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【7/17完結】誰が王女を消したのか  作者: 藤井 紫
帝国からの使者

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16/22

第16話 ヴァレンヌの姫君

 北塔の夜から七日の間に、エマは一度王子に呼び出され、二度『灰色の瞳』の青年に脅された。

 本人たちは違うつもりかもしれないが、エマはそう感じていた。



 最初に現れたのは、『灰色の瞳』の青年シギュールだった。


 朝の回廊で、洗い上がった麻布を抱えて歩いていると、柱の陰から音もなく出てきた。やはり足音がしない。

 妖精ではなく人間なのに、そこだけどうしても納得がいかない。


「北塔には近づくな」


 シギュールの低い声が耳に届く。


「……近づいておりません」

「これからもだ」

「……はい」


 不服そうに答えると、シギュールは一瞬だけ何か言いたげな顔をしたが、結局そのまま去っていった。

 音もなく現れ、音もなく去る。あれではマリーの言うとおり幽霊のようだ。



 二度目は、王子だった。


 昼下がり、侍従に「王子殿下がお呼びです」と告げられ、通されたのはあの書斎だった。壁一面の本棚と、窓を塞ぐ厚い布。昼でも夜でも同じ明るさだ。


 バルテレミは机に向かったまま、顔も上げずに言った。


「梟娘、お前はリュシアンという名は知っているか?」


 挨拶もない。

 話しながら動かしているペンを持つ手にはインクが染みている。


「存じません。ただ……」

「ただ?」


「その名は、ヴァレンヌ帝国ではよくあるお名前だと思います」

「ヴァレンヌか」


「はい、ヴァレンヌ帝国はアステル信仰なので『ルシア』の名前は男女ともに多いんです。特に貴族の方に」


 そこで初めて、王子が顔を上げた。

 余計なことを言い過ぎたかとヒヤリとしたが、碧玉の瞳は真っ直ぐエマを見ているだけだ。


「よく知っているな。お前のルーツもヴァレンヌなのか?」

「さぁ? それはわかりませんが、ピエルモンは国境近くの町なので、色んな人がおりました」

「……そうか」


 そう言うと、バルテレミは再び書状に視線を戻した。


 自分を修道院へ預けた親が、どこ出身の誰だかはエマにもわからない。


 頭を下げ静かに退出しようとすると、背中に声が飛んできた。


「梟娘」


 呼び止められたのかと思って振り返る。


「迷うな」


 エマはしばらく意味がわからず立ち尽くした。

 迷うな、とは。わたしの人生の話だろうか。城の廊下の話だろうか。たぶん後者だと思いたい。



 三度目は、またシギュールだった。


 夕刻、井戸端で水差しを洗っていると、背後から手が伸びてきて、エマの持っていた木桶をひょいと持ち上げた。


「っ!?」

「重いだろう」

「お、脅かさないでください!」

「脅かすつもりはない」


 そのまま無表情で井戸の縁まで運び、水を汲んで戻してくる。


「……ありがとうございます」

「礼はいらない」


「では、次から音を立てて近づいてくれませんか」

「……それは難しいな」


「なぜですか?」

「昔から、こうなんだ……」


 シギュールはいつもの無表情のままだった。

 だが最後の一言だけは、少し昔の誰かの声のように聞こえた。






 そして、七日目の朝。


 城中が、妙に落ち着かなかった。

 床は磨き直され、普段は閉じている南門まで開かれ、侍女たちは朝から走り回っている。台所からは肉を焼く匂いがし、冬なのに廊下には花まで飾られていた。


「ヴァレンヌ帝国の使節がいらっしゃるのよ」


 マリーが声を弾ませて言った。


「お客様ですか?」

「お客様なんてものじゃないわ。未来のお妃様かもしれない方よ」


 そこでエマは、書斎でのことを思い出した。


 王子は机に向かい、ひとつの書状を睨んでいたが、その間ずっと、冷たい空気が張りつめたものがあった。


(……今日は、何か起こりそう)


 そう思ったとき、離れた城門の方からラッパの音が鳴った。





† † † † †




 仕事の手が足りないという理由で、エマたち下働きの侍女まで中庭へ駆り出された。

 雪こそ降っていないが、空気は冷たく、吐く息が白い。


 中庭には既に従者や侍女たちが並ばされ、正面の石階段の少し下に王子バルテレミが立っていた。


 バルテレミの姿を見て、侍女たちは気づかれないようにひそひそと囁き合っている。


 そのさらに後ろ、誰より自然に影のように、シギュールがいる。



 やがて、王と王妃がやってきた。王が王妃の手を取り石段を上る。そして、最上段に並んで立った。


 初めて目にする、王と、王妃の姿。

 先にエマの目に入ったのは王の方だった。


 ロバン王は想像していたよりも年老いて見えた。

 金の髪には白いものが混じり、肩には重い毛皮の外套。若い頃は大柄だったのだろう骨格に、いまは少しだけ歳月が乗っている。だが背筋は真っ直ぐで、そこに立つだけで周囲の者が自然に頭を垂れるオーラがあった。


 その瞳を見た瞬間、エマは小さく目を見開いた。


(あれは……)


 ――灰色の瞳。


 マリーが倒れたあの日、廊下の奥の影からこちらを見ていた男だ。誰より先にマリーの異変に気づいていたはずなのに、騒がず、近寄らず、ただ静かに見つめて去っていった人。


(あの方が、国王陛下……)


 王とは、もっと遠くて、神のような存在だと思っていた。玉座や紋章のような、人ではないものだと。

 だがそこにいたのは、疲れた肩を隠しながら国を背負って立つ、一人の初老の男だった。


 ただ、瞳だけは違う。

 灰色のその色だけは、老いを感じさせない。王家の瞳。何かを見すぎた人のような目だ。


 そして、その隣に立つ王妃へ視線を移したとき。

 エマは一瞬、息をするのを忘れてしまった。


 白い。

 雪よりも、石壁よりも、朝の霜よりも先にそう思った。肌だけではない。顔立ちも、指先も、首筋も、身にまとう沈黙までが整いすぎていて、まるで冷たい彫像に色だけ差したようだった。

 ダークブラウンの髪色の対比で、余計に肌の白さが際立っている。


 年齢は分からない。若くも見えるが、初老にも見える。笑んでいるのに温かさがなく、優しげなのに、近づけば冷たく触れられそうな。そんな矛盾が、マリアンヌ王妃の微笑みの中に存在している。


 王が半歩前に立ち、王妃はその横に並んでいる。夫婦の位置であるはずなのに、二人のあいだには冬の川ほどの距離があるように見えた。


 王が集まった人たちに歓迎の言葉を述べる間、王妃は一度も夫を見なかった。


 王とは別の視線で、集まった人を見渡し、そして門の外を見ていた。


 そのとき、エマの隣でマリーがそわそわと爪先立ちをした。朝から浮足立っていたが、今はそれがいっそう落ち着かない。


「静かにしなさい」


 侍女頭に小声で叱られ、マリーは肩をすくめる。

 すると石階段の上で、王妃の視線がマリーを捕えた。手袋をはめた王妃の指先がほんのわずかに、手招きするように動いた。


 それに気がついたマリーは弾かれたように顔を上げ、列を抜けて王妃の方へ進み出た。


(マリーさん?)


 エマは瞬きをして、マリーの行動を見つめた。


 マリーは迷いなく石段を上がり、王妃の傍らで膝を折った。すっかりしつけられている。まるで初めからそこにいるべき人だったように自然な動きだ。


 王妃は何も言わず、マリーを側に立たせる。

 そして、少し微笑むようにしての襟元へ手を伸ばした。少し曲がっていた襟飾りを整え、乱れた髪を耳へ掛ける。

 まるで、娘にするような仕草だ。

 それから、王妃は自ら肩に掛けていた白毛皮の外套を外すと、マリーの肩へそっと掛けた。


 中庭の空気が、わずかに揺れた。


 侍女たちは顔を上げない。だが見ている。

 エマにも分かった。マリーが王妃のお気に入りの侍女にしても、あまりに手厚い。


 毛皮を掛けられたマリーは、頬を赤くしてうつむいている。嬉しいのか、緊張しているのか、その両方かもしれなかった。


 ――奥様のお気に入り……


 かすかに囁き妖精(ノジワール)たちの声が聞こえる。



 そのとき、再び門の外からラッパが鳴った。

 ヴァレンヌの旗を掲げた馬車が、ゆっくりと城門をくぐってくる。


 王妃の手が、マリーの肩に一度だけ触れた。


「今日は風が冷えるわ。おまえは少し顔色が悪い。挨拶だけしたら、先に下がりなさい」


 エマの耳にも王妃の声が聞こえた。

 それはまさに母親のように優しい声音だった。


 だが、エマには何故か、その声がひどく冷たく聞こえた。


 マリーは小さく「はい」と答えた。

 そして王妃の半歩後ろに立つ。


 白い毛皮を肩に掛け、灰色の瞳を伏せた若い娘は、侍女には見えなかった。


(……ああ。もしかして)


 エマは気がついた。

 これは、()()()()()の立ち姿だ。

 誰にかは考えるまでもなく、今まさに馬車から降りてくる、ヴァレンヌの客人に対して。




 馬のいななきと車輪の音が出迎えの陣に近づいてきた。


 白銀の縁取りがされた馬車だった。

 護衛騎士たちの外套には、金糸で縫われた双頭の鷲の紋章が風を受けて揺れている。


(帝国って、紋章まで強そう……)


 馬車が止まり、従者が扉を開いた。


 最初に降りてきたのは年配の文官だった。続いて女官。護衛。

 そして最後に、その人は現れた。



 ――若い娘。



 ブラウンの少し波打った髪を冬の日差しがやわらかく照らし、肩から流れる毛先だけが少し明るく透けている。

 瞳は蜂蜜を薄めたような色で、笑えば暖かそうなのに、まだ笑っていないせいか不思議と冷たく見えた。


 厚手の旅装の上からでも、姿勢の良さが分かる。


(きれいな人だ……)


 エマが見とれているうちに、その娘は迷いなく石階段へ進み、王と王妃へ優雅に礼をした。



「ヴァレンヌ帝国より参りました。エリザベート・ド・モントレゾールにございます」


 その声まで澄んでいた。

 この人は見せ方を知っている、見られることに慣れている人だ。


 ロバン王は一歩進み、重い外套の裾を整えて口を開いた。


「エリザベート・ド・モントレゾール殿。遠きヴァレンヌより、よくぞ我が城へお越しくださった。雪道の旅は、さぞ骨が折れたことであろう」


 王は中庭を見渡すように顎を上げる。


「モン・ルグリュは小さき国にて、帝都の壮麗には及ばぬ。されど、客人を迎える誠意においては劣るつもりはない」


 侍従たちが一斉に頭を下げた。


「どうか、この滞在が貴女にとって実りあるものとなるよう願っている。古き友誼が、次の世代にも続くことを祈ってな」


「陛下のお言葉、ありがたく頂戴いたします。実りある滞在になるかどうかは、これから拝見して決めますわ」


 随分はっきりした人だな、とエマはエリザベートの顔をそっと観察した。年は十七・八くらいだろうか。明るいブラウンの髪に、蜂蜜色の瞳。


 王妃は王の隣で静かに微笑んでいた。

 しかし、その微笑みがどことなく硬いことに、エマだけではなく何人かは気づいたかもしれない。


 王の言葉が終わると、王妃に言われたとおり、マリーはそっと城の中へと戻っていった。


 エリザベートは顔を上げると、その視線を階段上の人々へ滑らせた。

 そして、ぴたりと一人で止まった。


 その視線はシギュールを見つめている。


 灰色の瞳。整った立ち姿。王族の側にいながら、誰より静かな青年。


 エリザベートは自然な調子で微笑んだ。


「まあ。バルテレミ殿下は、想像していたよりずっと麗しい方なのですね」


 中庭の空気が、ほんのわずかに止まった。

 その場にいた者たちの視線が一斉に揺れる。


(そ、その方は王子殿下ではありません!)


 エマは心の中ではそう叫んでいたが、……さすがに言えない。侍女ごときにそんな権利はない。


 王子に見間違えられても、シギュールの表情は変わらなかった。

 だが、階段の一段上で、バルテレミがゆっくり眉を上げた。


 しばしの沈黙の後、ロバン王は笑みを作って言った。


「そちらは近習のシギュール。余の子と共に育った者だ。そして、こちらが我が子バルテレミだ」


 エリザベートは瞬きを一つしたあと、すぐに視線をバルテレミへ移した。

 そして、少しも慌てずに、花のようにふわりと笑う。


「失礼いたしました。それほどお側の方が頼もしいのですね。では、あなた様がバルテレミ殿下でいらっしゃるのですね」


 蜂蜜色の瞳が、碧玉の瞳を見つめる。

 笑顔を向け、悪意なく続けた。


「まあ。王妃殿下によく似ておいでなのですね」


 王妃の笑みが、ほんの少しだけ止まった。


 エマはその横顔を見ていた。


 バルテレミは口を閉ざしたままだ。

 ただ碧玉の瞳だけが、冬の玻璃のように冷えていた。


 しかし、その冷たい空気を気に留めることもなく、エリザベートの視線は列の端にいたエマへ向いた。

 エマをじっと見て、それから首を傾げる。


「……あら」


 エリザベートは階段を一段降りた。

 周囲がざわめく。女官が止めかけるのを、手だけで制した。


 まっすぐエマの前までやって来る。


 近くで見ると、香りまで上品だった。花ではなく、乾いた紙と香木のような匂い。ヴァレンヌ地方の香木だろうか。


「あなた」


 思考を遮られ、エマは慌てて膝を折る。


「あ、はい」

「驚いた。まるで、わたくしの従妹のようなお色をしているわ」


 中庭の空気が、また止まった。


 エマには意味が分からなかった。

 髪と瞳のことだろうか。色と言われても、自分はよくある茶色だと思っていた。ピエルモンの町には同じような髪の人はたくさんいた。なのに、なぜこの人はそんな顔をするのだろう……。


「お名前は?」

「エマと申します」


「エマ」


 エリザベートは振り返り、王妃へ柔らかく言った。


「お願いがございます。滞在のあいだ、この娘をわたくし付きにしていただけませんか? 従妹にとても似ているのです」


 その瞬間、バルテレミが初めてはっきりと顔をしかめた。


 シギュールだけが、表情を変えずにエマを見ていた。


(……やっぱり今日は、何か起こる日だった)


 そう思ってから、エマはふと気づいた。

 今の言葉を、マリーが聞いていなくてよかった、と。

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