第16話 ヴァレンヌの姫君
北塔の夜から七日の間に、エマは一度王子に呼び出され、二度『灰色の瞳』の青年に脅された。
本人たちは違うつもりかもしれないが、エマはそう感じていた。
最初に現れたのは、『灰色の瞳』の青年シギュールだった。
朝の回廊で、洗い上がった麻布を抱えて歩いていると、柱の陰から音もなく出てきた。やはり足音がしない。
妖精ではなく人間なのに、そこだけどうしても納得がいかない。
「北塔には近づくな」
シギュールの低い声が耳に届く。
「……近づいておりません」
「これからもだ」
「……はい」
不服そうに答えると、シギュールは一瞬だけ何か言いたげな顔をしたが、結局そのまま去っていった。
音もなく現れ、音もなく去る。あれではマリーの言うとおり幽霊のようだ。
二度目は、王子だった。
昼下がり、侍従に「王子殿下がお呼びです」と告げられ、通されたのはあの書斎だった。壁一面の本棚と、窓を塞ぐ厚い布。昼でも夜でも同じ明るさだ。
バルテレミは机に向かったまま、顔も上げずに言った。
「梟娘、お前はリュシアンという名は知っているか?」
挨拶もない。
話しながら動かしているペンを持つ手にはインクが染みている。
「存じません。ただ……」
「ただ?」
「その名は、ヴァレンヌ帝国ではよくあるお名前だと思います」
「ヴァレンヌか」
「はい、ヴァレンヌ帝国はアステル信仰なので『光』の名前は男女ともに多いんです。特に貴族の方に」
そこで初めて、王子が顔を上げた。
余計なことを言い過ぎたかとヒヤリとしたが、碧玉の瞳は真っ直ぐエマを見ているだけだ。
「よく知っているな。お前のルーツもヴァレンヌなのか?」
「さぁ? それはわかりませんが、ピエルモンは国境近くの町なので、色んな人がおりました」
「……そうか」
そう言うと、バルテレミは再び書状に視線を戻した。
自分を修道院へ預けた親が、どこ出身の誰だかはエマにもわからない。
頭を下げ静かに退出しようとすると、背中に声が飛んできた。
「梟娘」
呼び止められたのかと思って振り返る。
「迷うな」
エマはしばらく意味がわからず立ち尽くした。
迷うな、とは。わたしの人生の話だろうか。城の廊下の話だろうか。たぶん後者だと思いたい。
三度目は、またシギュールだった。
夕刻、井戸端で水差しを洗っていると、背後から手が伸びてきて、エマの持っていた木桶をひょいと持ち上げた。
「っ!?」
「重いだろう」
「お、脅かさないでください!」
「脅かすつもりはない」
そのまま無表情で井戸の縁まで運び、水を汲んで戻してくる。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
「では、次から音を立てて近づいてくれませんか」
「……それは難しいな」
「なぜですか?」
「昔から、こうなんだ……」
シギュールはいつもの無表情のままだった。
だが最後の一言だけは、少し昔の誰かの声のように聞こえた。
そして、七日目の朝。
城中が、妙に落ち着かなかった。
床は磨き直され、普段は閉じている南門まで開かれ、侍女たちは朝から走り回っている。台所からは肉を焼く匂いがし、冬なのに廊下には花まで飾られていた。
「ヴァレンヌ帝国の使節がいらっしゃるのよ」
マリーが声を弾ませて言った。
「お客様ですか?」
「お客様なんてものじゃないわ。未来のお妃様かもしれない方よ」
そこでエマは、書斎でのことを思い出した。
王子は机に向かい、ひとつの書状を睨んでいたが、その間ずっと、冷たい空気が張りつめたものがあった。
(……今日は、何か起こりそう)
そう思ったとき、離れた城門の方からラッパの音が鳴った。
† † † † †
仕事の手が足りないという理由で、エマたち下働きの侍女まで中庭へ駆り出された。
雪こそ降っていないが、空気は冷たく、吐く息が白い。
中庭には既に従者や侍女たちが並ばされ、正面の石階段の少し下に王子バルテレミが立っていた。
バルテレミの姿を見て、侍女たちは気づかれないようにひそひそと囁き合っている。
そのさらに後ろ、誰より自然に影のように、シギュールがいる。
やがて、王と王妃がやってきた。王が王妃の手を取り石段を上る。そして、最上段に並んで立った。
初めて目にする、王と、王妃の姿。
先にエマの目に入ったのは王の方だった。
ロバン王は想像していたよりも年老いて見えた。
金の髪には白いものが混じり、肩には重い毛皮の外套。若い頃は大柄だったのだろう骨格に、いまは少しだけ歳月が乗っている。だが背筋は真っ直ぐで、そこに立つだけで周囲の者が自然に頭を垂れるオーラがあった。
その瞳を見た瞬間、エマは小さく目を見開いた。
(あれは……)
――灰色の瞳。
マリーが倒れたあの日、廊下の奥の影からこちらを見ていた男だ。誰より先にマリーの異変に気づいていたはずなのに、騒がず、近寄らず、ただ静かに見つめて去っていった人。
(あの方が、国王陛下……)
王とは、もっと遠くて、神のような存在だと思っていた。玉座や紋章のような、人ではないものだと。
だがそこにいたのは、疲れた肩を隠しながら国を背負って立つ、一人の初老の男だった。
ただ、瞳だけは違う。
灰色のその色だけは、老いを感じさせない。王家の瞳。何かを見すぎた人のような目だ。
そして、その隣に立つ王妃へ視線を移したとき。
エマは一瞬、息をするのを忘れてしまった。
白い。
雪よりも、石壁よりも、朝の霜よりも先にそう思った。肌だけではない。顔立ちも、指先も、首筋も、身にまとう沈黙までが整いすぎていて、まるで冷たい彫像に色だけ差したようだった。
ダークブラウンの髪色の対比で、余計に肌の白さが際立っている。
年齢は分からない。若くも見えるが、初老にも見える。笑んでいるのに温かさがなく、優しげなのに、近づけば冷たく触れられそうな。そんな矛盾が、マリアンヌ王妃の微笑みの中に存在している。
王が半歩前に立ち、王妃はその横に並んでいる。夫婦の位置であるはずなのに、二人のあいだには冬の川ほどの距離があるように見えた。
王が集まった人たちに歓迎の言葉を述べる間、王妃は一度も夫を見なかった。
王とは別の視線で、集まった人を見渡し、そして門の外を見ていた。
そのとき、エマの隣でマリーがそわそわと爪先立ちをした。朝から浮足立っていたが、今はそれがいっそう落ち着かない。
「静かにしなさい」
侍女頭に小声で叱られ、マリーは肩をすくめる。
すると石階段の上で、王妃の視線がマリーを捕えた。手袋をはめた王妃の指先がほんのわずかに、手招きするように動いた。
それに気がついたマリーは弾かれたように顔を上げ、列を抜けて王妃の方へ進み出た。
(マリーさん?)
エマは瞬きをして、マリーの行動を見つめた。
マリーは迷いなく石段を上がり、王妃の傍らで膝を折った。すっかりしつけられている。まるで初めからそこにいるべき人だったように自然な動きだ。
王妃は何も言わず、マリーを側に立たせる。
そして、少し微笑むようにしての襟元へ手を伸ばした。少し曲がっていた襟飾りを整え、乱れた髪を耳へ掛ける。
まるで、娘にするような仕草だ。
それから、王妃は自ら肩に掛けていた白毛皮の外套を外すと、マリーの肩へそっと掛けた。
中庭の空気が、わずかに揺れた。
侍女たちは顔を上げない。だが見ている。
エマにも分かった。マリーが王妃のお気に入りの侍女にしても、あまりに手厚い。
毛皮を掛けられたマリーは、頬を赤くしてうつむいている。嬉しいのか、緊張しているのか、その両方かもしれなかった。
――奥様のお気に入り……
かすかに囁き妖精たちの声が聞こえる。
そのとき、再び門の外からラッパが鳴った。
ヴァレンヌの旗を掲げた馬車が、ゆっくりと城門をくぐってくる。
王妃の手が、マリーの肩に一度だけ触れた。
「今日は風が冷えるわ。おまえは少し顔色が悪い。挨拶だけしたら、先に下がりなさい」
エマの耳にも王妃の声が聞こえた。
それはまさに母親のように優しい声音だった。
だが、エマには何故か、その声がひどく冷たく聞こえた。
マリーは小さく「はい」と答えた。
そして王妃の半歩後ろに立つ。
白い毛皮を肩に掛け、灰色の瞳を伏せた若い娘は、侍女には見えなかった。
(……ああ。もしかして)
エマは気がついた。
これは、見せるための立ち姿だ。
誰にかは考えるまでもなく、今まさに馬車から降りてくる、ヴァレンヌの客人に対して。
馬のいななきと車輪の音が出迎えの陣に近づいてきた。
白銀の縁取りがされた馬車だった。
護衛騎士たちの外套には、金糸で縫われた双頭の鷲の紋章が風を受けて揺れている。
(帝国って、紋章まで強そう……)
馬車が止まり、従者が扉を開いた。
最初に降りてきたのは年配の文官だった。続いて女官。護衛。
そして最後に、その人は現れた。
――若い娘。
ブラウンの少し波打った髪を冬の日差しがやわらかく照らし、肩から流れる毛先だけが少し明るく透けている。
瞳は蜂蜜を薄めたような色で、笑えば暖かそうなのに、まだ笑っていないせいか不思議と冷たく見えた。
厚手の旅装の上からでも、姿勢の良さが分かる。
(きれいな人だ……)
エマが見とれているうちに、その娘は迷いなく石階段へ進み、王と王妃へ優雅に礼をした。
「ヴァレンヌ帝国より参りました。エリザベート・ド・モントレゾールにございます」
その声まで澄んでいた。
この人は見せ方を知っている、見られることに慣れている人だ。
ロバン王は一歩進み、重い外套の裾を整えて口を開いた。
「エリザベート・ド・モントレゾール殿。遠きヴァレンヌより、よくぞ我が城へお越しくださった。雪道の旅は、さぞ骨が折れたことであろう」
王は中庭を見渡すように顎を上げる。
「モン・ルグリュは小さき国にて、帝都の壮麗には及ばぬ。されど、客人を迎える誠意においては劣るつもりはない」
侍従たちが一斉に頭を下げた。
「どうか、この滞在が貴女にとって実りあるものとなるよう願っている。古き友誼が、次の世代にも続くことを祈ってな」
「陛下のお言葉、ありがたく頂戴いたします。実りある滞在になるかどうかは、これから拝見して決めますわ」
随分はっきりした人だな、とエマはエリザベートの顔をそっと観察した。年は十七・八くらいだろうか。明るいブラウンの髪に、蜂蜜色の瞳。
王妃は王の隣で静かに微笑んでいた。
しかし、その微笑みがどことなく硬いことに、エマだけではなく何人かは気づいたかもしれない。
王の言葉が終わると、王妃に言われたとおり、マリーはそっと城の中へと戻っていった。
エリザベートは顔を上げると、その視線を階段上の人々へ滑らせた。
そして、ぴたりと一人で止まった。
その視線はシギュールを見つめている。
灰色の瞳。整った立ち姿。王族の側にいながら、誰より静かな青年。
エリザベートは自然な調子で微笑んだ。
「まあ。バルテレミ殿下は、想像していたよりずっと麗しい方なのですね」
中庭の空気が、ほんのわずかに止まった。
その場にいた者たちの視線が一斉に揺れる。
(そ、その方は王子殿下ではありません!)
エマは心の中ではそう叫んでいたが、……さすがに言えない。侍女ごときにそんな権利はない。
王子に見間違えられても、シギュールの表情は変わらなかった。
だが、階段の一段上で、バルテレミがゆっくり眉を上げた。
しばしの沈黙の後、ロバン王は笑みを作って言った。
「そちらは近習のシギュール。余の子と共に育った者だ。そして、こちらが我が子バルテレミだ」
エリザベートは瞬きを一つしたあと、すぐに視線をバルテレミへ移した。
そして、少しも慌てずに、花のようにふわりと笑う。
「失礼いたしました。それほどお側の方が頼もしいのですね。では、あなた様がバルテレミ殿下でいらっしゃるのですね」
蜂蜜色の瞳が、碧玉の瞳を見つめる。
笑顔を向け、悪意なく続けた。
「まあ。王妃殿下によく似ておいでなのですね」
王妃の笑みが、ほんの少しだけ止まった。
エマはその横顔を見ていた。
バルテレミは口を閉ざしたままだ。
ただ碧玉の瞳だけが、冬の玻璃のように冷えていた。
しかし、その冷たい空気を気に留めることもなく、エリザベートの視線は列の端にいたエマへ向いた。
エマをじっと見て、それから首を傾げる。
「……あら」
エリザベートは階段を一段降りた。
周囲がざわめく。女官が止めかけるのを、手だけで制した。
まっすぐエマの前までやって来る。
近くで見ると、香りまで上品だった。花ではなく、乾いた紙と香木のような匂い。ヴァレンヌ地方の香木だろうか。
「あなた」
思考を遮られ、エマは慌てて膝を折る。
「あ、はい」
「驚いた。まるで、わたくしの従妹のようなお色をしているわ」
中庭の空気が、また止まった。
エマには意味が分からなかった。
髪と瞳のことだろうか。色と言われても、自分はよくある茶色だと思っていた。ピエルモンの町には同じような髪の人はたくさんいた。なのに、なぜこの人はそんな顔をするのだろう……。
「お名前は?」
「エマと申します」
「エマ」
エリザベートは振り返り、王妃へ柔らかく言った。
「お願いがございます。滞在のあいだ、この娘をわたくし付きにしていただけませんか? 従妹にとても似ているのです」
その瞬間、バルテレミが初めてはっきりと顔をしかめた。
シギュールだけが、表情を変えずにエマを見ていた。
(……やっぱり今日は、何か起こる日だった)
そう思ってから、エマはふと気づいた。
今の言葉を、マリーが聞いていなくてよかった、と。




