第18話 愛のない婚姻
エマはエリザベートの付き添いとして、城の西側を案内していた。
だが、胸の奥は不思議と落ち着かない。
案内といっても、エマが知っているのは侍女が通る裏道や、せいぜい中庭程度だ。
それでもエリザベートは、エマの三歩後ろを、楽しげに、けれど鋭い視線を石壁の一つ一つに走らせながら歩いていた。
「……あの、エリザベート様。こちらが南の回廊です。風が強いので、お偉い皆さまはあまり通りませんけど」
「確かに、風に冬の獣の匂いが混じっているわね」
エリザベートは回廊の柱にそっと手を触れる。
指先が荒めの石壁をなぞる仕草は、まるでこの城の体温を測っているかのようだった。
そのまま、二人は中庭から本館へ続く回廊を歩いていた。
慣れてきたとはいえ、この城の廊下はどこも似たような石壁と燭台が続く。
エマはこっそり窓の外の北塔の位置を確認しながら歩いていたが、角を曲がったところで、エマは足を止めた。
(……あれ、この廊下、さっきも通った気がする……)
石壁の模様が、さっきと同じだ。絨毯の色も。
(また迷子……?)
「エマ、ここはさっきも通ったんじゃない?」
いいわけする前に、エリザベートに指摘されてしまう。
エマが内心で途方に暮れていると、廊下の陰から、音もなく人が現れた。
「こちらではない」
低い声にエマは飛び上がりそうになった。
――シギュールだ。
いつの間にそこにいたのか、全くわからなかった。気配もなく、足音もなく、まるで壁から出てきたようだった。
エリザベートは驚いたようで、長いまつ毛がわずかに揺れた。
「あ……ありがとうございます」
エマが礼を言うと、シギュールは無言で視線をエリザベートに移した。
エリザベートもシギュールを見つめる。
やがてエリザベートが口を開いた。
「昨日、王子殿下のお側にいらした方ですね」
「そうです」
「最初にお見かけした時、殿下と見間違えてしまって、大変失礼いたしました」
エリザベートの謝罪に、シギュールは何も言わなかった。
「灰色の瞳で、所作がとても端正でいらして。『王家の証』の色ですから、てっきり王子殿下かと思ってしまったのです。殿下とあなた様は少し似ておられますし、ご親戚、でしょうか?」
エリザベートはあくまでも自然な笑顔だった。悪意は微塵も感じられない。ただ、思ったことを率直に口にしているだけという様子だった。
シギュールの表情は変わらない。
でもエマには、その静けさが、何かを隠しているように見えた。
『王家の証』の身体的特徴、灰色の瞳――。
だが、バルテレミ殿下の瞳は灰色ではない。
反対に、マリーの瞳は王とよく似ている。そして、シギュールも。
血というものは、思ったほど単純ではないのかもしれない。
「お気になさらず……」
シギュールは短く答えた。
「乳兄弟として育ちましたので、所作は似ているかもしれません」
「まあ、乳兄弟。それは仲睦まじいのでしょうね」
「……さあ」
それだけ言って、シギュールはエマに視線を戻した。
「次の角を右へ」
「あ、はい」
エマが歩き出すと、エリザベートもついてきた。
角を曲がったところで、エリザベートがエマにだけ聞こえる声で言った。
「あの方、変わっているわね」
「はい、わたしもそう思います」
「王家の瞳と同じ色なのに、親戚かと聞かれたら『お気になさらず』と答えるなんて。普通はきっぱり否定するか、笑って流すでしょう」
エマは何も言えなかった。
「それに、あなたの案内をずっと見ていたわ」
「……見張られているんでしょうか」
「見張りというより、気にかけている、という感じかしら」
エリザベートはふふっと笑った。
「誰を、とは言えないけれど」
廊下の向こうに、シギュールの気配はもうなかった。
いつものように、音もなく現れ、音もなく消える。
エマはこっそり後ろを振り返ったが、やはり誰もいなかった。
「ねえ、エマ。あなたから見て、バルテレミ殿下はどのような方?」
唐突な問いに、エマの足がもつれそうになった。
「えっ……。そ、それは、わたしは噂程度しか知りませんので……」
「構いませんわ。どのような噂が囁かれているの?」
エマはどう答えるべきか悩んだ。
バルテレミの良い噂は一つも聞こえてこない。数回会っただけのバルテレミは、眉間に皺を寄せた不機嫌な顔と、冷たい碧玉の瞳。そして、「迷うな」と短く告げたあの声。
「……殿下は、妖精嫌いだと」
「妖精嫌い?」
「はい。殿下の前だけでなく、この城で妖精の話はしてはいけないと言われています」
「まぁ。モン・ルグリュは妖精信仰のお国なのに?」
「……殿下は、目に見えないものを信じられないのかもしれません」
エリザベートはくすりと笑った。
「そう。きっと不器用なのね。でも、その『目に見えないもの』に愛が含まれていたとしても、婚姻には関係ありませんわ。大切なのは、彼がこの国をどう支え、わたくしの国とどう繋がるか。ただそれだけですもの」
「……エリザベート様は、殿下のことを、好きになろうとはなさらないのですか?」
エマが恐る恐る尋ねると、エリザベートは足を止め、窓の外を見つめた。
そこには冬の青空の下、不吉なほど静かに北の塔がそびえ立っている。
「エマ。王家の婚姻に愛は要りませんわ」
その声に、迷いはない。
「愛は、むしろ邪魔になることさえある。殿下に愛する方がいても、わたくしは一向に構いません。わたくしが欲しいのは、殿下の心ではなく、この国との『契約』ですから」
エマの胸の奥が、ちりりと焼けた。
修道院では、愛を説く。誰かを慈しみ、共に生きることこそが神の御心だと。
けれど、この美しい姫君が語る世界には、血の通った感情の入り込む隙がない。
「寂しいことだと、思われないんですか?」
「いいえ。役目があるということは、自分が何者であるかを知っているということよ。迷わなくて済むわ」
「迷わない……」
エリザベートは翻り、歩き出す。
「以前は、わたくしの伯父も、こちらへ使節として来ていたことがあったのよ」
「伯父様、ですか?」
「ええ。あなたは会ったことないでしょうけど、リュシアン・ド・モントレゾールと言うの。長年お勤めの方ならご存じかもしれないわ」
――リュシアン
エマの脳裏に、あの北の塔の光景が蘇った。
暗い部屋で、狂ったように人形を抱いていたジャンヌ。彼女がエマの顔を見て、震える声で呼んだ名。
「その、リュシアン様という方は……どんな方ですか?」
エマは、必死に動悸を抑えながら尋ねた。
「とても優しい方だったわ。皇族としての公務よりも、絵を描くことを好むような、少し変わった人」
絵を描く。
エマの手が、無意識に自分の指先を握った。
遠く、城門の方から風が吹き抜け、エマの頬を冷たく叩いた。
北の塔が、巨大な日時計の針のように、ゆっくりと城の中庭を陰らせていく。
「……今どちらに居られるんですか?」
「十二年前に、亡くなりました。この国から帰る直前にと聞いています」
十二年前。
王女が消えた、あの年――。
「今回、昔の記録を改めて確認することにもなっているの。伯父の死についても」
蜂蜜色の瞳が、静かにエマを見つめる。
エマは、北塔の暗がりでジャンヌが呟いた名を、もう一度思い出していた。
リュシアン様。
その名だけが、冷たい石の廊下にいつまでも残っているような気がした。




