特別番外編(中編):シルバーエンジェル、ピットロードに立つ
メイクルームは、簡易テントの中とは思えないほど、独特の熱気に満ちていた。
扇風機の風がコスメの匂いを攪拌し、テーブルの上にはファンデーション、ブラシ、ヘアアイロン、スプレー缶。
「じゃ、シエルちゃん、こっち座って」
折りたたみチェアに腰を下ろすと、あっという間にケープをかけられる。
銀髪が肩に流れ、ライトの光を受けて柔らかく光った。
「髪色、ほんとに地毛なの?」
「まあ、その、体質的なもので……」
「いいなーこの色。ウィッグじゃ出せない透明感なんだよねぇ」
スタッフが楽しそうに髪を指先でつまみながら、あごのラインを確認する。プロの視線は迷いがない。
「髪、どうする? 巻く?」
「あの、できれば、このままで……。あんまり触ると、不自然に見える気がして」
「オッケー。じゃあ、ストレートのまま軽く整えるだけにしよ。この色と艶なら、下手にいじらないほうが映えるしね」
余計な手を加えない、という判断は、シエルにとってもありがたかった。
「年齢は?」
「高校一年です」
「うわ、若い。じゃあメイク濃すぎると怒られちゃうね」
「誰にですか?」
「いろんな大人に」
笑いながらも、下地が乗せられていく。
頬にスポンジが触れるたび、肌の上に薄い膜が一枚ずつ重なっていく。
目元は少しだけ強めに。
アイラインで輪郭をはっきりさせ、まつげにマスカラ。派手というよりは“写真映え”のための調整に近い。
「ベースがいいから、あんまり誤魔化す必要ないんだよねぇ」
「褒めてます?」
「もちろん。はい、目閉じてー、チーク入れるよー」
慣れない作業に身体がこわばる。
鏡越しに、銀髪と青い瞳の“自分”が別人みたいに整っていくのが、どこか他人事のようだった。
(なんか、こう……ゲームのキャラクリで頑張って作ったアバターを、現実に引っ張り出されてる感じ)
そんなことを考えていると、ヘアメイクが一通り終わった。
「よし、次は衣装」
渡されたのは、ヨシクラカラーのポロシャツとミニスカート、それから例の上げ底ブーツ。
ポロシャツは体のラインがはっきり出ないサイズ感で、ミニスカは丈こそ短いが、インナーパンツ付きで実用性優先。
思っていたよりは“健全”寄りで、ほっとする。
「このポロシャツ、肩出しとかじゃないんですね」
「うちはそこまで攻めないよ。レーシングチームだし。あくまで“うちのチームを応援してくれる女の子”ってコンセプトだから」
そう聞かされて、肩の力が抜けた。
着替え終わり、最後に上げ底ブーツを履く。
ソールが分厚く、足首までしっかりホールドされるタイプだ。
(おお……)
すっと立ち上がると、世界がほんの少し高くなっていた。目線が、いつもより十センチ分だけ遠くに見える気がした。
「どう? 違和感ない?」
「足首周りがちょっと心配ですけど、歩けないほどではないです」
「長時間立ちっぱなしだから、途中で限界来たらすぐ言ってね。笑顔キープより、身体壊さないほうが大事だから」
そう言われると、余計に“仕事”感が増す。
鏡の前に立たされ、スタッフに一歩下がるよう指示される。
「じゃ、全身チェック……うん、いいじゃん」
鏡の中の自分は、完全に“ヨシクラの銀髪イメージガール”だった。
銀色の髪、青い瞳、チームカラーのウェア、長い脚を強調するブーツ。
(…………誰!?)
胸の内でだけ、素直な感想が漏れる。
スタッフが満足げに頷いた。
「シルバーエンジェル、完成」
「名前、いつのまにか勝手に決まってません?」
「だってそうとしか見えないもん。ほら、行こ、時間ないからね」
ピットロードは、もう人で溢れかえっていた。各チームのマシンがずらりと並び、前にライダー、後ろにスタッフ、その横にレースクイーンやイメージガール。
カメラマンが列になり、ファンがスマホを構える。
シエルは、ヨシクラのマシンの横、ライダーの後ろ、スタッフと並ぶ位置に立つことになった。
「笑顔で、って言われても……」
呟きは、足元のアスファルトに吸い込まれる。
太陽が容赦なく照りつけ、上げ底ブーツの中で足がじんわり汗ばむ。
「硬くならなくていいからね」
さっきの女性スタッフが、最後にもう一度、念を押した。
「完璧なモデルスマイルなんて誰も期待してないから。“このチームが好きでここに立ってます、よろしくお願いします”って顔してくれれば、それで十分」
「……それなら、何とか」
ヨシクラのマシンを見る。
赤と黒のカウル、ゼッケン、サイドに光るロゴ。
ピットの奥で忙しく動く晃太たちの姿。
(ここで走るバイクと、この人たちが、好き)
その感情なら、自分の中に確かにある。それを思い出しながら、深く息を吸う。
「シエル、こっち見て」
カメラマンの声。
思わずびくりと反応し、視線を向ける。
「そうそう、その感じで、もうちょい顎引いて――そう」
シャッター音が連続する。
カメラのレンズはやはり慣れない。
それでも、さっきまでよりは、 “自分の意思でそこに立っている”感覚を持てていた。
隣でライダーが親指を立てる。
シールド越しに見える目元が、楽しそうに笑っていた。
「お前、いいな、うちにこんな子が付いてくれてるなんて」
「そんな、大したことはしてません」
「立ってるだけでも全然違うんだって。見てみろよ」
ライダーが顎でうながすように視線を動かす。
ピット前、ヨシクラのマシンの前には、他のチームより多くの人が集まっている。
スマホを構えた観客たちの、そのいくつかは明らかにシエルの方を向いていた。
「なんかさー、ヨシクラの銀髪の子、やばくない?」
「どこプロ? 見たことない顔なんだけど」
「ウィッグじゃないよな、あの髪。揺れ方がガチ」
「目の色やば、ゲームから出てきた?」
遠くのざわめきが、風に乗って耳に届く。
何を言われているのか、全部は分からない。
それでも、視線の熱ははっきりと感じる。
(これは、完全に“非日常”側だな)
シエルは心の中で苦笑した。
午前中の撮影とピットウォークが一段落した頃。
サーキットの裏手、テントの影で腰を下ろす。
上げ底ブーツを一度脱いで、足首を軽く回すと、じわりと疲労がにじみ出た。
「足、大丈夫?」
女性スタッフがペットボトルのスポーツドリンクを差し出してくる。
「何とか……上げ底って、こんなに足にくるんですね」
「そりゃあもう、慣れてないとすぐ限界来るよ。モデルさんたち、あれで一日中立ってるんだから、マジでプロ」
「尊敬します……」
ペットボトルの冷たさが喉を滑っていく。
汗ばんだ肌に、風が気持ちいい。
「午後は?」
「スポンサー回りのスチール撮影が少しと、ピットウォークの二回目。合間は基本フリーでいいよ。遠くまで行きすぎなきゃ、他のピット覗きに行ってもいいし」
「いいんですか?」
「敵情視察も大事だからね」
軽い冗談。
その言葉に、心の中の何かが反応した。
(Kawasaki……)
このサーキットのどこかに、緑のマシンたちが並んでいる。
思い浮かべるだけで、そわそわしてくる。
「そんなキラキラした目で遠く見ないの! 行くなら、誰かに一言かけてからね」
「……はい」
足を休めたあと、シエルは意を決してピットロードの裏側を歩き始めた。
ピットの裏は、意外と雑然としている。
発電機、タイヤの山、工具箱、折りたたみチェア。
しかしその合間に、チームカラーのテントやトラックが並び、どのチームもそれぞれの色を出していた。
角を曲がった先に、鮮やかな緑が見える。Kawasaki系チームのトラックとテント。
その前には、例の“漢の乗り物たち”が整然と並んでいた。
(おお……)
思わず声にならない感嘆が漏れる。
カウルの形状、フレームの構造、エンジン周りの造形。
どれも画面越しで見てきたものだが、実物の存在感は桁違いだった。
じっと見入っていると、テントの中からメカニックらしき男が顔を出した。
「ん? あれ、ヨシクラんとこの子じゃない?」
すぐにもう一人が出てくる。
「銀髪の子、いたよな今日。ピットウォークで見た」
「あ、すみません。ちょっと、遠くから見るだけのつもりで――」
シエルが慌てて頭を下げると、男たちは顔を見合わせ、笑った。
「いいよいいよ、見学くらい全然。晃太の親戚なんだって?」
「晃太さん、ここでも有名人なんですね」
「まあな、あいつデータの鬼だから。で、君もバイク好き?」
「……はい。Kawasakiのバイクは、漢の乗り物だと思ってます」
正直すぎる言葉が口から出た瞬間、テントの中の数人が一斉に噴き出した。
「おい聞いたか」
「ヨシクラのイメージガールが言うセリフかそれ」
「いやヨシクラのも漢の乗り物だろ、一応」
「でも分かるわ、その感じ」
笑いながらも、誰も怒ってはいなかった。
むしろ「分かってるじゃん」という目で見られる。
「写真、撮ってく?」
「えっ、いいんですか」
「マシンだけな、君はうちの関係者じゃないから。でもせっかく来たんだし、“本場の緑”の姿をよく見てけよ」
近くまで案内され、前後サスやブレーキ、メーター周りなど細部を見せてもらう。
機械としての美しさに、思わず息を呑む。
(ヨシクラもKawasakiも、やっぱり“本物”はすごい)
心の中で、何度も頷いた。
◇
ヨシクラのピットに戻ると、女性スタッフが腕を組んで待っていた。
「シエルちゃーん」
「……はい」
「他チームに遊びに行くのは構わないんだけどさ」
声は柔らかいが、目が若干怖い。
「一言、こっちに言ってから行こうか。君、今“ヨシクラの看板の一部”としてここにいるんだから」
「すみません」
素直に頭を下げる。
怒鳴られることはなく、それ以上追及されることもなかった。
それでも、さっきとは違う種類の重さが残る。
(私、ほんとに“仕事中”なんだ)
ただの見学者でも、ただのファンでもない。
チームの一員として、ここに立っている。大げさに考えすぎかもしれない。
それでも、その意識が芽生えてしまった以上、もう完全に無関係ではいられなかった。
「午後も頼むよ、シルバーエンジェル」
「……その呼び方、定着させるつもりですか?」
「もうスタッフの中では八割くらい定着してるし」
苦笑混じりの会話の中で、ピットの上空は、夏の色を濃くしていく。
この日撮られた写真や動画が、その日の夕方から夜にかけて、“謎の銀髪イメージガール”としてSNS上を静かに騒がせ始めることを、
当のシエルは、まだ何も知らなかった。




