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【7/17完結予定】誰が王女を消したのか  作者: 藤井 紫
帝国からの使者

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17/21

第17話 残された名前

 エリザベート・ド・モントレゾールが城門をくぐってから、モン・ルグリュ城の空気は少し変わった。


 石壁の色も、廊下の冷たさも、いつもと同じはずだった。

 だが、城の中を歩く侍女たちの足音だけが、いつもより少し慌ただしい。


 ヴァレンヌ帝国の姫君。


 そう呼ぶ者もいれば、未来の王子妃と囁く者もいる。


 だがエマには、それよりも少しだけ気になることがあった。

 エリザベートに従妹と似ていると言われたことだ。

 蜂蜜色の瞳と、よくあるブラウンの髪。それなら、似ている人だらけではないだろうか。


 エマは客用の水差しを抱えながら、廊下の隅で小さく首を傾げた。


 そもそも親の顔すら、思い出せないのだ。

 自分には修道院で育った記憶しかなく、自分に似た親族などまったく思い当たらない。


 昔、アグネス院長に言われたことがある。

 『あなたはとても絵が上手だから、お父様かお母様の顔を思い出して描いてごらんなさい』と。


 エマは紙の前に座り、木炭を握ったが、何も描けなかった。

 親の輪郭も、髪も、目も。まるで霧の向こうにあるようによく見えない。


 見たものなら描けるのに。

 でも、空想と同じで、思い出せないものもうまく描けない。


 それに、親族と言うものは似るものなのだろうか。王子なのに王家の『灰色の瞳』を持たないバルテレミのことを思い浮かべながら考えた。


「エマ」


 呼ばれて顔を上げると、侍女頭が廊下の向こうからこちらへ歩いてくるところだった。


「エリザベート様付きに入るように。王妃様のご命令よ」


 エマは抱えていた水差しを落としそうになった。小さなル・コルヌが腕の上を走り去っていった。


「え? わたしが、ですか?」

「そうなの。あちら様のご指名なのですから。失礼のないように。分かったわね」

「……はい」


 昨日の出迎えのときに言われたことは、本当にそのまま通ってしまったらしい。


(王子殿下は、すごく嫌そうな顔をしてた……)


 バルテレミの顔を思い出す。

 はっきりと眉を寄せていた。あれはわかりやすかった。

 王子は基本的に笑わない人だが、不機嫌な感情はかなりわかりやすい。


 エマは侍女頭に連れられ、客間へと向かった。






 ヴァレンヌの使節が滞在する客間は、西側奥の区画に用意されていた。ここも普段は下働きの侍女が近づく場所ではない。


 廊下には敷物が厚く敷かれ、壁には冬でも色褪せない織物が掛けられている。


 扉の前には、ヴァレンヌの護衛騎士が立っていた。

 灰色ではない、濃い青の外套。金糸の双頭の鷲。

 エマが少し見上げると、声をかける前に騎士は無言で扉を開いた。



 客間はとても暖かかった。

 暖炉には火が入り、窓辺には旅装の外套が丁寧に掛けられている。大きな箱が二つ、まだ開けられないまま壁際に置かれている。


 部屋の中央に、エリザベートが立っていた。

 絹製の淡い蜂蜜色のドレスに、深い青の上着を羽織っている。派手ではないが、仕立てのよさはエマにもわかる。


 そばには年上の女官が一人控えている。

 その目は厳しく、エマの頭から爪先までをすばやく確かめた。


「まあ、来てくださったのね」


 エリザベートは明るく言った。


「滞在中のお世話を仰せつかりました」

「ええ。こちらこそよろしくね。エリィと呼んでくださって構いませんわ」

「い、いえ、それは……」

「では、エリザベート様で」


 すぐに言い直され、エマはほっとした。

 いきなり愛称で呼ぶ勇気はない。

 エリザベートはくすりと笑った。


「あなた、歳の割に真面目なのね」

「よく言われます」

「誰に?」

「修道院でそう言われていました」

「修道院?」


 エリザベートの瞳が、少しだけ興味を帯びた。


「あなた、修道院育ちなの?」

「はい。ピエルモンの近くのサント=ヴェール修道院で育ちました」

「ピエルモン……ああ、国境に近い町ね。だからかしら」

「何がでしょう?」

「あなた、少しヴァレンヌの言葉のなまりがあるように思うわ。それに、昨日花の名前を聞いたとき、すぐわかったでしょう?」


 そういえば、到着後の支度の途中で、飾られた花について少し聞かれた。

 他の侍女は冬に咲く花の名を知らなかったが、エマは知っている名を答えただけだった。


「修道院には、ヴァレンヌから来た方もいましたので」

「そう。それは心強いわ」


 エリザベートは窓の外へ視線を向けた。

 中庭の向こうには、北塔の影が見えている。


「わたくし、この城は初めてなの。思ったより静かな場所ね」

「はい。静かです」


 でも囁き妖精(ノジワール)たちはうるさいけれど。

 そう続けそうになって、エマは口を閉ざした。


「よろしければ、少しご案内いたしましょうか。わたしの行ける範囲になりますけど。それともお部屋でお休みになりますか?」

「その前に」


 エリザベートは振り返った。


「王女様にご挨拶したいわ」


 なぜか、エマに緊張が走る。


「……え? 王女様……ですか?」

「ええ。マルグリット王女殿下。こちらにいらっしゃるのでしょう?」


 暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。


 エマは何も言えなかった。

 マルグリット王女は、十二年前に亡くなった。


 ()()()では、誰もがそう知っている。

 少なくとも、エマはそう聞いていた。


 だが、エリザベートは当然のように言った。

 亡くなった人への弔いではなく、生きている人に会う約束を求めるように。


 王家の墓は北の塔の地下にある。

 バルテレミが暴いたというマルグリット王女の墓。

 そこは、侍女は入れない場所だ。


「……その、わたしは下働きの侍女なので、王女様のことは……」


「知らない?」

「……はい」


 嘘ではない。

 エマは知らない。確かに、知らない。

 でも、その知らなさには棘があった。

 エリザベートは少し不思議そうに首を傾げた。


「昨日、王妃殿下のお側にいらした若い方がそうではなくて?」


 あれは、マリーだ。

 白い毛皮を肩に掛けられ、王妃の半歩後ろに立っていたマリー。


 エマは答えに詰まった。

「あの方は……」


 マリーという王妃様のお気に入りの侍女です。


 そう言えばよいはずだった。

 しかし、言えなかった。


 あの場で王妃は何も嘘を言わなかった。

 あれは、()()()()()()()()していた。

 なら自分がここで勝手に正すことは、何になるのだろう。


「……体調が……優れないと、王妃様がおっしゃっていました」


 結局、エマはそれだけを言った。


「そう。ご病弱なのかしら」


 エリザベートは納得したようだった。


「可哀想に。長旅のわたくしより、あの方の方がずっと青ざめて見えたもの」


 エマは腹の前で手を握った。

 マリーは緊張すると顔色が白くなる。

 昨日もたぶん、嬉しさと緊張の両方だった。


 しかし、エリザベートには違って見えたのだ。

 王妃に守られる、病弱な王女。

 ()()()()()()()()、仕向けられていたから。


「では、ご挨拶はまた改めてね」

 エリザベートはあっさりと言った。


「あなた、王女様のお部屋の場所は知っている?」


 エマの背中がこわばった。


 王女の部屋は、十二年前で時が止まっている。

 北塔の、閉ざされた子ども部屋。

 蜜蝋の灯りと、人形を抱く女。あの人は王子の乳母。

 そして、エマをリュシアン様、と呼んだ声。


「……えっと、存じません」

 今度は、少しだけ嘘だった。


 エリザベートはエマを見つめた。

 蜂蜜色の瞳が静かに細まる。


「あなたは、嘘をつくのがあまり上手ではないのね」


 エマは顔を上げた。

「も、申し訳ございません」


「怒っているわけではありませんわ。わたくし、それは理解しています」

 エリザベートは笑った。


「だけど、安心したわ。あまり上手に嘘をつく人ばかりの城だと、息が詰まるでしょ?」


 その言い方があまりにも自然で、エマは返事ができなかった。


 この人は気づいている。

 何に、とまではわからない。

 もしかすると、この城の空気が少しおかしいことには、すでに気づいているのかもしれない。


「ねえ、エマ」

「はい」

「あなたは、この城に来て長いの?」

「いいえ。実は、まだ二十日も経っておりません」

「では、わたくしと大して変わらないわね」

「でも、わたしは侍女です」

「それは立場でしょう。時間の話をしているの」


 エリザベートは窓辺へ歩いた。

 厚い硝子の向こうで、北塔の影が冬空に伸びている。


「あの塔は?」


 エマの心臓が、ひとつ大きく打った。


「北の塔です」

「使われているの?」

「……分かりません」

「そう」


 エリザベートはそれ以上、追及しなかった。

 その代わり、まったく別の話をするように言った。


「わたくしもね、ここへ来る前に教えられました。笑いなさい、黙りなさい、よく見なさい、と」

「よく、見る……」


 よく……見て……ごらん……

 かすかに、エリュディウスの声が聞こえた気がした。


「ええ。婚姻の話は、本人同士の好みだけで決まりませんもの。城の様子、王の老い方、王妃や王子の態度。そういうものを見るのも、わたくしの役目なの」


 エマは少し驚いた。


 エリザベートは十八歳だ。

 エマより三つ年上なだけだ。

 だが、話す内容は思っていたよりずっと大人だった。


「……エリザベート様は、ご結婚がお嫌ではないのですか?」


 思わず尋ねてから、エマは青くなった。

「あっ、申し訳ありません」


 しかしエリザベートは怒らなかった。

 むしろ面白そうに振り返る。


「殿下は王族ですし、わたくしは帝国の駒の一つ。自分の役目はわきまえています。嫌かどうかで決まるものではありませんわ」

「でも……」


「王族や貴族の婚姻は、橋のようなものです。国と国を渡すために架けられる。橋に、渡りたいかどうかなど聞かないでしょう?」


 エマは黙った。


「わたくしは、ヴァレンヌから贈られた娘です。美しい箱に入れられて、丁寧に運ばれた。けれど役目は分かっています」


 その声は明るい。

 けれど、言っていることは少しも明るくなかった。


「……人質、ということですか」


 言った瞬間、エマはまた失言したと思った。


 エリザベートの女官が眉を動かす。

 だがエリザベート本人は、ほんの少しだけ笑った。


「あなた、やはり面白い子ね。そういうところは、わたくしの従妹とは似ていないわ」

「申し訳ございません」


「いいえ。言葉が直截なだけよ。そうね、半分は人質。半分は約束。もう半分は贈り物」

「あの、半分が三つあると、一にはなりませんけど……」

「ええ、そうよ。貴族の娘は、大抵そういう数え方をされるの」


 エマは何も言えなかった。


 アニエス院長からは、人は神の前では等しいと教わった。

 けれど城に来てから、等しいものなど一つも見ていない気がする。


 王妃、王子、マリー、シギュール。そして、エリザベート。

 皆、それぞれ違う鎖を持っている。


「それに、王妃殿下もヴァレンヌから嫁がれたので、不安は少ないわ」


 エリザベートがそう言うと、エマは書庫で見た系譜の本を思い出した。


「王妃様も、たしか十八か十九歳の頃にこちらへ嫁がれたようですね」

「ええ。だから、少しお話を伺いたいの。異国で生きることを、あの方はよくご存じでしょうから」


 エマは王妃の顔を思い出した。


 白い、冷たい彫像のような人。

 王が話している間、一度も夫を見なかった人。

 マリーに毛皮を掛けたときだけ、母親のような声を出した人。

 けれどその優しさは、どこか冷たかった。


 エリザベートは窓の外へ視線を戻し、それから急に明るい声に戻った。


「エマ。まずはこの城を少し案内してくださる? あなたの迷わない範囲で」

「迷わない……範囲、ですか」

「ええ。昨日、王子殿下があなたを見る顔が、そういう顔でしたもの」


 エマは思わず口を閉ざした。

 見られていた。それだけではなく、バルテレミがエマを見た顔まで。


「……わたしを指名なさったのは、それが理由ですか?」


 エリザベートは少し考えてから、にこりと笑った。


「あまり上手に嘘をつかない人が、この城にもいたと分かったから、かしら」


 エマは返事ができなかった。


「さあ、参りましょう」


 エリザベートは笑った。

 その笑みは今度こそ暖かかった。


 けれどエマは、この人が昨日から城の中をずっと()()()()()()のだということを、静かに理解した。

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