特別番外編(前編):鈴鹿8耐、銀髪で行ってみた
特別番外編(前編):鈴鹿8耐、銀髪で行ってみた
※この番外編は、本編より少し先の夏休み時系列の話です。現在の本編はゴールデンウィーク明け前後ですが、鈴鹿8耐開催に伴い特別番外編として先行掲載します。そのため、本編でまだ描かれていない設定や関係性が一部先行して登場します。なお、8耐の開催日を7月下旬という設定で執筆しております。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夏休みの昼下がり、天宮家のリビングに、場違いなくらい派手な赤いハードケースがドン、と置かれた。
ロゴには白抜きで“YOSHIKURA”。
テーブルの上の麦茶グラスと、のんびりした午後の空気の中で、その箱だけが、ひときわレースの匂いを放っていた。
「……なんですか、その“やる気満々な箱”は?」
ソファの背にもたれながら、シエルが首をかしげた。
Tシャツに短パンという、“真夏仕様”の格好だ。
隣で結衣がポテチをつまみながら、同じようにじーっと箱を見つめていた。
「工具とパーツと、スポンサー用の展示キットだな」
ケースを運び込んだ張本人――晃太が、汗を拭きつつ答えた。
日焼けした腕、油の匂い、ヨシクラのロゴ入りポロシャツ。
普段より“現場の人”っぽさが濃い。
実のところ、晃太は今、鈴鹿にいるべき人間だった。
「あれ、晃太さん、今週はずっと鈴鹿じゃなかったんですか?」
シエルが尋ねると、晃太は箱を床に下ろしながら頷いた。
「本来はな。ただ、本社に置いてきた解析用の機材と予備パーツが、どうしても必要になってな、取りに戻ってきたんだ。明日の朝イチでまた鈴鹿に戻る」
「機材のために、わざわざ神奈川まで往復ですか……お疲れさまです」
「レースウィークなんて、だいたいこんなもんだ」
晃太は苦笑して、麦茶のグラスに手を伸ばした。
「そういえば、鈴鹿のレースがどうとか、前に言っていましたよね?」
「鈴鹿8時間耐久ロードレース、通称8耐な。今年もヨシクラは出場するから、俺はレースウィーク通しで現場入りしてる」
さらっと言いながら、晃太は麦茶を一気に半分まで飲み干した。
その言葉に、シエルの食指が動いた。
(鈴鹿8耐……本物のサーキット。世界耐久選手権のレース……)
動画サイトで何度も見た、真夏のサーキット、汗と熱気とエンジン音。
かつての自分の夢――マン島TTを生で見ることは、結局叶わなかった。それでも“レース”という言葉には、どうしても心が引き寄せられてしまう。
とはいえ、ここで「行きたいです!」と前のめりになるのは、女子高生としてどうなのか、という羞恥心も残っている。
シエルが口を開く前に、晃太のほうが先に切り出した。
「シエル」
「はい」
「ピット見学パスが余っててな。鈴鹿、来てみるか?」
一瞬、時間が止まったかのようだった。
次の瞬間には、もう口が勝手に動いていた。
「行きます!」
ほぼ、反射だった。
隣の結衣が「はやっ」と素で突っ込むくらいの即答だった。
「あ、いえ、その……レース文化に触れる、良い機会だと思いまして」
慌てて言い直すが、もう遅い。
晃太の口元が、わずかに笑っている。
「分かりやすくていいと思うぞ」
そこで、結衣がポテチの袋を置いて口を挟んだ。
「いいなあ、鈴鹿。私も行きたいけど今週末、中等部からの友達と、前から約束してるんだよね」
「約束?」
「地元でずっと一緒だった子が、夏休みで帰省してくるの。三人で会おうって、春から決めてたやつ。さすがにこっちは動かせない」
結衣は名残惜しそうに言ってから、シエルの肩を軽く叩いた。
「だから、シエル行ってきて。お父さんの現場、一回見ておいて損はないよ」
「……結衣がそう言うなら」
誘いを断られたわけではなく、結衣には結衣の予定がある。それが分かると、行くことへの引け目も軽くなった。
その日の夕方、天宮家でささやかな“鈴鹿行き家族会議”が開かれた。
ダイニングテーブルには、麦茶とおかきと、鈴鹿サーキットのパンフレット、それに注意事項の紙。
武臣、美穂、咲、結衣、シエル、そして晃太――全員集合である。
「暑いし、人も多いし、音も大きいからな。熱中症対策だけは、しっかりしていけ」
武臣がまず健康面を確認し、美穂がUVケアの話をし、咲が交通手段と宿泊の段取りを整理していく。
だが、一番の問題は――そこではなかった。
「で、髪色どうするの?」
結衣が、そこを突いてきた。
「え!?」
「ほら、シエルってさ、銀髪モードあるじゃん」
「そんな、アバターみたいな言い方やめて」
シエルは苦笑しながらも、ちらりと晃太を見た。
「さすがに、鈴鹿まで行って銀髪だと目立ちませんか?」
「どっちにしろ目立つわよ」
咲があっさり断言した。
「でも、学校関係者やご近所さんに“天宮シエル”として認識されるのは困るでしょ?」
「まあ、そうですね。ヨシクラの公式写真とかに、うっかり映り込んで、星女の誰かが見たら、ちょっと気まずいですし」
星ヶ丘女学院、通称星女。
この夏休みが終われば、また、そこに通う。変に知られたくはない。
晃太がそこで、麦茶のグラスをテーブルに置いた。
「祭りだし、いっそ最初から銀髪で行っちゃえ」
「軽いですね!?」
「真面目に言ってる。黒髪でテレビか何かに映ったら、“天宮シエル”としてバレる可能性がある。銀髪碧眼モードなら、同じ顔でも“別枠の存在”として処理されやすい」
「処理って言いました!?」
「しかも、海外の観戦客も多いからな。銀髪碧眼のアジア系ハーフ、ってだけで“まあそういう人もいるよね”で流れる」
武臣も腕を組んで頷いた。
「現地で知り合いに会う可能性は低いしな。変装代わりと思えば、案外合理的かもしれん」
合理的、という言葉に弱い自覚は、確かにある。
シエルは黙り、指でテーブルの木目をなぞった。
「……銀髪で行っても、いいですか?」
「俺は構わん」
「私も。ただし、写真を外に出すときは、必ず顔をスタンプで隠すこと」
「結衣に変な加工をされる未来しか見えないんですけど……」
「任せて、盛るし!」
「盛らなくていいから」
笑いが混じる。
お祭り、非日常、銀髪碧眼モード。
全部合わせて“夏の特別イベント”という扱いにしてしまえば、多少の無茶も許せる気がした。
◇
翌朝早く、シエルは晃太の車で鈴鹿へ発った。
神奈川から鈴鹿までは、高速を乗り継いで約五時間。晃太は運転しながら、時々ピット作業の段取りを口にしていたが、その横顔はもう半分、現場の人間のものだった。
鈴鹿の街に着いたのは、お昼過ぎだった。
その日は、晃太が確保していたレース関係者向けのホテルに一泊する。晃太はチームの打ち合わせがあるからと、シエルを部屋へ送り届けると、そのまま出ていった。
「明日は朝早い。ちゃんと寝とけよ」
「はい。ありがとうございます」
慣れないホテルの天井を見上げながら、シエルは明日のことを考える。銀髪で、知らない土地で、レースの現場に立つ。現実感がなかったが、不思議と眠りは早く訪れた。
◇
翌朝、鈴鹿サーキットに着いたのは、まだ涼しい時間帯だった。
早朝、ホテルを晃太の車で出て、朝イチの澄んだ空気の中、ゲートへ向かう。遠くからエンジン音が重なって聞こえ、空気そのものが震えている。
「ここらで、変身しとけ」
駐車場に入る前、人の少ない死角になる場所で、晃太が言った。
「変身って言わないでください」
文句を言いながらも、シエルは深呼吸をした。
意識を、内側へ向ける。
内側にある、ひやりとした光の塊に触れ、それを髪と瞳へ流し込むイメージ。
視界の端で、前髪の色が変わっていく。
黒から、白い光を含んだような銀へ。
瞳の色も、暗い茶から、深い海のような青へ。
「……よし」
首を軽く回して、違和感を確かめる。
何度か経験していても、鏡なしでやるのは、未だに不思議な感覚だった。
「何度見てもSFだな」
晃太がぼそりと漏らす。
だが、それ以上は突っ込まない。
ネックストラップにピットパスを提げ、サーキットのゲートをくぐる。
コンクリート、アスファルト、白線、フェンス。
暑さと人いきれと、混ざり合った匂い。
(あ、レースの匂いだ)
胸の内側が、わずかに高鳴った。
足取りが自然と速くなるのを、自分でも感じる。
ヨシクラのピット前に着いた瞬間、シエルの語彙は半分くらい吹き飛んだ。
赤と黒のマシン。
前後に太いスリックタイヤ、すぐ横でタイヤウォーマーがうなりを上げている。
スタンドにかけられた車体は、止まっているのに、今にも走り出しそうな緊張感をまとっていた。
よく見れば、スプリント用のマシンにはない装備がいくつもある。カウルに組み込まれたヘッドライト。数秒でホイールを交換するクイックリリースシステム。一気に燃料を送り込む急速給油システム。走り続けるための工夫と、ピットで止まる時間を削るための工夫が、凝縮されている。
(機能が、そのまま形になってる……)
無駄のない美しさは、究極の機能美といえた。
ツナギ姿のメカニックが、タイヤの温度を確かめ、工具を手に動き回っている。
ピットボード、モニター、ツールワゴン。
すべてが予選の“1/1000秒”、その一瞬のために最適化されている。
(ああ、やっぱり “漢の乗り物”だ……)
思わず心の中で呟く。
「おーい、晃太」
ピットの奥から、ヘッドセットを首にかけたスタッフが手を振る。
晃太は短く状況を聞き、軽く会釈して機材の方へ向かっていった。
「シエル、ここで大人しくしてろよ。ヘルメットやタイヤには絶対触るな。邪魔になりそうなら、あっちの壁際にいろ」
「分かってます」
視線だけで、忙しそうな人と、そうでない人を見分ける。
足を引っかけないように、床のコードをまたぎ、壁際に移動した。
そのとき。
「晃太くーん!」
ピットの裏手から、やや切羽詰まった声が飛んだ。
派手な赤いポロシャツの女性スタッフが、タブレットを片手に駆け込んでくる。
「どうした」
「どうしたじゃないよ、イメージガールの一人、急病で来られないって!」
「は?」
「朝イチで連絡が入ってさ、点滴打つレベルでダメらしいの。今日のフォトセッションもピットウォークも、二人前提でスケジュール組んでるんだけど、どうするのこれ?」
女性スタッフ――おそらくスポンサー対応やプロモーション担当だろう――は、半ば泣きそうな顔でタブレットの画面を晃太に見せる。
そこには、タイムテーブルと、スポンサー名のびっしり並んだ一覧。
「今から代役捕まえるにしても、衣装のサイズ合わせとかあるし、適当な子を立たせると、スポンサーさんから怒られるしさ……」
「そりゃそうだ」
「で、困ってたところなんだけど――」
そこで彼女の視線が、ふと横にそれた。
銀髪碧眼の、小柄な女の子。
チームパスを下げて、壁際におとなしく立っている。
「……その子、どこの事務所?」
シエルの背中に、冷たい汗がつう、と流れた。
「どこのって」
「いやだって、見た目どう見ても、現場慣れしてるモデルさんかタレントさんでしょ、これ」
ずい、と距離を詰められる。
思わず半歩下がるが、女性の目の輝きから察するに、これ以上逃げても無駄そうだった。
「名前は?」
「えっと……天宮シエルです」
「天宮シエルちゃんね、可愛い名前。で、どこ所属?」
「所属?」
「事務所」
「あの、無所属の一般女子高生です」
「一般でこれ!? 世の中どうなってるの」
女性スタッフが、軽く白目を剥きかける。
心の中では、シエルも同じように白目を剥いていた。
(いやいやいや、なんでそういう話になるんですか)
晃太が、そこで口を挟んだ。
「うちの姪です。普段はもっと地味なんだが、今日のはまあ、お祭り仕様だと思ってくれ」
「地味!?」
シエルはすかさず晃太を睨む。
女性スタッフは、そのやりとりを見て、ぽん、と手を打った。
「ねえ、シエルちゃん」
「はい?」
「今日だけでいいから、イメージガールの代役、お願いできないかな」
言われた意味は、分かる。
だが、脳が一瞬、その意味の処理を拒絶した。
「…………」
「もちろん、今日限定の“お手伝い”って扱いでいいからさ。露出の多い衣装じゃなくて、チームウェア寄りにする。うちはレースクイーンっていうより、チームのイメージガールって枠だしね。写真に名前も出さないし、SNSには“ヨシクラの謎の銀髪ちゃん”くらいで、ね?」
「いや、あの、その」
視界の端で、スタッフたちが忙しなく動いている。
誰も、彼女らの会話に割って入る余裕はない。
このままでは、「断る」という選択肢のほうが、空気を読めていない扱いになりそうな気配が漂っていた。
「身長は……何センチ?」
「一五五です」
「ほぉ……」
女性は一瞬考え、衣装係らしき人を呼んだ。
「ねえ、上げ底ブーツあったよね、あれ持ってきて」
「あるあるー」
しばらくして、どすん、と足元に置かれたのは、想像以上にごついブーツだった。
ソール部分ががっつり盛り上がり、一目で“身長を稼ぐためのアイテム”と分かる。
「これ履けば、見た目一六五前後にはなるから」
「詐欺では?」
「演出です」
さらりと返される。
晃太が、肩をすくめた。
「嫌なら、本当に断っていいからな」
その一言で、頭が冷えた。
ここはサーキット。8耐はお祭りであり、同時に仕事でもある。
スポンサー、ファン、チームスタッフ、ライダー。いろんな立場の人間が、それぞれの役割を果たしている。
目の前の女性の慌てぶりは、演技ではなかった。
今日、来られなくなった誰かの穴を、どうにか埋めようとしているだけだ。
「……本当に、露出は少なめで」
「約束する」
「名前も、本名は出さないでください」
「もちろん」
条件を一つひとつ確認するように口にして、最後に息を吐いた。
「じゃあ……お祭りですし、今日だけ、やらせていただきます」
自分の口からそんな言葉が出た瞬間、心の中の“常識担当のおじさん”が、盛大に頭を抱えている光景が脳裏に浮かんだ。
それを振り払うように、女性スタッフが満面の笑みを見せた。
「助かる、マジで助かる! じゃあこっち、衣装とメイク、急ピッチでやるからついてきて」
腕を取られ、ずるずると引っ張られていく。
「晃太さん!」
「無理はするなよー。高い靴はマジで足やられるから、休憩のとき脱げよー」
「そこですか!?」
そんなツッコミを最後に、シエルはピットの奥、仮設メイクルームへと連れ込まれていった。
鈴鹿8耐の予選当日。
ヨシクラのピットに、まだ誰も知らない“シルバーエンジェル”が生まれようとしていることを、このときのシエルは、まだ自覚していなかった。




