GW閑話2 新しいスマホ(前編)
ゴールデンウィーク後半の朝、天宮家のリビングには、ゆるい時間が流れていた。
シエルは膝に同人誌を一冊のせている。東京創作マーケット春で買ってきた、カメラ散歩本だ。表紙には、夕陽に染まる商店街が写っていた。
古びた看板、傾いた自転車、ガラス戸に映るオレンジ色の光。特別な観光地でも、珍しい建物でもない。けれど、ページをめくるたびに、何でもない景色が少し違って見える。
写真は、上手く撮るためだけのものだと思っていた。けれど、この本には、それよりも「立ち止まること」が書かれている。
何を撮るかではなく、何に気づくか。
「シエル、めっちゃ真面目に読んでるね」
結衣がソファから体を起こし、手元を覗き込んだ。
「昨日買ったやつ?」
「うん。この本、もっと機材とか設定とか、そういう話が中心なのかと思ってた」
「違うの?」
「見方の話が多いかな。坂道とか、窓とか、夕方の影とか」
「星ヶ丘、素材だらけじゃん」
シエルは小さく笑った。
そこへ、美穂がお茶を運んできた。
「それ、昨日買ってきた本? 写真撮りたいの?」
問われて、すぐには答えられなかった。"撮りたい"の一言で済ませるには、少し照れくさい。
「……ちょっとだけ、です」
ようやくそう答えると、美穂は目を細めた。
「そう。いいじゃない」
シエルはテーブルの上に置いていた自分のスマホを手に取った。慈愛の家にいた頃から使っている、古い機種だった。画面の端には細かな傷があり、ケースもくたびれている。
結衣が横から画面を見て、眉を寄せる。
「それ、まだ使ってたんだ」
「まだ使えるし」
「使えるけど、たまに写真撮ると、猫が未確認謎生物になるやつでしょ」
「それは猫が動くから」
「スマホも負けてると思う」
あまりに自然に言われて、反論のタイミングを失った。
そこへ、階段を降りてきた咲が、会話に加わる。
「なに、スマホの話?」
「シエルのスマホ、そろそろ替えてもいいんじゃないかって」
結衣がそう説明し、咲はシエルのスマホを見て、表情を変えた。
「あー……これは、そろそろ替えた方がいいかもね」
「そんなにですか?」
「連絡手段としても、カメラとしても、今の生活にはちょっと弱いかな」
「でも、まだ壊れてはいませんし」
「壊れてから替えると、移行が面倒になるわよ」
咲の説得力のある言葉に、シエルは黙ってしまう。
「あと、カメラ散歩本を買ったばかりの子が、そのスマホで写真を撮るのは、ちょっともったいない気がする」
「そこまで言われると、スマホが気の毒になってきます」
「気の毒だけど、事実は事実」
咲はあっさり言い切り、美穂が柔らかく続けた。
「新しいものを買うのって、贅沢だけじゃないわよ。今の生活に合うものに替えるって意味もあるの」
今の生活に合うもの、とシエルは胸の内で繰り返した。
古いスマホは、最低限の連絡を取るための道具だった。でも今は、結衣と話し、予定を確かめ、疑問に思ったことを調べ、買った本を見て「こういう景色を残したい」と思う。たしかに、使い方が変わってきていた。
「天ヶ浜の方なら、家電量販店もスマホショップもあるし。今日、見に行く?」
咲が言う。
「今日ですか?」
「こういうのは、勢いがあるうちの方がいいのよ。後回しにすると、だいたい面倒になる」
「社会人の実感がこもってますね」
「こもってるわよ」
咲はさらっと答える。
結衣がソファから立ち上がった。
「私も行く。新機種見るの楽しいし」
「結衣、完全に見物する気だよね」
「半分は付き添い。半分は見物」
新聞を読んでいた武臣が、そこでようやく顔を上げた。
「必要なものなら、それなりのものを買ってこい」
短い一言だった。
シエルは背筋を伸ばす。
「でも、高いものですし……」
「道具は、使うためにある。今の生活に必要なら、それは贅沢とは言わん」
武臣はそれだけ言うと、また新聞に視線を戻した。
シエルは、スマホを手の中で見下ろした。
使えるものを使い続けることは悪いことではないが、今の自分に必要な道具を受け取ることまで、遠慮し、拒否してしまうのは違うのかもしれない。
「……見に行くだけなら」
「はい、出ました!」
結衣がすぐに反応した。
「買う流れの人が言う"見に行くだけ"」
「まだ買うとは言ってないし!」
「言ってないけど、たぶん買う」
「決めつけがすごい」
「由奈ほどじゃないから安心して」
「比較対象が強すぎる」
シエルが言うと、美穂と咲が同時に笑った。
◇
その日、晃太は朝から家にいなかった。
朝食のあと、咲が言うには、ヨシクラジャパン関連の春イベント準備で、展示用キットなどの搬入確認と、テスト用部品の引き取りに出ているらしい。
「お父さん、ゴールデンウィークって概念あるのかな」
結衣が玄関で靴を履きながら言った。
「レース関係の人たちって、カレンダーの休日と相性悪そうだよね」
シエルが返すと、咲がバッグを肩にかけながら苦笑した。
「相性が悪いというか、イベント側に生活を合わせてる感じね。夕方には戻るって言ってたけど」
「相変わらず現場の人だなあ」
「結衣のお父さんらしいです」
「それはそう」
結衣は納得したように頷いた。
今日は、咲、結衣、シエルの三人で天ヶ浜駅周辺へ向かうことになった。美穂は家で夕食の準備、武臣は庭の手入れをするらしい。
玄関から外に出ると、ゴールデンウィークの住宅街は静かだった。学校へ向かう朝のざわめきがない。塀の上の猫、角の家の植木鉢、坂の向こうの薄い海の色。昨日までなら通り過ぎていた景色に、“撮るならどこか”と考える余地が生まれている。
「もう目が"カメラ散歩"になってる」
結衣が隣で言った。
「顔に出てる?」
「出てた。構図考えてる顔!」
「構図までは考えてない。……今日の光、とかかな」
「急に詩人」
「カメラ散歩本に影響されたかな」
「素直でよろしい」
結衣が笑うと、シエルは恥ずかしくなって、視線を前方に戻した。
星ヶ丘駅から私鉄ですぐに天ヶ浜駅に着く。改札を出ると、デパート、商店街、家電量販店の看板。星ヶ丘の住宅街とは違い、人の流れが広くて速い。
「天ヶ浜って、こうして見るとちゃんとした街だよね」
結衣が言う。
「星ヶ丘が静かだから、余計にそう感じる」
「そのうち、ここで服とか見ようね」
「それは、また別の予算会議が必要では」
「すぐ予算会議って言うし」
「大事だよ。予算」
「大和さんの記憶、こういうところで顔を出すよね」
シエルは笑った。否定しづらい。
「実際、連絡手段として必要だし、写真も撮るならなおさらよ。スマホはもう文房具に近いものだと思っていいわ」
「文房具にしては高すぎませんか?」
「それは私も思う」
大人も思うらしい。
◇
家電量販店のスマホ売り場は、予想以上にまぶしかった。白い照明、ずらりと並ぶ端末、大きな料金表示、学割・家族割・乗り換え・下取りのポップ。
「……情報量が多い」
「同人イベントのあとに言うと説得力あるね」
結衣が笑いをこらえる。
すぐに、店員がにこやかに近づいてきた。
「機種変更のご相談ですか?」
「はい。この子のを買い替えようと思って」
咲が大人役として前に出る。こういう場で咲がいると、とても心強い。シエルだけなら、たぶん最初のキャンペーン説明で精神的に一歩引いていた。
店員は手際よく、最新機種をいくつか案内してくれた。
「こちらは最新のハイエンドモデルで、カメラ性能が非常に高く、夜景にも強いです。動画撮影も――」
説明は分かりやすいが、表示された金額を見て、シエルは眩暈がした。
「これは……小型のノートPCですか?」
「スマホだよ」
結衣が小声で突っ込む。
「価格が、だいぶPC側に寄ってませんか!?」
「分かるけど、店員さんの前」
「あ、すみません」
店員は慣れているのか、苦笑しながら頷いた。
「最新の上位機種は、どうしても価格が高めですね」
咲はすぐに首を振った。
「最新最上位じゃなくて大丈夫です。カメラがそこそこ良くて、長く使えて、本人が納得できる価格帯のものを」
「それでしたら、こちらの型落ち上位モデルか、こちらのミドルハイ機種あたりですね」
店員に別の棚へ案内され、スペック表を見たシエルの目が、勝手に情報を整理し始める。
「急に顔が仕事モードになった」
結衣が言った。
「仕事じゃないから」
「でもスペック表読む速度が普通じゃない」
「仕様書よりは読みやすいよ」
料金プランの表に目を落として、シエルはさらに眉を寄せた。
「通信プランって、どうしてこう、読ませる気のない仕様書みたいな顔をしているんでしょう!?」
「シエル、店員さんの前」
「あ、すみません。心の声が外部出力されました」
咲が横で肩を震わせている。
店員も笑いをこらえながら、「よく言われます」と小さく答えた。
シエルは反省しつつ、改めて候補を見比べた。
最新ではないが、画素数は十分、手ぶれ補正もあり、夜景もそれなりに撮れそうだ。何より、価格がお財布にやさしい。
「これなら……現実的だと思います」
咲が見積もりを受け取り、内容を確認する。その横で、シエルの指先が自然と古いスマホのケースをなぞった。
まだ使える。そう言えば、買わずに済む。だけど、カメラ散歩本を開いたとき、あの坂道と様々な光を撮ってみたいと思ったのも事実だった。
「やっぱり、今日は見るだけで……」
「出た!」
結衣が言った。
「買う寸前に尻込みするやつ」
「尻込みではなく、再検討!」
「言い方をお仕事っぽくしても、尻込みは尻込みだよ」
「……ひどい」
シエルは苦笑して、見積もりから視線を外した。
「でも、まだ使えますし……」
「使えるのと、今の生活に合ってないのとは別」
咲の声は強くなかった。逃げ道を塞ぐのではなく、目の前のものを一緒に見てくれる声だった。
「連絡も増えたでしょ。学校、家族、鳴瀬、友達。それに写真も撮りたいなら、もう少しちゃんと使えるものにした方がいい」
「でも、写真は趣味にできたらって程度で……」
「趣味があるのはいいことよ」
さらっと言われて、シエルは返事に詰まった。
「高校生の連絡手段で、写真も撮りたいなら必要経費。贅沢とは別って考えなさい」
咲は見積もりを軽く指で押さえた。
「……必要経費って言葉、ずるいです」
「便利だから使ってるの」
「大人の交渉術だ」
結衣が横から言う。
「現在のシエルは、逃げ場をふさがれた顔をしております!」
「結衣は実況しなくていいから」
咲が結衣を軽く睨む。
「でも買ったら、夕方に試し撮り行けるよ」
その一言に、シエルの視線が泳いだ。
結衣はそれを見逃さなかった。
「今かなり傾いた」
「傾いてない!」
「目が、スマホを構えた自分を想像してた」
「想像してないし」
シエルは古いスマホを見た。そこには慈愛の家の連絡先も、星ヶ丘で増えた名前も、結衣や由奈とのメッセージも入っている。
だが、新しい端末に自分で簡単にデータ移行できるのが、今どきのスマホだ。置いていくのではなく、自分の手で移すだけ。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
「下取りはどうされますか?」
店員に聞かれて、シエルはすぐに首を振った。
「これは、持って帰ります」
その声だけは、迷わなかった。咲も結衣も、何も言わなかった。
古いスマホは、慈愛の家からここまでの時間を一緒に歩んできたものだ。使わなくなっても、すぐ手放す気にはなれない。
「では、下取りなしで進めますね」
「お願いします」
口にした瞬間、シエルは腹を決めた。
そこからは書類と説明の時間だった。契約、保証、支払い、本人確認。聞いているうち、二度ほど眉間に力が入った。
「……この料金体系を設計した人、絶対に人類へ試練を与えてますよね」
「シエル!」
結衣が吹き出す寸前で止める。
「すみません。また口に出してしまいました」
「毒がある」
「薄めてます」
「濃いよ!」
咲が肩を震わせた。店員も苦笑しながら説明を補ってくれる。
最終的に、シエルは型落ちの上位機種を選んだ。色は落ち着いた白系。
「シエルっぽい」
結衣が言う。
「そう?」
「うん。派手じゃないけど、綺麗」
契約手続きを待つあいだ、三人は売り場の端の椅子に並んで座った。シエルは古いスマホを両手で持っている。
「寂しい?」
結衣が聞く。
「ちょっと」
「そっか」
「でも、嫌ではない」
「なら、よかった」
その短いやり取りで十分だった。
手続きが終わり、新しいスマホが箱と一緒に渡される。中身はまだ空のままで、データは家に帰ってから自分で移すつもりだった。それでも、手に持った感覚はまるで違う。軽いようで、重い。新しい生活の道具だと思うと、なにか落ち着かない。
「ケースと保護フィルムも、ここで一緒に買っていこっか」
咲が言う。
シエルはケースの棚の前に立ち、一つずつ手に取って見比べた。
「シエル、どんなのがいいの?」
「あんまり主張が強くないのがいいです。せっかくきれいな色を選んだので、本体が見えるのも捨てがたくて」
「じゃあクリアケースだね」
結衣がいくつか引き抜いて並べる。
「これとか、これとか。フチだけ色がついてるのもあるよ」
「フチありは、ちょっと子どもっぽいかも」
「じゃあ完全な透明?」
「でも完全な透明は、すぐ黄ばむって聞いたことがあります」
「急に現実的!」
「大事です、そこ」
咲が横から、薄い半透明のケースを指した。
「これは、透明すぎず、本体の色も見えるわよ。黄ばみにくい素材って書いてある」
「あ……これ、いいですね」
手に取ってみると、厚すぎず、しっかり守ってくれそうだった。シエルはそれに決めた。
「保護フィルムは? 貼ってもらえるサービスもあるみたいだけど」
咲が聞く。シエルは一瞬考えてから、首を振った。
「いえ。自分で貼ります」
「失敗したら気泡入るよ?」
「入れなければいいだけなので」
「言い方が強者っぽい」
「こういうのは、最初の位置合わせと勢いが大事です」
「今度は職人」
フィルムは、結衣が「気泡が抜けやすいやつ」と勧めてくれたものを選んだ。派手な装飾はないが、自分で選んで、相談して決めたぶん、不思議と納得できた。




