第19話 箱の中のエリュディウス
エマとエリザベートが客間に戻ったころには、荷物はすっかり片付けられていた。
暖炉の熱がじんわりと身体を包む。窓の外には冬空が重く広がっていたが、この部屋だけは別世界のように暖かい。
「エマ、こちらへ来てくださる?」
エリザベートは机の上に置かれた箱を開けていた。
旅装の中に大切にしまわれていたらしい、薄い帳面が一冊、布に包まれている。
「伯父様の絵なの。さっき話していたでしょう。あなたにも見ていただきたいわ」
エマはそっと受け取った。
「わたしが見ても良いんですか?」
「ええ」
布をほどくと、古い紙の匂いがふわりと立ちのぼる。少し湿った羊皮紙と、長い年月を吸い込んだインクの匂い。まるで遠い昔の空気が、そのまま綴じられていたようだった。
最初のページに、小さな女の子の絵があった。
左下に小さく『Élie』と書かれていたが、おそらく被写体の名が書かれていなくてもこの子が誰だかわかる。
丸い頬、大きな目、少し首を傾けた姿。線は細く、迷いがない。それは描いた人の呼吸や記憶が、そのまま紙の中に残されているようだった。
(……上手い。これは……エリザベート様だ。二歳くらいのころかな)
ページをめくり、エマは思わず息を詰めた。
次のページも、その次も、人や風景が続いている。どれも同じ手によるものだとわかる。線の癖、影の付け方、余白の使い方。
冬に咲く白い花も描かれていた。
花弁の重なりも、影の落ち方も、驚くほど正確だった。
(……絵を描くことを好むような、少し変わった人)
エリザベートが言った言葉がよみがえる。
「伯父様は、よく絵を描いてくださったの。わたくしの顔も、庭の鳥も、城の廊下も……。見たものを、そのまま写すように」
「まるで、時間を切り取ったみたいです!」
エマの声の昂りに、エリザベートは気を良くしたようだった。
「見たものをそのまま、剥製にするみたいに正確に描く人だったのよ」
エリザベートは、懐かしむように目を細めた。
「その続きを見てごらんなさい。そこには『お姫様』の絵がたくさん描いてあるでしょう」
エマがページを進めると、若い娘の絵が何枚も描かれていた。
「わたくしが三歳の頃だったかしら。伯父様がこの城から戻られたとき、伯父様はこの帳面を、とても大切そうに抱えてらしたわ」
エマはページをめくった。
見たことのある井戸端の絵。
そして、北の塔。
今エマが窓から見上げる姿とは違う。紙の上の塔は石壁に差し込む光まで丁寧に写し取られ、まるで物語のお城の一部のようだった。
「伯父様は、実際に見たものばかり描く方だった。だから――」
エリザベートが指先で、ページをそっとめくる。
「この美しい『お姫様』の絵――」
エマは視線を落とした。
ふわりとした髪。
細い首筋。
横顔は、どこか儚く、どこか強い。
そして――
(……王妃様に、似ている)
言葉にはしなかったが、胸の奥で確かにそう思った。
「わたくし、その『お姫様』の絵がどうしても欲しくなって。伯父様にわがままを言ってこの帳面をいただいたの」
エリザベートは懐かしそうに微笑んだ。
「この『お姫様』が誰なのかは、教えていただけなかったけれど……どこかマリアンヌ様に似ていると思わない?」
エマは答えられなかった。
王妃の横顔が、昨日の中庭の光の中で静かに浮かび上がる。
白い肌。
冷たい微笑み。
誰も寄せつけない気配。
そして、マリーの襟を整えたときだけ見せた、あの奇妙な優しさ。
エマは、急に帳面を閉じたくなった。
帳面のページはそのまま、エリザベートに返す。
どのページにも、描いた者の眼差しが残っている。
だから、これ以上見てはいけない気がした。
「伯父様が亡くなったのは十二年前。突然死だったと聞いているわ」
エリザベートの声が少しだけ沈む。
「でも、わたくし……今でも思うの。まだお若かったのに、どうして亡くなられたのか、と」
エマの胸がざわついた。
そのとき、廊下の方から侍女たちの足音が聞こえた。
――エリザベート様は、ご親戚だそうよ
――ほら、あの事故で……
――宴会で……
ささやき妖精の声は途切れ途切れに流れてくる。
エリザベートは微笑んだまま、窓の外へ視線を向けた。
描かれていた女性は、今の王妃よりもずっと若く、どこか幼ささえ残っている。
けれど、その絶望を湛えたような静かな微笑みは、間違いなくあの日中庭で見た王妃のものだった。
「伯父様は、マリアンヌ様がヴァレンヌから嫁いで間もない王太子妃だったころから、この城へ何度か使節として来ていたようなの」
エリザベートは、パラパラと帳面を鳴らし、最後はぱたんと閉じた。
その音は、夜鳥の羽ばたきのように部屋に響いた。
その音と一緒に、エマの頭の中で神の目の妖精の声が聞こえる。
――よく見てごらん
絵を描くことを愛したリュシアン。
彼が正確な線で写し取った、若き日の王妃。
(偶然、なのかな……)
――よく数えてごらん
エマは頭の中で、バラバラの数字を順番に並べてみる。
王女が消えたのは、十二年前。
この帳面の絵が描かれたのは、エリザベートは三歳ごろで、王女が生まれる前。
王女が消えた夜。リュシアンという名の使節が死んだ年。
「エマ、どうしたの?」
エリザベートの問いに、エマは慌てて首を振った。
「あっ。えっと……そろそろお茶の時間かなと……」
嘘だった。
エマは、目の前にある帳面は、開けてはいけない箱のように見えてきた。
リュシアンは、見たままを描く人。
だとしたら、その人が最後にこの城で『見たもの』は何だったのか。
「エマ。ここに居る間、わたくしも絵を描いてみたいのだけど、あなたは描ける?」
「……見たものなら、……それなりに、描けます」
「見たものだけ?」
「はい。見たことのないものは……描けません」
エリザベートはゆっくりと頷いた。
「まぁ。あなたも、よく観察する人なのね。そういう人って案外多いのかしらね」
その言葉が、エマの胸に静かに落ちた。
蜂蜜色の瞳が、静かに細められる。
「あなたは、よく見ている人、なのね」
エマは返事ができなかった。
代わりに、窓の外に広がる冬の景色を見つめた。
そこには相変わらず、影のような北の塔が聳え立っている。
エマは不意に、バルテレミが言った「迷うな」という言葉を思い出し、それを心の中で何度も繰り返した。




