エリザベートが感心したように声を漏らす。
エマの帳面には、馬の筋肉の付き方や、蹄の形、それから古びた木枠の傷まで細かく描き込まれていた。そして、馬の後ろには馬丁の姿まであった。
「修道院では、記録の手伝いをすることもありましたので」
「記録……?」
エリザベートは面白そうに笑う。
「絵というより観察日誌みたいね」
エマは少し困ったように視線を落とした。
「ねぇ、見て。伯父様も、ちゃんと馬丁さんまで描いているわ」
エリザベートは、持ってきていたリュシアンの帳面を開いてエマに渡した。
「……見たまま描いたってことなんですね……」
自分と同じような描き方を見せられて、不思議な気分になる。
だが、そこに描かれていた馬丁の表情は、仏頂面で少し怖そうに見えた。
「ねぇ、あなた。この馬丁さんは今もいるのかしら?」
エリザベートは近くにいた馬丁に声をかけた。
「知りませんねぇ。自分がここに来たのは十二年くらい前だけど、前の方かもしれないんで、侍女頭かシギュール様あたりに聞けば知ってるかもしれませんよ」
「そうなのね」
エリザベートは、そのまま腹の大きな牝馬へ目を向け馬丁に聞いた。
「あの馬、もうすぐ仔を産むのでしょう?」
「ええ、春には。順調ですよ」
「ねぇ、エマ。この横に仔馬も描いてちょうだい」
「え?」
「わたくしは春まではここに居ないので、生まれた仔馬の姿を見てみたいの」
エリザベートは楽しそうに笑った。
「でも、わたしは、想像で絵を描くとすごく……下手なんです」
「まあ。逆に見てみたいわ。上手い人の下手とはどんななのか」
「……えっ……」
エマが自分の帳面を隠すようにすると、エリザベートはくすっと吹き出した。
「あなた、本当に正直なのね」
その時、馬の足を拭いていた馬丁が、急に驚いた声をあげた。
「おっと。これは、噂をすればシギュール様。めずらしいですね、こんな時間に来るなんて」
エマとエリザベートが振り返ると、いつの間に現れたのか、シギュールが立っていた。
相変わらず足音はしない。この人は親しそうに話しかける馬丁さえ驚かせるようだ。その灰色の瞳が、一瞬だけエマの手元へ落ちる。
「殿下がお呼びだ」
「えっ、今ですか?」
「今だ。すぐに」
エマは慌てて帳面を閉じる。
その様子を見て、エリザベートが首を傾げた。
「そんなに見られて困るものでも描いてあるの?」
「い、いえ、そんなことは……」
エマは帳面を抱えたまま立ち上がった。
その様子を興味深そうに眺めていたエリザベートが、ふと思い出したようにシギュールへ視線を向けた。
「シギュール卿、あなたなら、わたくしの伯父――リュシアン・ド・モントレゾールのことを覚えておられるかしら?」
唐突な問いだったが、シギュールは表情を変えなかった。
「いえ。私は使節団の方々と会えるような立場ではありませんし、当時は私もまだ幼く」
――覚えていない、と言い切ることさえしなかった。
冷淡とも言える、非の打ち所のない拒絶だ。
しかし、横から馬丁が暢気な声を挟む。
「おや、そうですか? シギュール様は子どもの頃から、よくこの馬屋に入り浸ってて。十二年前に突然失踪したっていう、先代の馬丁のこともよく覚えておられる――」
馬丁の言葉が、途中で凍りついたように止まった。
シギュールが、ただ、馬丁を静かに見つめていた。
声を荒らげたわけではない。ただ、光の入らない灰色の瞳が、まっすぐに馬丁を射抜いていた。馬屋の空気が、一瞬で冬の底のように冷え切る。
馬丁は慌てて口を噤んで頭を下げた。
「し、失礼しました。余計なことを」
シギュールは何事もなかったかのように踵を返した。
エマは慌ててその後を追う。
その時、エリザベートの顔から微笑みが消えていた。ただ、じっとシギュールの背中を見つめていた。
† † † † †
王子の書斎は以前と変わらず、昼でも薄暗かった。
窓辺には重い帳が垂れ、机には広げられた紙が山のように積まれている。
バルテレミはその前に座ったままだったが、今回は顔を上げてエマの方を見た。
「エリザベートはどうだ」
「え?」
「様子を聞いている」
エマは慌てて言葉を探した。
「……エリザベート様は、筆圧が強い方です。それに左利きです」
「は?」
「紙がへこんでいますし、インクがこすれて左手にもインク汚れが」
「そんなことは聞いていない」
バルテレミの声が強くなり、エマは小さく肩を縮めた。
「何か妙なことは言っていたか」
「え? 妙、ですか……? 例えば?」
「ヴァレンヌの目的でも、リュシアンの話でも何でもいい」
その名前に、エマは首を傾ける。
「……リュシアン様のことは、時々話されます。でも、ただの思い出話です」
バルテレミが何か考えるように視線を少し下げた。
「リュシアン……」
低い声で無意識につぶやいているのか、青い瞳が細くなる。
「リュシアン・ド・モントレゾール。十二年前、この国へ来ていたヴァレンヌの使節だ」
「殿下は、その方をご存じなのですか?」
「いくら俺が幼くても、挨拶くらいはしている」
バルテレミは淡々と言う。
「それに、妹が消えた夜に死んだ男だ。忘れろという方が無理だろう」
その言い方に、エマは胸の奥が少し苦しくなった。
バルテレミにとって、マルグリットは『事件』ではなく、妹なのだ。
「エリザベートは、王女の死を知らないのではないか?」
「……はい、わたしも、そう思いました」
エリザベートは、エマが側仕えの初日に『王女に会いたい』と言っていた。
「夕食の席で、殿下の問いかけに、リュシアン様の死しかおっしゃらなかったので」
「ヴァレンヌには伝わっていない可能性がある」
不意に言われ、エマは瞬きをする。
バルテレミは言葉にはしないが『マルグリット王女の死』のことだろう。
「……え?」
「エリザベートの様子を見る限り、知らされていない」
バルテレミは椅子にもたれた。
「妙な話だ。この国では、皆知っていることなのに」
エマの頭の中で、何かが引っかかった。
けれど、それが何なのかまでは分からない。
バルテレミも、シギュールも、言葉を発さないまま時間が過ぎる。
暖炉の火が、小さく爆ぜた。
その時、バルテレミの視線がエマの抱えている帳面へ向いた。
「それは何だ」
「あっ……」
エマは咄嗟に帳面を後ろに隠そうとしたが遅かった。
「隠すな。見せろ」
バルテレミはわざわざ立ち上がりエマの前に手を差し出す。
エマはエリザベートから渡されていた帳面と、自分の帳面の二冊を持っていたが、自分の帳面を恐る恐る差し出した。
帳面を受け取ったバルテレミは、無造作にそのページをめくる。
そこには、エマが城に来てから目にしたものが描かれていた。
石壁を這い上がる蔦。
アーチ天井の壁沿いに並んだ燭台。
錆びた甲冑と横に置かれた荷車。
大きなテーブルの上の大鍋とパン籠。
中庭の井戸。
そして、シギュールの横顔。
その手が、少しだけ止まった。
バルテレミは一度シギュールの方を見てから、エマを見た。
「……これはお前が描いたのか」
「はい」
「……上手いな」
まさか褒められるとは思っていなかったエマは目を瞬かせた。
「以前お前が描いた、ジャンヌの絵」
不意にその名が出て、エマの肩が揺れる。
「似ている」
バルテレミは小さく呟いた。
「あれは、俺が最後に会ったジャンヌの十二年後の顔だった」
エマは何も言えなかった。自分はあのとき北の塔で見たままを描いただけだ。十二年前のジャンヌの顔は見たことのないので、命じられてもきっと描けないだろう。
またページがめくられる。
次の瞬間、バルテレミの手が止まった。
何故か、部屋が静まり返る。
「……これは何だ……」
恐れるような、低い呟き。
エマは嫌な予感と共にバルテレミに視線を向けた。
バルテレミが見ていたのは、丸い目がいくつも付いた、梟のような、ウサギのような、よく分からない生き物が描かれたページ。
この人の前で妖精の話をしてはいけないと、絵も同じだとマリーに言われた、あの――。
「……あの、それは、……エリュディウスです」
「は?」
「神の目の……妖精の……」
バルテレミの眉が、これまでで一番深く寄った。
その青い瞳には困惑の色が浮かんでいた。
「……下手すぎないか?」
「…………」
「これは、……子どもの落書きか?」
エマは小さく口を開いた。
「……殿下はエリュディウスを見たことがあるんですか?」
「あるわけないだろう……」
怒っているのか、呆れているのか、よくわからない感情がバルテレミの声に現れていた。
「見たことのないものは、上手く描けません」
エマは真剣な声で言い返した。
バルテレミはしばらく黙り込む。
やがて片手で額を押さえ、大きく息を吐いた。
「お前……、これでよく妖精の存在を信じていると言えるな……」
「居ますよ! 妖精は存在します!」
「だが、見たことないんだろう?」
「……うっ……」
「お前、色々とちぐはぐだな……」
呆れたように言われ、エマはバルテレミをにらみ返した。
シギュールが窓際で、かすかに咳払いをした。笑いをこらえているような音だった。
「見たことのないものは描けないんです。空想と同じで、どうしても……」
「ジャンヌの絵はあれだけ正確だったのに」
「だって、それは見たので……」
バルテレミはしばらく考えてから、エマのもう一冊の帳面に視線を落とした。
「そっちは何だ」
「あっ、これはエリザベート様の……リュシアン様の帳面です。ここに描かれている場所で、一緒に中庭で絵を描いていたので、そのまま持ってきてしまいました」
「見せろ」
エマはリュシアンの帳面を差し出した。
バルテレミはページをめくり始めた。
こちらは文句のつけようのない絵が描かれている。
線の細さ、影の付け方。バルテレミはしばらく無言でめくっていた。
やがて、王妃に似た女の絵のページで、手が止まった。
バルテレミは何も言わなかった。
ただ、その絵をしばらく見ていた。
その様子に、エマは静かに付け加えた。
「リュシアン様は、見たものしか描かなかったと、エリザベート様がおっしゃっていました」
やがてバルテレミが口を開いた。
「リュシアンはこの城に来ていた。この女を見て描いた……」
バルテレミはただじっと絵を見続けていた。
「リュシアンと王妃……」
バルテレミは独り言のようにつぶやいた。
「まさか……マルグリットは……」
エマの胸が、どくりと鳴る。
バルテレミは帳面をそっと閉じるとエマに返した。
「これはエリザベートに戻せ」
「……はい」
エマは帳面を受け取ると、ようやく解放されて書斎を後にした。
† † † † †
書斎を出たあと、エマの胸はざわついていた。
冷たい石廊下を歩きながら、何度も頭の中で言葉を並べ直す。
リュシアン・ド・モントレゾール。
エリザベートの伯父にあたる人で、ヴァレンヌ帝国から来た使節。
十二年前にこの城で死んだ。
王妃に似た女の絵を描いた人。
王女が消えたのも、リュシアンが死んだのも、同じ夜。
そして、王女の死はヴァレンヌに伝わっていない。
バルテレミの声が頭の中で繰り返される。
『まさか……マルグリットは……リュシアンの……』
(……もしかして)
マルグリット王女がリュシアンの子だとすれば。
王妃はそれを隠した。
リュシアンとの間に生まれた王女を、王家の子として育てていた。それが露見すれば、王家の体面が崩れる。ヴァレンヌ帝国との関係も。
だから王女の死は国外には伝えられなかった。
今はエリュディウスの気配は感じられない。
――よく見なきゃ……
(もし間違っていたら、エリュディウスに笑われてしまう)
でも、これ以上の答えが今のエマには見つからない。
廊下の燭台は、ゆらゆらと揺れていた。
帝国からの使者 終
次回 6/27 更新します。




