第17話 残された名前
エリザベート・ド・モントレゾールが城門をくぐってから、モン・ルグリュ城の空気は少し変わった。
石壁の色も、廊下の冷たさも、いつもと同じはずだった。
だが、城の中を歩く侍女たちの足音だけが、いつもより少し慌ただしい。
ヴァレンヌ帝国の姫君。
そう呼ぶ者もいれば、未来の王子妃と囁く者もいる。
だがエマには、それよりも少しだけ気になることがあった。
エリザベートに従妹と似ていると言われたことだ。
蜂蜜色の瞳と、よくあるブラウンの髪。それなら、似ている人だらけではないだろうか。
エマは客用の水差しを抱えながら、廊下の隅で小さく首を傾げた。
そもそも親の顔すら、思い出せないのだ。
自分には修道院で育った記憶しかなく、自分に似た親族などまったく思い当たらない。
昔、アグネス院長に言われたことがある。
『あなたはとても絵が上手だから、お父様かお母様の顔を思い出して描いてごらんなさい』と。
エマは紙の前に座り、木炭を握ったが、何も描けなかった。
親の輪郭も、髪も、目も。まるで霧の向こうにあるようによく見えない。
見たものなら描けるのに。
でも、空想と同じで、思い出せないものもうまく描けない。
それに、親族と言うものは似るものなのだろうか。王子なのに王家の『灰色の瞳』を持たないバルテレミのことを思い浮かべながら考えた。
「エマ」
呼ばれて顔を上げると、侍女頭が廊下の向こうからこちらへ歩いてくるところだった。
「エリザベート様付きに入るように。王妃様のご命令よ」
エマは抱えていた水差しを落としそうになった。小さなル・コルヌが腕の上を走り去っていった。
「え? わたしが、ですか?」
「そうなの。あちら様のご指名なのですから。失礼のないように。分かったわね」
「……はい」
昨日の出迎えのときに言われたことは、本当にそのまま通ってしまったらしい。
(王子殿下は、すごく嫌そうな顔をしてた……)
バルテレミの顔を思い出す。
はっきりと眉を寄せていた。あれはわかりやすかった。
王子は基本的に笑わない人だが、不機嫌な感情はかなりわかりやすい。
エマは侍女頭に連れられ、客間へと向かった。
ヴァレンヌの使節が滞在する客間は、西側奥の区画に用意されていた。ここも普段は下働きの侍女が近づく場所ではない。
廊下には敷物が厚く敷かれ、壁には冬でも色褪せない織物が掛けられている。
扉の前には、ヴァレンヌの護衛騎士が立っていた。
灰色ではない、濃い青の外套。金糸の双頭の鷲。
エマが少し見上げると、声をかける前に騎士は無言で扉を開いた。
客間はとても暖かかった。
暖炉には火が入り、窓辺には旅装の外套が丁寧に掛けられている。大きな箱が二つ、まだ開けられないまま壁際に置かれている。
部屋の中央に、エリザベートが立っていた。
絹製の淡い蜂蜜色のドレスに、深い青の上着を羽織っている。派手ではないが、仕立てのよさはエマにもわかる。
そばには年上の女官が一人控えている。
その目は厳しく、エマの頭から爪先までをすばやく確かめた。
「まあ、来てくださったのね」
エリザベートは明るく言った。
「滞在中のお世話を仰せつかりました」
「ええ。こちらこそよろしくね。エリィと呼んでくださって構いませんわ」
「い、いえ、それは……」
「では、エリザベート様で」
すぐに言い直され、エマはほっとした。
いきなり愛称で呼ぶ勇気はない。
エリザベートはくすりと笑った。
「あなた、歳の割に真面目なのね」
「よく言われます」
「誰に?」
「修道院でそう言われていました」
「修道院?」
エリザベートの瞳が、少しだけ興味を帯びた。
「あなた、修道院育ちなの?」
「はい。ピエルモンの近くのサント=ヴェール修道院で育ちました」
「ピエルモン……ああ、国境に近い町ね。だからかしら」
「何がでしょう?」
「あなた、少しヴァレンヌの言葉のなまりがあるように思うわ。それに、昨日花の名前を聞いたとき、すぐわかったでしょう?」
そういえば、到着後の支度の途中で、飾られた花について少し聞かれた。
他の侍女は冬に咲く花の名を知らなかったが、エマは知っている名を答えただけだった。
「修道院には、ヴァレンヌから来た方もいましたので」
「そう。それは心強いわ」
エリザベートは窓の外へ視線を向けた。
中庭の向こうには、北塔の影が見えている。
「わたくし、この城は初めてなの。思ったより静かな場所ね」
「はい。静かです」
でも囁き妖精たちはうるさいけれど。
そう続けそうになって、エマは口を閉ざした。
「よろしければ、少しご案内いたしましょうか。わたしの行ける範囲になりますけど。それともお部屋でお休みになりますか?」
「その前に」
エリザベートは振り返った。
「王女様にご挨拶したいわ」
なぜか、エマに緊張が走る。
「……え? 王女様……ですか?」
「ええ。マルグリット王女殿下。こちらにいらっしゃるのでしょう?」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
エマは何も言えなかった。
マルグリット王女は、十二年前に亡くなった。
この国では、誰もがそう知っている。
少なくとも、エマはそう聞いていた。
だが、エリザベートは当然のように言った。
亡くなった人への弔いではなく、生きている人に会う約束を求めるように。
王家の墓は北の塔の地下にある。
バルテレミが暴いたというマルグリット王女の墓。
そこは、侍女は入れない場所だ。
「……その、わたしは下働きの侍女なので、王女様のことは……」
「知らない?」
「……はい」
嘘ではない。
エマは知らない。確かに、知らない。
でも、その知らなさには棘があった。
エリザベートは少し不思議そうに首を傾げた。
「昨日、王妃殿下のお側にいらした若い方がそうではなくて?」
あれは、マリーだ。
白い毛皮を肩に掛けられ、王妃の半歩後ろに立っていたマリー。
エマは答えに詰まった。
「あの方は……」
マリーという王妃様のお気に入りの侍女です。
そう言えばよいはずだった。
しかし、言えなかった。
あの場で王妃は何も嘘を言わなかった。
あれは、そう見えるようにしていた。
なら自分がここで勝手に正すことは、何になるのだろう。
「……体調が……優れないと、王妃様がおっしゃっていました」
結局、エマはそれだけを言った。
「そう。ご病弱なのかしら」
エリザベートは納得したようだった。
「可哀想に。長旅のわたくしより、あの方の方がずっと青ざめて見えたもの」
エマは腹の前で手を握った。
マリーは緊張すると顔色が白くなる。
昨日もたぶん、嬉しさと緊張の両方だった。
しかし、エリザベートには違って見えたのだ。
王妃に守られる、病弱な王女。
そう見えるように、仕向けられていたから。
「では、ご挨拶はまた改めてね」
エリザベートはあっさりと言った。
「あなた、王女様のお部屋の場所は知っている?」
エマの背中がこわばった。
王女の部屋は、十二年前で時が止まっている。
北塔の、閉ざされた子ども部屋。
蜜蝋の灯りと、人形を抱く女。あの人は王子の乳母。
そして、エマをリュシアン様、と呼んだ声。
「……えっと、存じません」
今度は、少しだけ嘘だった。
エリザベートはエマを見つめた。
蜂蜜色の瞳が静かに細まる。
「あなたは、嘘をつくのがあまり上手ではないのね」
エマは顔を上げた。
「も、申し訳ございません」
「怒っているわけではありませんわ。わたくし、それは理解しています」
エリザベートは笑った。
「だけど、安心したわ。あまり上手に嘘をつく人ばかりの城だと、息が詰まるでしょ?」
その言い方があまりにも自然で、エマは返事ができなかった。
この人は気づいている。
何に、とまではわからない。
もしかすると、この城の空気が少しおかしいことには、すでに気づいているのかもしれない。
「ねえ、エマ」
「はい」
「あなたは、この城に来て長いの?」
「いいえ。実は、まだ二十日も経っておりません」
「では、わたくしと大して変わらないわね」
「でも、わたしは侍女です」
「それは立場でしょう。時間の話をしているの」
エリザベートは窓辺へ歩いた。
厚い硝子の向こうで、北塔の影が冬空に伸びている。
「あの塔は?」
エマの心臓が、ひとつ大きく打った。
「北の塔です」
「使われているの?」
「……分かりません」
「そう」
エリザベートはそれ以上、追及しなかった。
その代わり、まったく別の話をするように言った。
「わたくしもね、ここへ来る前に教えられました。笑いなさい、黙りなさい、よく見なさい、と」
「よく、見る……」
よく……見て……ごらん……
かすかに、エリュディウスの声が聞こえた気がした。
「ええ。婚姻の話は、本人同士の好みだけで決まりませんもの。城の様子、王の老い方、王妃や王子の態度。そういうものを見るのも、わたくしの役目なの」
エマは少し驚いた。
エリザベートは十八歳だ。
エマより三つ年上なだけだ。
だが、話す内容は思っていたよりずっと大人だった。
「……エリザベート様は、ご結婚がお嫌ではないのですか?」
思わず尋ねてから、エマは青くなった。
「あっ、申し訳ありません」
しかしエリザベートは怒らなかった。
むしろ面白そうに振り返る。
「殿下は王族ですし、わたくしは帝国の駒の一つ。自分の役目はわきまえています。嫌かどうかで決まるものではありませんわ」
「でも……」
「王族や貴族の婚姻は、橋のようなものです。国と国を渡すために架けられる。橋に、渡りたいかどうかなど聞かないでしょう?」
エマは黙った。
「わたくしは、ヴァレンヌから贈られた娘です。美しい箱に入れられて、丁寧に運ばれた。けれど役目は分かっています」
その声は明るい。
けれど、言っていることは少しも明るくなかった。
「……人質、ということですか」
言った瞬間、エマはまた失言したと思った。
エリザベートの女官が眉を動かす。
だがエリザベート本人は、ほんの少しだけ笑った。
「あなた、やはり面白い子ね。そういうところは、わたくしの従妹とは似ていないわ」
「申し訳ございません」
「いいえ。言葉が直截なだけよ。そうね、半分は人質。半分は約束。もう半分は贈り物」
「あの、半分が三つあると、一にはなりませんけど……」
「ええ、そうよ。貴族の娘は、大抵そういう数え方をされるの」
エマは何も言えなかった。
アニエス院長からは、人は神の前では等しいと教わった。
けれど城に来てから、等しいものなど一つも見ていない気がする。
王妃、王子、マリー、シギュール。そして、エリザベート。
皆、それぞれ違う鎖を持っている。
「それに、王妃殿下もヴァレンヌから嫁がれたので、不安は少ないわ」
エリザベートがそう言うと、エマは書庫で見た系譜の本を思い出した。
「王妃様も、たしか十八か十九歳の頃にこちらへ嫁がれたようですね」
「ええ。だから、少しお話を伺いたいの。異国で生きることを、あの方はよくご存じでしょうから」
エマは王妃の顔を思い出した。
白い、冷たい彫像のような人。
王が話している間、一度も夫を見なかった人。
マリーに毛皮を掛けたときだけ、母親のような声を出した人。
けれどその優しさは、どこか冷たかった。
エリザベートは窓の外へ視線を戻し、それから急に明るい声に戻った。
「エマ。まずはこの城を少し案内してくださる? あなたの迷わない範囲で」
「迷わない……範囲、ですか」
「ええ。昨日、王子殿下があなたを見る顔が、そういう顔でしたもの」
エマは思わず口を閉ざした。
見られていた。それだけではなく、バルテレミがエマを見た顔まで。
「……わたしを指名なさったのは、それが理由ですか?」
エリザベートは少し考えてから、にこりと笑った。
「あまり上手に嘘をつかない人が、この城にもいたと分かったから、かしら」
エマは返事ができなかった。
「さあ、参りましょう」
エリザベートは笑った。
その笑みは今度こそ暖かかった。
けれどエマは、この人が昨日から城の中をずっとよく見ていたのだということを、静かに理解した。




