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【7/17完結予定】誰が王女を消したのか  作者: 藤井 紫
帝国からの使者

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18/21

第18話 愛のない婚姻

 エマはエリザベートの付き添いとして、城の西側を案内していた。

 だが、胸の奥は不思議と落ち着かない。


 案内といっても、エマが知っているのは侍女が通る裏道や、せいぜい中庭程度だ。

 それでもエリザベートは、エマの三歩後ろを、楽しげに、けれど鋭い視線を石壁の一つ一つに走らせながら歩いていた。


「……あの、エリザベート様。こちらが南の回廊です。風が強いので、お偉い皆さまはあまり通りませんけど」

「確かに、風に冬の獣の匂いが混じっているわね」


 エリザベートは回廊の柱にそっと手を触れる。

 指先が荒めの石壁をなぞる仕草は、まるでこの城の体温を測っているかのようだった。



 そのまま、二人は中庭から本館へ続く回廊を歩いていた。


 慣れてきたとはいえ、この城の廊下はどこも似たような石壁と燭台が続く。

 エマはこっそり窓の外の北塔の位置を確認しながら歩いていたが、角を曲がったところで、エマは足を止めた。


(……あれ、この廊下、さっきも通った気がする……)


 石壁の模様が、さっきと同じだ。絨毯の色も。


(また迷子……?)


「エマ、ここはさっきも通ったんじゃない?」


 いいわけする前に、エリザベートに指摘されてしまう。

 エマが内心で途方に暮れていると、廊下の陰から、音もなく人が現れた。


「こちらではない」


 低い声にエマは飛び上がりそうになった。


 ――シギュールだ。

 いつの間にそこにいたのか、全くわからなかった。気配もなく、足音もなく、まるで壁から出てきたようだった。


 エリザベートは驚いたようで、長いまつ毛がわずかに揺れた。


「あ……ありがとうございます」


 エマが礼を言うと、シギュールは無言で視線をエリザベートに移した。

 エリザベートもシギュールを見つめる。

 やがてエリザベートが口を開いた。


「昨日、王子殿下のお側にいらした方ですね」

「そうです」

「最初にお見かけした時、殿下と見間違えてしまって、大変失礼いたしました」


 エリザベートの謝罪に、シギュールは何も言わなかった。


「灰色の瞳で、所作がとても端正でいらして。『王家の証』の色ですから、てっきり王子殿下かと思ってしまったのです。殿下とあなた様は少し似ておられますし、ご親戚、でしょうか?」


 エリザベートはあくまでも自然な笑顔だった。悪意は微塵も感じられない。ただ、思ったことを率直に口にしているだけという様子だった。


 シギュールの表情は変わらない。

 でもエマには、その静けさが、何かを隠しているように見えた。


 『王家の証』の身体的特徴、灰色の瞳――。

 だが、バルテレミ殿下の瞳は灰色ではない。

 反対に、マリーの瞳は王とよく似ている。そして、シギュールも。

 血というものは、思ったほど単純ではないのかもしれない。


「お気になさらず……」

 シギュールは短く答えた。


「乳兄弟として育ちましたので、所作は似ているかもしれません」

「まあ、乳兄弟。それは仲睦まじいのでしょうね」

「……さあ」


 それだけ言って、シギュールはエマに視線を戻した。


「次の角を右へ」

「あ、はい」


 エマが歩き出すと、エリザベートもついてきた。

 角を曲がったところで、エリザベートがエマにだけ聞こえる声で言った。


「あの方、変わっているわね」

「はい、わたしもそう思います」

「王家の瞳と同じ色なのに、親戚かと聞かれたら『お気になさらず』と答えるなんて。普通はきっぱり否定するか、笑って流すでしょう」


 エマは何も言えなかった。


「それに、あなたの案内をずっと見ていたわ」

「……見張られているんでしょうか」

「見張りというより、気にかけている、という感じかしら」


 エリザベートはふふっと笑った。


「誰を、とは言えないけれど」


 廊下の向こうに、シギュールの気配はもうなかった。

 いつものように、音もなく現れ、音もなく消える。

 エマはこっそり後ろを振り返ったが、やはり誰もいなかった。


「ねえ、エマ。あなたから見て、バルテレミ殿下はどのような方?」


 唐突な問いに、エマの足がもつれそうになった。


「えっ……。そ、それは、わたしは噂程度しか知りませんので……」

「構いませんわ。どのような噂が囁かれているの?」


 エマはどう答えるべきか悩んだ。

 バルテレミの良い噂は一つも聞こえてこない。数回会っただけのバルテレミは、眉間に皺を寄せた不機嫌な顔と、冷たい碧玉の瞳。そして、「迷うな」と短く告げたあの声。


「……殿下は、妖精嫌いだと」

「妖精嫌い?」

「はい。殿下の前だけでなく、この城で妖精の話はしてはいけないと言われています」

「まぁ。モン・ルグリュは妖精信仰のお国なのに?」

「……殿下は、目に見えないものを信じられないのかもしれません」


 エリザベートはくすりと笑った。


「そう。きっと不器用なのね。でも、その『目に見えないもの』に愛が含まれていたとしても、婚姻には関係ありませんわ。大切なのは、彼がこの国をどう支え、わたくしの国とどう繋がるか。ただそれだけですもの」


「……エリザベート様は、殿下のことを、好きになろうとはなさらないのですか?」


 エマが恐る恐る尋ねると、エリザベートは足を止め、窓の外を見つめた。

 そこには冬の青空の下、不吉なほど静かに北の塔がそびえ立っている。


「エマ。王家の婚姻に愛は要りませんわ」

 その声に、迷いはない。


「愛は、むしろ邪魔になることさえある。殿下に愛する方がいても、わたくしは一向に構いません。わたくしが欲しいのは、殿下の心ではなく、この国との『契約』ですから」


 エマの胸の奥が、ちりりと焼けた。

 修道院では、愛を説く。誰かを慈しみ、共に生きることこそが神の御心だと。


 けれど、この美しい姫君が語る世界には、血の通った感情の入り込む隙がない。


「寂しいことだと、思われないんですか?」

「いいえ。役目があるということは、自分が何者であるかを知っているということよ。迷わなくて済むわ」

「迷わない……」


 エリザベートは翻り、歩き出す。


「以前は、わたくしの伯父も、こちらへ使節として来ていたことがあったのよ」

「伯父様、ですか?」


「ええ。あなたは会ったことないでしょうけど、リュシアン・ド・モントレゾールと言うの。長年お勤めの方ならご存じかもしれないわ」



 ――リュシアン



 エマの脳裏に、あの北の塔の光景が蘇った。

 暗い部屋で、狂ったように人形を抱いていたジャンヌ。彼女がエマの顔を見て、震える声で呼んだ名。


「その、リュシアン様という方は……どんな方ですか?」

 エマは、必死に動悸を抑えながら尋ねた。


「とても優しい方だったわ。皇族としての公務よりも、絵を描くことを好むような、少し変わった人」


 絵を描く。

 エマの手が、無意識に自分の指先を握った。


 遠く、城門の方から風が吹き抜け、エマの頬を冷たく叩いた。

 北の塔が、巨大な日時計の針のように、ゆっくりと城の中庭を陰らせていく。


「……今どちらに居られるんですか?」

「十二年前に、亡くなりました。この国から帰る直前にと聞いています」



 十二年前。

 王女が消えた、あの年――。



「今回、昔の記録を改めて確認することにもなっているの。伯父の死についても」


 蜂蜜色の瞳が、静かにエマを見つめる。


 エマは、北塔の暗がりでジャンヌが呟いた名を、もう一度思い出していた。


 リュシアン様。


 その名だけが、冷たい石の廊下にいつまでも残っているような気がした。

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