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【7/17完結予定】誰が王女を消したのか  作者: 藤井 紫
帝国からの使者

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20/21

第20話 聞こえない会話

 その日、エマは二つの部屋に付き添った。

 午前中は王妃の私室。夜は王子との夕食の席。

 どちらも、エマは控えの間と扉の近くに立つだけだった。




† † † † †




 王妃の私室は、城の中でも特別に静かな場所だった。

 回廊の喧騒は厚い石壁に遮られ、ここまで来ると別の建物の出来事のように遠い。

 扉が開いた時に少し見えた室内は、暖かそうな厚い絨毯が敷かれ、部屋全体が薄い灰色の光に包まれていた。


 扉が閉じられると、エマは前室の壁際の椅子に腰を掛ける。

 前室には暖炉はないが寒くはない。厚い絨毯が足音を吸い込み、人が通っても気配だけが残る。

 

「・・・、お・・をいただき・・・・・・・・・・、王妃・・」

「・・・・。・・で・・・でしょう」

「お・・・、・・・・・・す」


 扉越しに、かすかに声が届いた。

 けれど言葉は厚い扉と絨毯に吸われ、意味までは聞き取れない。


 しばらくすると、扉が開き給仕を終えた侍女が前室へ戻ってきた。


「モン・ルグリュへ来るのは初めてですの。幼い頃、伯父から話を聞いておりましたので、ずっと一度見てみたいと思っておりました」


 エリザベートの声だ。


「……リュシアン卿ですね」

「ええ。わたくしが幼い頃、よく外国のお話を――」


 そこで扉が閉じられる。

 王妃付きの侍女は、エマが控えているのを確認すると、そのまま前室を出ていった。


 前室には、エマだけが残された。

 一人きりになり、落ち着かない気持ちで膝の上の指を握る。


 本当なら、侍女は何も聞かずに待つべきなのだろう。

 けれど、部屋の中からは、エリザベートが上品に笑う声が聞こえてくる。

 王妃の声は聞こえない。


 そして、時折、部屋が静かになる。

 そんな時は、茶器を置くような音がかすかに聞こえた。


「……昔のこと・・」


 王妃の声が聞こえた。静かで、感情のない声だった。


「もう・わった話・・・・・・」


 少し間を置いてから、エリザベートが何か答えたようだった。

 それは、少し低い声だったのか、聞き取れなかった。



 その時、廊下の方から気配が動いた。足音は聞こえない。

 シギュールだ。

 影のように静かに歩き、前室に入ると音を立てずに廊下側の扉を閉める。


 待機しているエマと目が合うと、何も言わずに口の前に人差し指を立てた。

 そして、扉の隙間に視線を向けていた。


(……え? 盗み聞き?)


 なぜかエマの心拍が少しあがる。エマも好奇心から漏れ聞こえる声に集中する。

 シギュールの灰色の瞳は、いつもより鋭かった。


 しかし、部屋の中の会話は、エマには聞き取れなかった。


「……再調査、・・・・・」


 かろうじて、エリザベートの声だけは断片的に届いた。


 王妃が茶の器をそっと置く音がした。

 それから、しばらく沈黙が続いた。



 シギュールは黙ったまま、来た時と同じように消えた。

 すると、しばらくして王妃の侍女が前室へと戻ってきた。




† † † † †




 そして、夕食の席は、思っていたよりも小規模だった。

 長い卓の中央に燭台が並び、蜜蝋の火が静かに揺れている。窓の外はすでに夜で、黒い硝子には燭火だけがぼんやり映っていた。


 王も王妃もいない。

 いるのは、バルテレミとエリザベート、それに最低限の近侍だけだった。

 エマは壁際に控え、給仕の盆を抱えてじっと見ていた。


 テーブルの上には、侍女たちの食事とはまるで別世界のような料理が並んでいる。

 銀の皿には、甘い香草の香りが混じる肉料理、焼き立ての黒麦パン、蜂蜜を落とした白蕪の煮込み、それに林檎を添えた鹿肉のロースト。

 湯気の立つ茸のスープからは、森の湿った香りがほのかに漂っていた。

 飾り切りされた果実や琥珀色のゼリー菓子まで添えられている。


 侍女の食堂では見たこともない料理ばかりだ。


 しかし、二人の間には、婚約話の出ている男女とは思えないほどの冬の空気が漂っていた。

 部屋は暖かいはずなのに、なぜか冷える……。


「口に合わなければ言ってくれ」

 先に口を開いたのはバルテレミだった。

「ヴァレンヌと味付けが違うかもしれない」


「とても美味しいですわ」

 エリザベートは穏やかに微笑むが、バルテレミの視線はそれを見ていない。


「香草の使い方が少し違いますけれど、それも旅の楽しみですもの」

「そうか」


 そこで会話が切れた。


 エマは壁際にはりついたまま、二人を観察する。

 互いに礼儀正しくて、声も穏やかだ。それなのに、この部屋の空気は少しも温かくない。


 バルテレミの横顔は、彫像のように硬い。いや、それはいつもかもしれないが、バルテレミは終始、向かいに座る美しい姫君を敵国の密偵であるかのように警戒しているようだ。


 バルテレミの碧玉の瞳は、射抜くような鋭さでエリザベートを捉えることがある。

 そして、青い視線で射抜かれようと、エリザベートの笑みは少しも揺れないことに気づくだけだった。


 エマは、修道院では知ることのなかった世界を、ただ黙って見つめていた。


「殿下は、わたくしを警戒しておいででしょう?」

 エリザベートが不意に言った。


 エマは思わず顔を上げそうになり、慌てて視線を落とす。

 そんなことを、本人に言うものなのだろうか。

 だがバルテレミは表情を変えなかった。


「否定した方がいいか? それとも、面白い女だと思われたいのか?」

「いいえ」


 エリザベートはくすっと小さく笑う。


「安心いたしました」

「変わったことを言う」

「何も考えていない方より、ずっと良いですわ」


 バルテレミはしばらく黙っていた。


 青い瞳が、燭台の火を映して静かに揺れる。


「ヴァレンヌは、ずいぶん長く使節を寄越さなかった」


 声音は静かだった。

 けれど、世間話ではない。

 エマにもそれくらいはわかる。


「最後に来たのは十二年前、ですわね」

「その時、死人が出た」


 その一言は、バルテレミが調べにかかった、とエマは感じた。

 エリザベートの手が、ほんの少し止まる。


「……リュシアン・ド・モントレゾールのことですね」


 バルテレミの問いに、エリザベートは伯父の名を挙げた。


「その話、どこまで聞いている? 当時、あなたもまだ幼かったはずだ」


 真っ直ぐな問い。

 エリザベートは数秒考えてから答える。


「こちらの宴席で突然亡くなった、と。心臓まひだったと聞いております」

「それだけか?」

「それ以上、何がございますの?」


 問い返す声は穏やかだった。

 だが、探るようでもあった。

 バルテレミは答えない。

 その沈黙を見て、エリザベートは静かに息を吐く。


「……本国へ返された伯父の遺体に、記録にない傷があったと、古い報告書にございました」


 エリザベートの声が、わずかに低くなる。


「だからこそ、今回の縁組に際し、わたくしに再調査の役目が回ってまいりましたの」


 バルテレミはやはり答えない。

 ただ、碧玉の瞳がかすかに細められた。


「……殿下は、伯父の死を気にしておいでなのですね」

「俺は何も知らない」


 ――違う。

 バルテレミが気にしているのは、使節(リュシアン)の死ではなく、(マルグリット)の死についてだ……。


 まさか、エリザベートはマルグリットの死を知らされていない……?

 エマはこめかみに汗がにじむのを感じ、そっとぬぐった。


「あの時、八歳だった。寝ている間の出来事だ。だが、宴の夜だったことは覚えている」


 エマは皿を下げながら、そっと耳を澄ます。


「伯父は、こちらの国を気に入っていたようです」


 エリザベートが言う。


「子どもの頃、よくモン・ルグリュの話をしてくれました」

「どういう話を?」

「霧が深くて幻想的だ、とか。北の塔が綺麗だとか」


 その言葉を聞いて、エマは帳面の絵を思い出した。リュシアンが描いた北の塔は、今窓の外に立つ塔よりもずっと穏やかに見えた。


 エリザベートは少し微笑んだ。


「同じ塔の絵ばかり描いておりましたので、不思議だったのを覚えております」


 バルテレミは頷きもせず、黙って聞いていた。


「それから、綺麗な女の方の顔も」


 エリザベートは何気ない調子で続ける。

 こちらは無邪気なのか作為的なのかは、エマにはわからない。


「こちらに異国の恋人でもいたのかもしれませんわね」


 その瞬間、空気が少し変わった気がした。

 エマは無意識に呼吸を止める。

 バルテレミの表情は変わらない。

 けれど、何かを考えている顔だった。


「……かもしれないな」


 低い声。

 エリザベートはそれ以上そこに触れなかった。

 代わりに、茶器へ指を添える。


「殿下は、ヴァレンヌ帝国がお嫌いですか?」


 バルテレミが目を上げる。


「なぜそう思う」

「わたくしを見ずに、ヴァレンヌを見ている気がいたしますので」


 しばらく沈黙が落ちた。

 暖炉の火だけが、小さく爆ぜる。


「……利用されるのは好かない」


 やがてバルテレミは言った。


「それは、お互い様ではございません?」

「お前は違うのか」


 エリザベートは少しだけ困ったように笑う。


「わたくしが決めていることではありませんもの」


 その言い方には、諦めにも似た静けさがあった。


「王家の婚姻に、愛情は必要ありませんわ。わたくしは自分の役目は理解しているつもりですので」


 エマはその言葉に、少しだけ胸がざわついた。

 そんなふうに言えるものなのだろうか。


「殿下に大切な方がいらっしゃるなら、それはそれで構いません」

「……随分と物分かりがいいようだ」

「そう教わって育ちました」


 エリザベートは笑った。

 けれど、その笑みは、エマには少しだけ寂しそうにも見えた。


 バルテレミは無言で食事を口にする。

 ようやく少しだけ警戒を緩めたように見えた。

 敵を見る目ではないが、だからといって、安心したわけでもない。


 王子はまだエリザベートのことを計っている。

 けれど最初よりは、人として見始めている。


 その夜、エマの耳には何も届かなかった。

 けれど、胸の奥には、聞こえないはずの何かが残っていた。

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