GW閑話2 新しいスマホ(後編)
家に戻ると、リビングで武臣が新聞を畳み、美穂が台所から顔を出した。
「おかえり。どうだった?」
「買えました」
シエルが箱を掲げると、美穂は嬉しそうに笑った。
「よかったわね。ちゃんと使ってあげないとね」
「はい。ありがとうございます」
ダイニングテーブルに、新しいスマホとケース、保護フィルム、クロス、埃取りシールが並ぶ。結衣は椅子に座り、完全に観戦体勢に入っていた。
「第一回、シエル保護フィルム貼り選手権」
「勝手に競技化しないで」
「解説は私、天宮結衣でお送りします」
「実況もいらないから」
シエルは手を洗い、テーブルを拭き、画面の埃を確認した。
次にクロスで丁寧に拭きあげたあと、光に当て細かな繊維を探し、画面の端まで確認する。最後に埃取りシールを使い前処理を終了。
その作業があまりに迷いなく進むので、結衣は途中から黙ってしまった。
「……なんか本格的」
「埃は敵だから」
「敵認定された」
「画面とフィルムの間に入った埃は、後から見るたびに精神攻撃してくるからね」
「分かるけど言い方」
位置を合わせ、シエルは一度だけ息を止めた。
「……えいっ」
やけに可愛い掛け声とともに、フィルムが画面へ乗る。透明な膜が端からすうっと吸いつき、気泡が中心から四隅へ押し出されて、ぴたりと収まった。
結衣が無言で覗き込む。
「……上手すぎない!?」
「普通でしょ」
「普通の人間は、ここで一ヶ所以上、埃を封印すんだよ」
「封印しないよ、私は」
「…」
美穂も覗き込んだ。
「あら、本当に綺麗」
「お店で貼ってもらうより上手いかも」
咲が感心したように言う。
「それは言い過ぎです」
「いや、これは言い過ぎじゃないわ」
褒められると、逃げ場所を探したくなる。けれど今回は自分でもうまくいったと思っているので、否定しすぎるのも違う気がした。
「……うまく貼れたなら、よかったです」
「うん。そこは素直でよろしい」
ケースをつけると、新しいスマホはようやく自分のものらしくなった。初期設定したばかりの画面に、結衣からの通知が届く。
『新スマホ初通知』
目の前にいる本人が送っていた。
「いる?」
「記念」
「こういう無駄な通知で、世界の通信量は増えていくんだね」
「毒が軽快!」
シエルも笑った。
夕方、シエルと結衣は星ヶ丘の坂道へ出た。咲は美穂の手伝いで家に残り、試し撮りは二人だけだ。
白い壁に夕暮れの色が乗り、庭木の影が道路へ長く伸びている。遠くに見える港は、春の霞の向こうで淡く光っていた。
「まず何撮る?」
「とりあえず、坂」
「坂?」
「星ヶ丘っぽいし」
「確かに」
シエルはスマホを構えた。画面の中に、坂道と電柱と、遠くに海が入る。
シャッター音。すぐ確認すると、思っていたよりきれいに写っていた。夕暮れの色が、ちゃんと残っている。
「おお、いいじゃん」
「スマホがいいから」
「それもあるけど、見方もいいんじゃない? なんか、シエルが見てる坂って感じ」
言われて、写真を見直す。ただの坂道だ。でも、毎朝歩いて、学校へ向かって、天宮家へ帰ってくる場所でもある。それを画面に残せるのが、ちょっと不思議だった。
「次、あの花撮ってみたら?」
結衣が指さす。塀の脇に小さな花が咲いていた。名前は分からないが、夕暮れの光を受けて、白い花びらの端が薄く光っている。シエルは腰を落とした。
「寄りすぎるとピントが迷うかな」
「スマホに話しかけてる?」
「機械にも機嫌はあるから」
「元SEっぽい発言」
角度を変えて、もう一枚。今度は花の後ろに、ぼんやり坂道が入る。
「これもいい」
「褒めすぎ」
「だって新スマホ初撮影だし。採点甘め」
「それだと信頼できない」
「でも楽しいでしょ?」
シエルはすぐには答えず、代わりにもう一枚撮った。塀の上を歩く猫、夕陽を受けるカーブミラー、坂の途中の植木鉢。何でもないものばかりなのに、画面に収めると、ひとつずつ “今日のもの” になる。それが、思っていたより楽しかった。
「……楽しい」
「よかった」
「まだ下手だけど」
「最初から上手すぎても怖いし。保護フィルムの件もあるからね」
「それ、関係あるの?」
「あれで写真まで完璧だったら、人間離れしてる」
結衣の冗談めかした言葉に、シエルは苦笑した。
「人間離れは困る」
「じゃあ、ほどほどで」
「うん、ほどほどに上手くなる」
「それ、けっこう欲張りじゃない!?」
二人で笑いながら坂を上がる。夕暮れの光が、だんだん赤みを増していく。シエルは、ふと結衣にスマホを向けた。
「一枚、撮っていい?」
「私?」
「うん」
「いいよ。変な顔じゃなければ」
「変な顔したら、それはそれで撮る」
「悪意ある」
「記録として」
「悪意ある記録やめて」
そう言いながらも、結衣は坂の途中で立ち止まった。風が髪を揺らし、夕暮れの光が横顔にかかる。気取ってもいない、いつもの結衣だ。シエルは少し角度を変えて、シャッターを切った。写真の中の結衣は、照れ顔で笑っていた。
「どう?」
「いいと思う」
「見せて」
画面を見た結衣は、一瞬黙った。
「……これ、送って。あとでお母さんにも見せたい」
「咲さん、喜ぶね」
「絶対喜ぶよ!」
シエルは写真を送った。自分が撮ったものを、撮られた相手に送る。それだけのことが、思っていたより気恥ずかしくて、少し嬉しかった。
坂を上っていると、坂の下から車の音が近づいてきた。結衣が振り返る。
「あ、お父さんの車だ。あのカラーリング、遠くからでも分かるよね」
「確かに、晃太さんだ」
上ってきた車は、二人の少し先で停車した。窓が下がり、日に焼けた晃太が顔を出す。ヨシクラのロゴ入りポロシャツに作業用の上着。後部座席には工具箱と部品の箱。完全に現場帰りの空気を纏っていた。
「お、結衣。シエルも。何してるんだ?」
「試し撮り。シエル、新しいスマホ買ったんだよ」
「へえ、いいじゃないか、今どきのスマホはカメラも侮れないからな」
「はい。まだ使い方を試しているところです」
晃太は車を端へ寄せ、降りてきた。
「何を撮ってたんだ?」
「坂道とか、花とか、結衣とか」
「お、結衣撮ってもらったのか?」
「撮られた」
結衣が照れた顔で言う。シエルが写真を見せると、晃太はふっと表情を和らげた。
「いい写真だな。結衣の表情が自然体だ」
「お父さん、そこ見る?」
「父親だからな」
結衣が目を逸らした。
「やめて。地味に照れる」
晃太は写真をもう一度見て、軽く頷いた。
「構図も悪くない。夕暮れの光がちゃんと入ってるし、背景もうるさくない」
「晃太さん、写真も見るんですか?」
「機械屋だけどな、カタログやSNS用の写真も見るんだ。どれだけいいパーツでも、写真が悪いと伝わらないからな。光の入り方ひとつで、金属の質感も違って見えるし」
「金属の質感!」
「そこ食いつく?」
結衣がすかさず突っ込む。
「ちょっと面白そうで」
「シエル、スマホ買った初日にカタログ写真方面へ進まないで」
「いや、進んでないし」
晃太は笑って、車の後部座席をちらりと見た。
「せっかくだし、一枚撮ってくれよ。俺というより、現場帰りの記録だな。ヨシクラの箱もあるし」
「それ、ほとんど業務報告じゃないですか?」
「家族向けの、仕事頑張ってるお父さんの写真だ」
「お父さん、疲れてるのに変なこと言い出した」
「疲れてるからだ」
妙に堂々としている。
シエルはスマホを構えた。画面の中に、夕暮れの坂道と車と晃太が入る。現場帰りの疲れは見える。けれど、それ以上に、帰ってきた人の顔だった。シャッター音。
「どうだ?」
「……けっこういいと思います」
「見せて」
結衣も覗き込む。
「あ、いいじゃん。現場帰りのお父さんって感じ」
「そのままだな」
「そのままがいいんじゃない」
晃太は画面を見て、照れくさそうに笑った。
「俺、こんな顔して帰ってきてるのか」
「してる。疲れてるけど、ちょっと楽しそうな顔」
「そうか」
晃太はそれ以上言わず、ただ目元を緩めた。
天宮家へ戻ると、結衣がさっそくスマホを咲に見せに行った。
「お母さん、見て。シエルが撮ったお父さん」
「え、もう撮られたの?」
咲は画面を覗き込んで、吹き出した。
「すごい。現場帰り感が強い」
「ひどくないか?」
玄関から晃太が言う。
「褒めてる褒めてる。晃太らしい」
「それ、便利な褒め方だな」
咲がシエルの方を見る。
「シエル、写真上手ね」
「スマホが優秀なんです」
「またそうやって逃げる」
「逃げてはない」
「今のは逃げた」
結衣がすかさず言う。
「じゃあ、半分くらいはスマホが優秀だからということで」
「残り半分は?」
「……たまたま」
「まだ逃げてる」
リビングに笑いが広がる。シエルは少し困って、けれど嫌ではなかった。
夕食までの時間、テーブルに新しいスマホを置いて、今日の写真をみんなで見ることになった。坂道、花、塀の上の猫、夕方の港、結衣、晃太。
一枚ごとに、誰かが一言ずつ反応する。
「この坂、いつものところよね」
「猫、こっち見てる」
「結衣、いい顔してるじゃない」
「お父さんは現場帰り感がすぎる」
「だからその評価は何なんだ」
歩いていた時には流れていくだけのものが、画面の中で静止している。けれど、静止したからといって温度がなくなっているわけではない。みんなで見た瞬間に、また少しだけ動き出す。
「シエル」
美穂が、写真を見ながら言った。
「これからも、撮ったら見せてね。上手い下手じゃなくて、シエルが何を見ていたか知りたいから」
何を見ていたか。それは、カメラ散歩本の言葉に近い。何を撮るかではなく、何に気づくか。
「……はい。そうします」
今度は、逃げずに答えた。
武臣は少し離れた席で写真を見ていたが、やがて短く言った。
「いい写真だ」
その一言で、なぜか場が静かになった。武臣はそれ以上説明しない。ただ画面を見て、頷く。
「帰ってきた顔をしている」
それは、晃太の写真への言葉だった。晃太は一瞬黙り、それから照れくさそうに頭をかいた。
「……まあ、帰ってきたところだからですかね」
「そういうところを内面も含めて撮ったんだろう」
武臣がシエルを見る。
偶然です、スマホが良かっただけで――そう言えば、いつもの逃げ場所に戻れる。けれど、今日だけは違った。
「たぶん、そうです」
結衣が横で小さく笑う。
「今日のシエル、素直」
「……新しいスマホ、買ってもらえたので」
「ちょっと、何それ。かわいいんだけど」
夜、自室に戻ったシエルは、机の上にあるカメラ散歩本の横に、新しいスマホを置き、今日撮った写真を表示させる。
星ヶ丘の坂道。夕方の花。笑う結衣。現場帰りの晃太。
ただ、今日そこにあったものだ。
新しいフォルダを作り、名前を少し迷ってから入力する。
“星ヶ丘散歩”
最初の一枚は、坂道にした。学校へ行く通り道で、家へ帰る道でもある。毎日の中にある、何でもない場所。でも今は、残しておきたいと思える場所だった。
今日買ったスマホは、もう連絡するためだけの道具ではない。見たものを残す。残したものを、誰かに見せられる。それだけのことが、思っていたよりずっと嬉しかった。
シエルはスマホを伏せ、カメラ散歩本にしおりを挟んだ。明日もどこかを撮るかもしれないし、撮らないかもしれない。けれど、撮りたいと思った時に、もうそれは手の中にある。
それだけで、連休らしい連休をすごした気がした。




