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GW閑話1 天使、同人即売会に連れていかれる

 鳴瀬神社で由奈が言い残した言葉は、現実になりつつあった。


 そう理解できたのは、四月最後の夜だった。

 天宮家のリビングで、シエルはローテーブルの前に座り、宿題のためノートを開いていた。

 隣で結衣が見ていたスマホが震え、ほぼ同時にシエルのスマホも震えた。


「……あ」

 結衣の声トーンが低い。


「何?」

 シエルが顔を上げると、結衣は画面を見たまま、視線が遠くなっていた。

「由奈、ほんとに逃がす気ないみたい」

「逃がす?」


 嫌な予感を覚えながら、シエルは自分のスマホを手に取り、確認した画面には、由奈からのLINEが表示されていた。

『GW、一日空けといて。シエルに"創作の現場"を見せます』


 続けて、もう一通。

『場所は東京ビッグサイト。イベント名は東京創作マーケット春』


 さらに、追撃。

『大丈夫、初回だから優しくする』

 シエルは、しばらく画面を見つめていた。


 “優しくする”

 その言葉が、なぜだろう。全然安心できない。


「東京ビッグサイトって書いてあるんだけど」

「うん。そうだね……」

 結衣は死んだ目のまま頷いた。


 シエルの脳裏に、前世で見聞きした断片が浮かぶ。

 長い待機列。広い会場。ルールを知らずに踏み込むと、たぶん何かを間違える場所。

 

「結衣も行くの?」

 シエルが聞くと、結衣はゆっくりこちらを向いた。

 表情は優しい。でも、目は死んでいる。


「私は行ったことあるから大丈夫。シエル、楽しんできて!」

「……何が大丈夫なのか、わからないんだけど」

「経験者はね、ときどき後進に道を譲るものなんだよ」

「それ、譲ってるんじゃなくて逃げてない?」

「否定はしない」

 

 シエルはスマホをもう一度見る。

 すると、さらに由奈からLINEが届いた。

『服装は動きやすく。靴は絶対大事』

『黒髪黒目、伊達メガネ、地味め服推奨』

『素材が強すぎるから、目立たない努力をしてください』

 シエルは黙った。


「素材が強すぎるって何……」

「由奈らしい表現だね」

「褒めてる?」

「半分くらい」

 結衣はそこで、表情を戻した。

「まあ、由奈はああ見えて、イベントのマナーとかはちゃんとしてるから。そこは信用していいと思う」

「そこは、なんだ」

「そこだけなんだけどね」

 

 シエルは軽く息を吐く。

「分かった。行ってみる」

「うん。生きて帰ってきて」

「不穏な送り出し方やめて」

「大丈夫。東京ビッグサイトは、ギリ人間の領域だから」

「……余計不安なんだけど」

 結衣は何も答えなかった。それが、いちばん怖かった。


     ◇


 当日の朝。

 伊達メガネ。服は、薄い色のカットソーに、落ち着いた色のカーディガン。スカートは長めで、動きやすいものを選んだ。靴は、見た目より歩きやすさ重視。

 

 「……素材が強すぎる、か」

 呟いて、シエルは伊達メガネの位置を直した。


 階下へ降りると、美穂がリビングから顔を出した。

「あら、今日はずいぶん落ち着いた格好ね」

「由奈さん指定です」

「なるほど」

 美穂はすべてを察したように頷いた。


「人が多い場所なんでしょう? 無理しないのよ」

「はい」

 武臣は新聞を畳み、短く言った。

「人混みでは、流れに逆らうな」


 シエルは素直に頷きかけてから、考える。

「それ、軍事でもイベントでも通じそうですね」

「基本は同じだ」

「同じなんですか?」

「群集の流れを読む。留まる場所を選ぶ。無理に押し返さない」

 妙に実用的だった。


 結衣はソファの横で、申し訳なさそうに手を振った。

「シエル、由奈のテンションが危険域に入ったら、休憩したいって言って逃げるんだよ」

「妙に具体的だね」

「経験者だから」

「やっぱり怖いんだけど」

「帰ってきたら、話は聞いてあげるから」

 

 シエルは苦笑して、玄関へ向かった。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

「楽しんできてね」

 結衣の声は、申し訳なさそうに聞こえた。


     ◇


 由奈とは、天ヶ浜駅で待ち合わせだった。

 駅前に着いた瞬間、シエルはすぐに由奈を見つけた。

 見つけた、というより、由奈が目立っていた。

 大きめのトートバッグ。肩から下げたサブバッグ。手には会場マップらしき紙。


「シエル!」

 由奈が大きく手を振る。


「おはようございます」

「おはよう。よし、黒髪黒目、伊達メガネ、地味め服。合格!」

「採点するんですね」

「今日は大事。会場では目立たないこともマナーの一部」

 由奈はそう言いながら、シエルの靴を確認する。


「靴もよし。歩きやすいやつだね」

「かなり歩くんですか?」

「歩く。かなり歩く。あと立ちっぱなし」


「それ、イベントというより訓練では?」

「違うよ、巡礼」

「ますます安心できません」


「でも靴は戦闘靴のつもりで選ぶ」

「戦闘あるんですか?」

 由奈は満足そうに頷いた。


「いい質問。今日のシエル、調子いいね」

「朝から不安しかないです」


「大丈夫。初回だから優しくするし」

「その文面、怖かったです」

「怖くない怖くない。ちゃんとルールを守れば楽しい場所だから」

 そこで由奈は、急に真面目な顔になった。


「まず、基本。走らない。列を守る。スタッフさんの指示を聞く。通路で立ち止まらない。写真は勝手に撮らない。荷物は前に抱える。体調が悪くなったら、すぐ言う。水分はこまめに取る」

「思ったより実務的ですね」

「イベントは実務だよ。情熱だけで突っ込むと、だいたい誰かに迷惑をかける」

 その言葉に、シエルは由奈を見る目を変えた。

 騒がしい人だと思っていた。もちろん、それは間違っていない。けれど、好きなものに向かう時の由奈は、思ったよりずっと真面目だった。


「あと、これは最初に言っておくね」

「はい」

「今日は全年齢だけ。シエルは高校一年生。私も未成年。成人向けとか年齢制限のあるものには近づかない。そこはちゃんと守るタイプのオタクです」

「そこは、安心しました」


「そこは、って言った?」

「言いました」

「正直でよろしい」

 由奈は笑い、改札の方へ歩き出した。


 電車に乗ると、休日らしい人の流れがすでにあった。

「由奈さん、荷物すごいですね」

「最低限だよ。飲み物、モバイルバッテリー、折りたたみバッグ、タオル、チェックリスト、マップ、差し入れ用の小袋」

「最低限の概念が重い」

「慣れると軽くなる」

「慣れたくない方向の慣れかもしれません」

 由奈は楽しそうに笑った。


 電車が都内へ近づくにつれて、人の密度が変わっていく。シエルは窓の外を見ながら、今日の目的をもう一度確認した。


 “東京創作マーケット春”

 “創作の現場”

 “同人誌即売会”

 前世の知識があるせいで、完全な未知ではない。だが、知識として知っていることと、その場に足を踏み入れることは違う。

 システム仕様書で読んだ障害対応と、現場環境で鳴り響くアラートくらいには違う。

「シエル?」

「はい?」

「今、すごく何かを警戒してる顔だった」

「前世の知識が、あまり役に立たない方向で警報を鳴らしてます」

「大丈夫。たぶん半分くらいは役に立つよ」

「残り半分は?」

「現地で学ぼう」

「怖い現場主義ですね」

 シエルは息を吐いた。


「大丈夫?」

 由奈が聞く。

「まだ大丈夫です」

「無理そうなら、ちゃんと言ってね。初回で限界突破させる趣味はないから」

「そこは信じます」

「そこも、って言わなかった?」


「……言いませんでした」

「今の間は言ってた」

 そんな会話をしながら、人の流れに沿って歩いていくと、駅の先の視界が開けた。

 遠くに、特徴的な逆三角形の建物が見える。

 

 “東京ビッグサイト”

 その前へ向かう人の流れは、幅の広い川のようにも見えた。

 由奈が足を止め、にやりと笑う。

「ようこそ、シエル。“東京創作マーケット春” へ」

 

     ◇


 門へ向かう人の流れは、駅を出た瞬間からはっきりしていた。

「まずは流れに乗るよ」

「はい」


 会場へ近づくにつれ、案内板が増えた。入口の近くには大きな掲示があり、ホールの配置、入場列、一般参加者向けの注意事項が並んでおり、多くのスタッフが人の流れを手で示していた。


「すごい人数ですね」

「今日はまだ春だからね。真夏よりは優しい」

「比較対象が怖いです」

「大丈夫。今日は初級コースだから」

 

 この規模で初級なのか。

 シエルは、伊達メガネの奥で目を細めた。


 前世の記憶領域が、勝手に処理を始める。

 入口へ向かう流れ。入場確認の場所。ホール内へ分岐する通路。人が詰まりやすい角。スタッフが立つ位置。表示板の間隔。


 “待機列はキュー”

 “通路は帯域”

 “スタッフはルーティング制御”

 “サークル配置は負荷分散”

 そして、その全部を動かしているのは、たぶん仕様書ではなく、人間の欲望と情熱と締切だ。


「……これ、実質的には人間をパケットとして流す巨大ネットワークですね」

 思わず口に出てしまう。

 由奈が即座に首を振った。


「違うよシエル。これはね、祈りと業と締切で動く祭壇」

「余計に怖いです」

「でも間違ってはいない」

「間違ってないんですか?」

「締切前の人間はだいたい祈り、願うから」

 そう言う由奈の顔は、冗談半分、本気半分だった。


 入場を終え、ホールの中へ入ると、空気が一気に変わった。

 広く天井が高い。


 机が列になって並び、その向こうに人が座っている。机の上には、本、ポストカード、グッズ、見本誌、手書きの値札、簡単なポップ。通路を歩く人たちは、それぞれの目的地へ向かっている。


 シエルは半歩だけ横へずれ、人の流れを邪魔しない場所で息を整えた。

「大丈夫?」

 由奈が声をかける。

「大丈夫です。情報量が多いだけで…」


「これを趣味で浴びに来るんですか?」

「浴びに来る。あと吸いに来る」

「空気を?」

「創作の空気」

 由奈は当然のように言った。


 シエルには、まだよく分からない。けれど、ここにいる人たちがただ買い物に来ているだけではないことは、なんとなく分かった。

 由奈はマップを開き、指で順路を示した。

「いきなり濃いところには行かない。まずは創作一般と評論系から。シエルにも入りやすいはず」

「濃いところがある前提なんですね」

「あるよ」

「…ですよね」

 シエルは深く聞かないことにした。


     ◇


 最初に向かった一角は、思っていたより落ち着いていた。

 机の上に並んでいるのは、漫画だけではない。

 旅行記。街歩きの記録。カメラの作例集。鉄道の考察本。ミリタリー系の評論。自作PCの小冊子。古い工具の解説。ラーメン店を巡った記録。

 

「……同人誌って、漫画だけじゃないんですね」

「むしろ何でもあるよ。人間の "好き" はだいたい本になるからね」

 

 シエルは机の前に立ち、表紙を眺める。ラーメン評論本の表紙には、手描きの丼と、赤い暖簾のイラストがあった。

 中を見せてもらうと、店ごとの味の特徴や、麺の太さ、スープの傾向、混雑時間まで丁寧に書かれていた。


「ちゃんとしてる……」

 思わず漏らすと、サークルの人が照れたように笑った。

「ありがとうございます。食べ歩きの記録をまとめただけなんですけど」

「いえ、すごく見やすいです」

 シエルは素直に言った。


 前世の大和なら、きっとこういう本を面白がっただろう。胃腸が弱くなっても、ラーメンの話だけは好きだった男だ。

 けれど、今のシエルも、そのページを楽しいと思っている。

 それが不思議だった。

「一冊ください」

「ありがとうございます」


 小さなやり取りのあと、シエルはラーメン評論本を受け取った。由奈が横でにやにやしている。

「いい選択」

「見ないでください!」

「案内役なので」

「監視役では」

「似たようなもの」


 次に目を引いたのは、カメラ散歩本だった。

 海沿いの町、古い商店街、雨上がりの路地、夕方の駅前。派手な写真ではない。けれど、何気ない風景を切り取る視線が琴線にふれる。

 天ヶ浜の坂道や、星ヶ丘の朝を思い出す。


 シエルはページをめくった。

「それも気になる?」

「はい。写真そのものというより、見ている場所がいいなって」

「いいじゃん。大和さんの趣味だけじゃなくて、シエルの趣味も増やしていこう」

「由奈さん、たまにさらっといいこと言いますね」

「あ、ごめん」

「いえ。嫌じゃないです」

 それは本当だった。


 大和の記憶に引かれているものもある。けれど、今のシエルが選ぶものもある。カメラ散歩本を手に取ったのは、たぶん前世の名残だけではない。

 シエルはその本も買った。

 由奈は何も茶化さず、満足そうに頷いた。


     ◇


 次に回ったのは、創作雑貨の一角だった。

 机の上には、ポストカード、手作りのしおり、小さなアクセサリー、イラストカード、アクリルキーホルダーが並んでいる。

「ここは本以外も多いんですね」

「創作マーケットだからね」


 シエルは小さなしおりを見つけた。

 薄い紙に、夜の図書室のような絵が描かれている。

 ただ、少しだけ気になった。

「それ、似合いそう」

 由奈が言う。


「しおりが似合うって、どういう意味ですか?」

「本に挟んでも、シエルの持ち物として馴染みそうって意味」

「分かるような、分からないような」

 シエルは笑って、そのしおりを買った。


 買ったものはまだ三つだけだ。ラーメン評論本、カメラ散歩本、しおり。けれど、鞄の中はすでに重くなった気がした。

 物理的な重さではない。誰かの時間を受け取った、という重さだった。


「大丈夫? 疲れてない?」

「まだ大丈夫です」

「よし。じゃあ、次から由奈さん領域に入ります」

「由奈さん領域?」

「百合島です」

「直球ですね」

「全年齢対象です」

「そこは安心します」

 由奈は親指を立てた。


     ◇


 百合島は、これまでとは雰囲気が違っていた。

 机の上には、女の子同士の関係を描いた本が並んでいる。表紙は柔らかい色のものが多く、制服、花、手を伸ばしかけた指先、並んで歩く後ろ姿などが目に入った。


 シエルは、内容に踏み込みすぎないようにしながら、机の上を見ていく。

 由奈はテンションが上がっている。けれど、声は抑えていた。サークルの前では、きちんと一歩引き、見本誌を手に取る時も丁寧だった。


「由奈さん、意外と静かですね」

「意外とは失礼。でもここは神聖な場所だから」

「また祭壇扱いですか」

「机の上に新刊が並ぶ場所はだいたい祭壇」

「定義が広い」

 由奈は笑い、ある本を手に取って表紙を見つめた。


「関係性を描くのって難しいんだよ。距離が近いだけじゃだめだし、甘いだけでも続かないし」

「……それは、少し分かる気がします」

「お!?」

「今のは作品の話です」

「何も言ってないよ?」

「顔が言ってました」

「ちぇ」

 由奈はあっさり引いた。

 シエルは胸を撫で下ろす。


 結衣がここにいなくてよかった、とも思う。いたら、由奈はもっと面倒な方向へ思考を始めていたかもしれない。


「でもね、現実にも尊い関係性ってあるんだなって――」

「由奈さん!」

「はい。黙ります」

 止めると、由奈は素直に口を閉じたが、目は楽しそうだった。


 シエルは苦笑しながら、机の上の本をもう一度見る。

 そこにあるのは、誰かの関係性を大切に描こうとしたものだった。現実とは違う。けれど、ただ消費されるだけのものにも見えなかった。

 好きなものを、丁寧に形にする。そこは、共感できる気がした。


     ◇


 次に向かった一角で、由奈の足取りがさらに変わった。

「ここからが本領です」

「言い切りましたね」

「BL島です!」

「はい」

「反応が落ち着いてる」


「さっき初心者講習で心の準備はできました」

「さすが!」

「褒めるところですか?」

「褒めるところ!」

 由奈はそう言いながらも、先ほど以上に周囲をよく見ていた。混んでいる机の前では長居しない。列ができているところでは最後尾を確認する。見本誌を戻す時は、表紙の向きを揃える。


 シエルは、その動きを見ていた。

 由奈は騒がしいし、妄想もよく暴走させる。けれど、ここではきちんと周囲を見ていて、好きなものに対し、雑に振る舞わない。

 それは、少し意外で、少し格好よかった。


 机の上には、いろいろな本が並んでいた。表紙の絵柄も、タイトルの雰囲気もばらばらだ。けれど、どれも誰かが時間をかけて作ったものだと分かる。


 由奈は一冊を手に取り、サークルの人に声をかけた。

「新刊、一冊ください」

「ありがとうございます」

「前回の本、すごくよかったです。後半の会話、何度も読み返しました」


 サークルの人の顔が、ぱっと明るくなる。

「ありがとうございます。そこ、時間かかったところなので、うれしいです」

「分かります。間の取り方がすごく好きでした」

 由奈の声は、いつもの勢いとは違っていた。


 ちゃんと相手へ届くように、でも後ろの人の邪魔にならないように、短く、丁寧に伝えている。

 シエルは、由奈の横顔を見た。この人は、ただ好きなもので騒いでいるだけではない。

 好きなものを作る人に、きちんと敬意を払っている。


 由奈は本を受け取り、差し入れの小袋をそっと渡した。

「これ、よかったら」

「わ、ありがとうございます」

「新刊、帰ったら読みます。感想送りますね」

 それだけ言って、由奈はすぐに場所を空けた。


「長居しないんですね」

「後ろに人がいるからね。感想は後で送れるし」

「由奈さん、ちゃんとしてるんですね」

「え、今さら?」

「今さらです」

 由奈は笑っていて、少しだけ嬉しそうでもあった。


     ◇


 いくつかの机を回ったあと、由奈は奥のサークルへ向かった。

「ここ、知り合いなんだ」

「由奈さんの?」

「うん。何回かイベントで会ってる。あと、感想のやり取りも」

「創作者同士、ということですか」

「まあ、私は今回は一般だけどね」

 由奈の声は軽かった。


 けれど、その「今回は」に、シエルは引っかかりを覚えた。

 サークルの机には、明るい表紙の本が並んでいた。由奈が近づくと、座っていた女性が顔を上げる。

「あ、由奈ちゃん」


「こんにちは。新刊おめでとうございます」

「ありがとう。今回は一般?」

「はい。落ちました」

「ああ……それは」


「次こそは、そっち側に座ります」

 由奈は軽く笑って言った。

「今日はシエルちゃんを連れてきました」

 由奈が言うと、女性がシエルを見て柔らかく笑った。


「初参加?」

「はい。完全に初心者です」

「最初はびっくりするよね?」

「かなり」

「でも楽しいでしょう?」

 シエルは考えてから頷いた。


「はい。情報量は多いですけど、作っている人の情熱も、ちゃんと見える感じがします」

 女性は目を細めた。

「いい感想」


「シエルちゃん、たまに刺さること言うんですよ」

「たまにって何ですか」

「頻繁に?」

「増やせばいいわけじゃないです」

 由奈が笑い、女性もつられて笑った。

 新刊を一冊受け取り、由奈は短く挨拶をして場所を離れた。


 次の目的地へ向かう途中、通路の流れが変わった。

 由奈がマップを見ながら首を傾げた。

「あれ、次のサークル、この辺のはずなんだけど」


 シエルは背伸びをして、周囲を見渡した。

 地図の上では、目的のサークルはこの通路の角にある。だが、実際にそこにあるのは机と人の流れだけで、列らしいものは見当たらない。

 代わりに、通路の奥で人の流れが折れていた。スタッフが手を上げて別の方向を示し、その先に最後尾札を持った人が立っていた。札のサークル名は、由奈が探している名前と同じだった。


「由奈さん」

「ん?」

「たぶん、列、あっちに分離されてます」

「え、なんで分かるの?」

「人の流れが、そこだけ折り返してます。あと、スタッフさんの視線がそっちに集まってます。最後尾札も見えます」


 シエルが指さすと、由奈は目を細めた。

「あ、本当だ。イベント適性あるのでは?」

「嬉しくない適性です」

「でも助かる適性」

「ありがとうございます」


 由奈は、シエルを連れて列の最後尾へ向かった。列は長すぎるほどではないが、短くもない。通路をふさがないよう、何度か折れて整理されている。スタッフが声を張り上げるわけでもなく、参加者も慣れた様子で並んでいた。

「すごいです。列が生き物みたいにくねってる」

「言い方」

「でも、ちゃんと通路を空けてます」

「イベント参加者、こういうところは鍛えられてるからね」

 由奈は誇らしげに言った。


 列が進むあいだ、シエルは周囲を見る。

 誰もが自分の順番を持っている。だが、全員が好き勝手に動いているわけではない。列を作り、流れを守り、机の前では短くやり取りをする。スタッフの指示があれば、ちゃんと従う。


 混沌としているようで、秩序がある。

 それが面白かった。

「これ、ちゃんと設計しないと破綻しますね」

「だからスタッフさんは神」


「由奈さんの世界、神と祭壇が多いですね」

「好きなものの周りには、だいたい祈りが発生するから」

「それは……分かる気もします」

 シエルが言うと、由奈は意外そうな顔をした。


「分かる?」

「全部は分かりません。でも、今日見ていると、ただ買ってるだけじゃない感じはします」

「うん」


「作った人がいて、受け取る人がいて、その間に、ちゃんと手順がある」

「やっぱりたまに刺すよね」

「刺してるつもりはないです」

「無自覚が一番刺さるんだよ」

 由奈は笑って言った。


     ◇


 いくつかのサークルを回り終えたころ、シエルの足取りが重くなってきた。

 それに、由奈が気がついた。

「休憩しよっか」

「まだ大丈夫です」

「余裕があるうちに休憩しよ」

「経験者の言葉ですね」

「経験者の失敗談でもある」

「説得力あります」


 由奈は近くの休憩スペースへ向かった。少し離れた場所にベンチがあり、壁際では飲み物を手にした人たちが短い休憩を取っている。

 シエルはベンチに座り、ペットボトルの水を飲んだ。

 

「大丈夫?」

「はい。情報量が多くって」

「それは普通。むしろ初参加でここまで平然としてる方がすごい」

「平然とはしてないです」

「してるように見える」

「外面です」

「それ、けっこうシエルっぽい」

 由奈は笑いながら、チェックリストに印をつけている。戦利品という言葉が似合う量だった。


 シエルも自分の鞄を開けた。

 由奈に比べれば少ないが、どれも自分で選んだものだった。


「どう? 初めての創作イベント」

 由奈が聞く。


「すごいです」

「語彙」

「情報量が多すぎて、処理しきれません」


「でも……ここって、作っている人の顔が見える場所なんですね」

 シエルは会場の方を見る。

 机の向こうで本を渡す人。受け取って頭を下げる人。見本誌をめくる人。


 そこには確かに、人が何かを作り、誰かへ渡す瞬間があった。

「祈りとか、学校の歴史とは違いますけど」

 シエルは言葉を探しながら続けた。


「誰かが形にしたものを、誰かが受け取るっていう意味では、似ている気がします」

 由奈は黙った。


 それから、いつもより柔らかく笑う。

「そういう見方、いいね」

「変ですか?」

「変じゃない。作る側が聞いたら嬉しいやつ」

「なら、よかったです」

 シエルはペットボトルを両手で持つ。


 神秘でも、奇跡でもない。

 天使の権能も、アカシックも関係ない。

 人が考えて、描いて、書いて、印刷して、机に並べる。そのために時間を使い、眠い夜を越え、締切に間に合わせる。


 好きだからやれることだ。それは、ひどく人間らしいと、シエルはそう思った。


「もう少し休んだら、最後に軽く見て帰ろうか」

 由奈が言う。

「はい」

 

     ◇


 会場を出るころには、シエルの足はかなり疲れていた。

 

 駅へ向かう人の流れは、来た時よりばらけていた。朝のような緊張はない。買った本を友人と見せ合う人、スマホで感想を打っている人、疲れた顔で黙って歩く人。


 シエルも由奈の隣を歩いた。

「疲れた?」

「疲れました」

「正直でよろしい」

「でも、嫌ではなかったです」

「それはよかった」

 由奈は前を向いたまま笑っている。

 

 シエルは、その横顔を見た。

「由奈さん」

「ん?」

「さっきの、そっち側って言ってた話ですけど」

「ああ」

 由奈はすぐには答えなかった。


 駅へ続く広い道の途中で、一度だけ東京ビッグサイトの方を振り返る。あの逆三角形の建物は、夕日の光の中で映えていた。


「ほんとはね、今日、あっち側にいたかったんだよね」

 由奈は、会場の方を見たまま言った。

「机の向こうに座って、"これ、私が描きました"って顔してさ。来てくれた人に、ありがとうございますって言って。そういう日になる予定だった」


「抽選に、外れたんですよね」

「うん。落ちた」

「悔しかったですか?」

「悔しいよ」

 

「悔しい。めちゃくちゃ悔しい。でも、悔しいって思えるくらいには、まだ描きたいってことだから」

 由奈は自分のトートバッグを抱え直す。


「今日は一般で回って、買って、挨拶して、楽しかった。でも机の向こうを見てると、やっぱり思うんだよね。次はあそこに座りたいって」

 シエルは、どう返すべきか迷った。


 慰めるのは簡単だ。次は大丈夫ですよ、と言うこともできるが、それは違う気がした。

 由奈は、落ち込んでいるだけではない。

 悔しさごと、次へ持っていこうとしている。


「……由奈さん、次はあっち側に行けるといいですね」

由奈は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。


「うん。次は受かる。受かったら、シエルにも差し入れ係やってもらうから」

「もう役割が決まってるんですか?」

「もちろん。あと、売り子も似合うと思う。もちろん黒髪メガネで」

「今日と同じ対策じゃないですか」


「実績あるから」

「実績にしないでください」

 由奈は声を出して笑った。


「でも、今日は連れてきてよかった」

「どうしてですか?」

「シエル、ちゃんと見てくれたから」

「見ていただけですよ」

「それができる人、意外と少ないんだよね」

 由奈はそう言って、前を向いた。


「今日は買う側。次は作る側。どっちも大事。そういう場所なんだよ、ここは」

 シエルは頷いた。

 

     ◇


 天宮家へ戻るころには、空はすっかり茜色に染まっていた。 玄関を開けると、リビングの方から結衣が顔を出す。

「おかえり。ちゃんと生還できたね!?」

「うん。なんとか」

 結衣は安心したように笑った。


 由奈が後ろから大きなトートバッグを抱えて入ってくる。

「ただいまー。シエル、初参加にしてはかなり優秀だったよ」

「何の評価?」

「イベント適性」

「嬉しくない適性が増えていく……」

 シエルが靴を脱ぎながら言うと、結衣がくすっと笑った。


「どうだった?」

「情報量が多すぎて、処理が追いつかない。でも……作ってる人たち、すごかった」

「それは分かる」

「あと、由奈さんはあの場所だと頼りがいがある」

「それは知ってる」

 結衣は即答した。


 由奈が胸を張る。

「ふふん。次はコスプレエリアも見ようね」

「次がある前提なんですか?」

「あるよ。シエルは素材が強いから、見学だけでも絶対勉強になる」

「私は何の勉強をさせられるんですか?」


「創作の幅」

「不安しかないです」

「大丈夫。次も全年齢健全コースだから」

「そこは守ってください」

「守る守る!」

 由奈は楽しそうに笑い、戦利品の入ったトートバッグを抱え直した。


 結衣はシエルの鞄を見て言う。

「シエルも何か買ったの?」

「うん。ラーメン評論本と、カメラ散歩本と、しおり」

「ラーメンは大和さんっぽいけど、カメラ散歩本はシエルっぽいね」

「そうかな?」

「うん。今のシエルっぽい」

 その言い方は、なんとなく嬉しかった。


 前世の名残だけではない。

 今の自分が、今日選んだもの。

 それを結衣が普通に受けいれてくれたことに、シエルは頷いた。

「あとで見せる」

「見る見る!」


 由奈が横から手を挙げる。

「私も見る!」

「由奈さんは自分の戦利品整理があるのでは?」

「あるけど、人の戦利品も見る!」


「忙しいですね」

「忙しいのがイベント後です」

 よく分からないが、由奈は本気のようだった。


     ◇


 その夜、シエルは自室の机に、今日買ったものを並べた。

 

 今日、シエルはそれらを手に取り、作者の想いも受け取ろうと思った。

 カメラ散歩本のページを開くと、夕方の商店街の写真があった。派手ではない。けれど、その場所を好きな人が撮った写真だと分かる。 シエルは、しおりをそのページに挟んだ。


 人間は面倒くさい。

 列を作り、締切に追われ、荷物を抱え、疲れながら、それでも好きなものを形にする。

 効率だけで考えたら、たぶん無駄だらけだ。

 でも、その無駄の中にしかない熱がある。

 

 ただ、人が好きなものを形にして、誰かへ手渡すための場所だった。

 そしてシエルは、その熱に、ただただ圧倒される一日になった。


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