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美少女天使(中身おじさん)は、できるだけ頑張らず楽しく生きたい  作者:


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第49話 継承をほどく午後

 祝日の朝、シエルは机の前に座り、小さなメモ帳を開いていた。

 そこに、昨日の夜に書いた二文字がある。


 ――継承。

 ただの二文字なのに、目を離しづらかった。

 昨日、星ヶ丘女学院の古い資料や礼拝堂の名残を見たことで、その言葉には現実の手触りが増していた。

 けれど、理解できたとは言えない。 むしろ、理解できてしまうほうが怖いとさえ思えた。


 シエルはメモ帳を閉じ、服の上から胸元のロザリオに触れた。冷たくも熱くもない。ただ、そこにあるという感覚だけが、指先に返ってくる。




「シエル、起きてる?」

 扉の向こうから結衣の声がした。

「うん。起きてる」

「入っていい?」

「いいよ」

 扉が開き、結衣が顔を出した。今日は制服ではない。淡い色のカーディガンに、膝丈のスカートを穿いている。


 結衣は机の上のメモ帳を見て、それからシエルに視線を戻した。

「昨日のこと、考えてた?」

「うん。でも、置き場所が決まってない感じで……」

「置き場所?」

「うん。学校で見たものと、鳴瀬で触れたものを、同じ()()として扱っていいのか分からないの」


 言ってから、シエルは自分の口調がかなり崩れていたることに気づき、気恥ずかしい気分になる。 けれど結衣は、何も言わなかった。机の横に立ち、軽く首を傾ける。

「じゃあ、宗一伯父さんに相談してみる?」

「うん。自分だけで意味を決めるの、ちょっと怖いし」

「それが分かってるなら、大丈夫だと思うよ」

「大丈夫かな?」

「少なくとも、危なそうな時に一人で突っ込むよりは、ずっといいんじゃない」

 結衣の言い方は強くない。止めるというより、横に並んで道を共に選ぶ感じだった。


 朝食の席で、シエルは武臣と美穂にも鳴瀬へ行くことを伝えた。

「昨日のことは、まだ気になるか?」

 武臣が新聞をたたみながら聞く。

「はい。なので、今日、宗一さんに相談したいと思っています」

「鳴瀬か」

「はい」

 武臣は短く頷いた。

「行くなら昼を食べてからにしなさい。祝日の午前中は、あちらも忙しいだろう」

「そうします」


「それがいいわ」

 美穂も味噌汁を配りながら言った。

「空腹で難しい話をしに行くと、だいたい変な方向に行っちゃうもの」

「経験則っぽい」

 結衣が笑う。

「経験則よ」

 美穂がさらりと返し、シエルもつられて笑った。


 朝食の後、結衣は宗一に連絡を入れた。返事は思ったより早く来た。

「午後ならいいって」

「それで、今日は持ってきたものを見るだけ、だって」

「じゃあ、ちゃんとお昼食べてから行こう」

「うん。おばあちゃんの経験則に従う」

「そこは信頼していいと思う」

 二人で笑ったところへ、美穂が台所から声をかけてきた。

「聞こえてるわよ」

「褒めてるよー」

「ならよろしい」




昼食後、シエルは外出の準備をした。

白のブラウスに紺のカーディガン、膝丈のスカート。黒髪黒目のまま、目立たない服装に整える。メモ帳を小さなポーチに入れ、玄関に向かうと、結衣が待っていた。


「準備できた?」

「うん」

「じゃ、行こうか」

「行ってきます」

 シエルがリビングの方へ声をかけると、美穂が手を振った。

「行ってらっしゃい。宗一さんによろしく言っといてね」


 武臣は玄関まで顔を出し、短く言った。

「無理はするな」

「はい」

「分からんものを、分からんまま持って帰るのも大事だ」

 その無骨な一言は、今日の目的を言い当てている気がした。


「……はい。そうします」

 シエルはそう答えて、玄関の扉を開けた。




 二人は星ヶ丘駅から私鉄に乗り、鳴瀬へ向かった。電車の窓の外では、丘の上の家々、遠くに見える校舎の屋根、春の光に白く霞む天ヶ浜の海が、少しずつ後ろへ流れていく。


「学校の継承と、鳴瀬の継承って、同じなのかな」

 シエルは窓の外を見たまま言った。

 結衣は少し考えてから答える。

「似てるところはあると思う。でも、同じって決めるのは早い気がする」

「うん。私もそう思う」

「星女のは、人が残した記録って感じがした。写真とか、学校案内とか、礼拝堂の名残とか。鳴瀬は……どちらかというと土地に近い気がする。人が残したものだけじゃなくて、場所そのものに残ってる感じかな」

 シエルは頷いた。

 鳴瀬にあるものは、人が守ってきたものと、土地に残ってしまったものが混じっている。


「だから今日は、決めに行くんじゃなくて、見てもらいに行く感じ」

「うん。それでいいと思う」

「……なんか今日は、すごく普通に話せてる」

「自覚あるんだ」

「あるよ。最近、自分でもちょっと分かる」

「いいことじゃない?」

「たぶん」

 そう答えてから、シエルは笑った。




 鳴瀬駅で降り、バスに揺られて、二人は鳴瀬神社前の停留所に降り立った。午後の光の中、鳴瀬神社へ続く石段が、木々の影をまとって静かに伸びていた。


 シエルは結衣と並んで石段を上った。境内に出ると、そこには祝日午後の神社の顔があった。大祭のような人出ではないが、拝殿の前では老夫婦が手を合わせ、社務所の窓口で御朱印帳を受け取る人もいる。

「さすがにまだ、人いるね」

 結衣が声を落とす。

「うん」

 シエルも頷いた。


 二人は境内を横切り、社務所の方へ向かった。社務所の前では、授与品の棚が片づけられている途中だった。 その奥から、宗一が出てくる。

「来たか」

「こんにちは、宗一さん」

「こんにちは、宗一伯父さん」

 二人が挨拶すると、宗一は軽く頷いた。


「午前中に来なかったのは正解だ。今日は立て込んでいたからな」

「やっぱり、祝日だと多いんですね」

「大きな行事がなくても、人は来る。休みの日ならなおさらだ」

 宗一は社務所の奥へ目を向けた。

「今日は祠には行かん。持ってきたものを見るだけだ」


 その一言に、シエルは息が楽になるのを感じた。

「はい」

「分かっていた顔だな」

「朝、お父さんにも言われました。今日は……深く入る日じゃないって」

「ならばいい」


 宗一は社務所の奥へ入るよう示した。

 奥の部屋は、落ち着いていた。低い机と座布団が置かれ、壁際には書類棚が並んでいる。外からは、境内のかすかな足音と、遠くで鳴る鈴の音が聞こえていた。


 宗一は机の向こうに座り、シエルと結衣に座布団を示した。

「座れ」

「はい」

 シエルはポーチからメモ帳を取り出した。手の中で、表紙が硬く感じる。

「それか」

「はい」


 メモ帳を開く前に、シエルは一度、結衣を見た。結衣は何も言わず、ただ頷いた。

 シエルはメモ帳を開いた。

 そこに並んでいるのは、三つの断片だった。


 “ぬ”

 “ひ”

 “継承”

 宗一はそれを見ても、すぐには口を開かなかった。


「順番に話せ」

「はい」

 シエルは背筋を伸ばした。

「まず、前に鳴瀬で "ぬ" を拾って、その次に、宗一さんに相談した時、"ひ" を拾いました」

「覚えている」


「それから、学校の図書室で、古い台帳に触れた時に、また四角い窓みたいなものが出ました。でも、その時は、見ようとしませんでした。ロザリオを触って、問いを小さくして……一語だけ、と思って」

「何を問うた?」

「前に図書室で見えた、"まだ書かれていない" ものが何を指すのか。一語だけ、と」

「それで返ったのが、それか!?」

「はい。"継承" です」


 声に出すと、その二文字はまた重くなった。

「その時は、意味は分かりませんでした。ただ、文字というより、意味だけが落ちてきたような感じで……すぐに戻りました。ロザリオを握って、息をして、紙の匂いとか、そういうものを順番に意識して戻りました」

 宗一は短く頷いた。

「悪くない」

 褒め言葉にしては短い。けれど、シエルにはそれで十分だった。


「それで、昨日」

 シエルはメモ帳に視線を落とした。

「学校で、創立記念の展示を見ました。古い学校案内とか、礼拝堂の写真とか、昔の祈りの文とか。そういうものを見ているうちに、"継承" って、ただの神秘的な言葉じゃないのかなって思って」

「どういう意味でだ」

「人が残して、次の人が受け取ってきたもの……みたいな感じです。学校の中に、そういう時間が残っているように見えました」


 言い終えてから、シエルは慌てて付け足した。

「でも、そう決めていいのかは分かりません」

 宗一はそこで初めて、わずかに目元を緩めた。

「そう言えるなら、大丈夫だ」

「大丈夫、ですか?」

「分かった気になっていないからな」

 

 宗一はメモ帳の文字へ視線を戻した。

「言葉の意味は、早く決めすぎると器が狭くなる。特に、向こう側から来たものはな」

 その言い方に、シエルは背筋が冷えるのを感じた。けれど怖いというより、線を引かれ、ここから先は簡単に踏み込むな、と言われている気がした。


「学校で拾った言葉を、学校の中の記録で確かめた。それは悪くない。ただし、学校の記録と、鳴瀬の記録を、同じものとして扱うな」

「同じじゃない、ですか?」

「似ている部分はある。だが、同じではない」


 宗一は指で机を軽く叩いた。

「学校は、人が作り、人が残し、人が受け継いできた場所だ。校風、資料、祈り、習慣。そういうものが積もる。鳴瀬は、それに土地が絡む。家も、作法も、祭るものも、触れてはいけないものも混じる」


 シエルは黙って聞いた。結衣も、口を挟まなかった。

「どちらも "継承" と言えば、たしかに継承だ。だが、同じ括りにするには早い」

「……置き場所を分ける、ということですか」

「そうだ」

「朝に言った "置き場所" って、こういうことだったのね」

 結衣が言う。

 シエルは隣を見た。

「そこ、覚えてたの?」

「覚えてるよ」


 短いやり取りに、宗一がわずかに眉を上げる。

「だいぶ口調が自然になったな」


 シエルは一瞬、言葉に詰まった。

「……そこも見ますか?」

「見えるものは見る」

 淡々と言われ、結衣が口元を押さえて笑っい、場の空気が軽くなる。


 だが、宗一はすぐに話を戻した。

「学校で見えるものは、()()()()をしているぶん、比較的扱いやすいかもしれん。図書室は特にそうだ。本、台帳、写真、資料。人の側に寄せてある。だが、礼拝堂の名残や、鳴瀬の祠のような場所は、記録だけでは済まんことがある」


 祠、という言葉が出た瞬間、シエルは無意識に指先を握った。

「今日は祠には行かんと言っただろう」

「はい」

「近づかないことも手順のうちだ」


「宗一さん」

「なんだ」

「私は、読めるようになっているんでしょうか」

 自分で聞いて、怖くなった。


 宗一はすぐには答えなかった。代わりに、机の上のメモ帳を一度閉じる。

「お前は、触れられるようになっている」

 低い声だった。

「だが、触れられるからといって、読んでいいこととは違う」

「……はい」

「それを履き違えるな」


 短い言葉だったが、重かった。

「学校で拾ったなら、次は学校で確かめたくなるだろう。だが、しばらくは一人で深く入るな。図書室なら、結衣がいる時に、見るだけにしておけ。問いを立てるなら、その前に言え」

「はい」

「礼拝堂の名残には、今は触れるな。見るだけだ。鳴瀬の裏には、こちらが呼ぶまで入るな」

「はい」

 今度は、迷わなかった。


 宗一はそれを確認すると、机の横の引き出しに手を伸ばした。

「メモ帳はそのまま持っていろ。だが、別に一枚、作っておく」

「作る?」

「お前が抱えたままにしないためのものだ」

 そう言って、宗一は引き出しから白い紙を一枚取り出した。


 神社で使う正式な札ではない。厚みのある、何も書かれていない紙だった。宗一はそれを机の中央へ置き、横に黒い筆ペンを一本置いた。

「書け」

「私が、ですか」

「お前が持ってきたものだ。人に書かせるな。自分の手で、こちら側に置け」

「意味も書くんですか」

「書くな。今日は文字だけでいい。意味を添えると、そこへ寄ってしまう」


「寄る……」

「人の頭は、空いた場所を埋めたがる。だが、今は埋めるな。広く使え。詰めるな」

「はい」

 シエルは筆ペンのキャップを外した。


 最初に、左上へ「ぬ」と書く。次に、その下に少し離して「ひ」と書く。鳴瀬で掬った二つの音が、紙の上に並ぶ。

 最後に、右側へ大きめに「継承」と書いた。

 その瞬間、シエルは自然と心が落ち着く。黒い線が白い紙に沈む。学校の図書室で拾った一語が、鳴瀬神社に置かれる。ただ、それだけのことだった。けれど、それだけで、昨日から胸に残っていたものの輪郭が、少し扱いやすくなった気がした。


「……書きました」

 シエルが筆ペンを置くと、宗一は紙を見た。しばらく黙ってから、指で空欄の部分を示す。

「ここには何も書かん」

「はい」

「この余白も、残しておくものだ」

 シエルは紙の白い部分を見た。


 そこは、足りないものを急いで埋めるための場所ではない。後で何かを受け取った時、壊さずに置けるように、残しておく場所だと思った。

「分からないものを、分からないまま置いておくんですね」

「そうだ」

「それ、けっこう難しいです」

「簡単なら作法はいらん」


 宗一の返しに、結衣が笑った。

「宗一伯父さんらしい」

「事実だ」

 宗一は紙を二つ折りにはせず、そのまま乾くまで置いた。

「この紙は、持って帰れ」

「いいんですか?」

「お前のものだ。ここで書いたことに意味がある。鳴瀬に預けるものではない。持ち帰って、学校のものと混ぜずにしまえ」

「学校のものと、分ける」

「そうだ。今は、棚を分けろ」


前世の仕事でも、分類を誤るとあとでひどいことになる。似たものを同じ場所に放り込むと、後から取り出せなくなる。

「分かりました。学校で見たこととは、別にして持っておきます」

「それでいい。ぬ、ひ、継承。今のところは、それだけだ。増やすな」

「はい」

 シエルは素直に頷いた。


 答えが増えたわけではない。むしろ、答えにしてはいけないものが増えただけかもしれない。それでも、不思議と息苦しさは減っていた。

 



 その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。

「失礼しまーす……って、入っていいやつ?」

 襖の隙間から、由奈が顔を出した。手には盆がある。湯呑みが三つと、皿に乗った小さな菓子。


「由奈、今はちょっと・・・」

 結衣がすぐに目を向ける。

「分かってるって。お茶だけ。核心には触れません」

「その言い方がもう怪しい」

「大丈夫。私、空気は読む方だから」

「読む方向がたまに変だけど」

「ひどい!」


 由奈は口では抗議しながらも、踏み込みすぎることはなかった。盆を机の端に置き、紙の上の文字には目を向けないようにしている。

 それが意外で、シエルは驚いた。

「ありがとうございます、由奈おねえちゃん」

 その瞬間、由奈は満面の笑みを浮かべる。

「ど、どういたしまして。シエルは、顔が真面目すぎるから、糖分も入れておいて」


「そんな顔してます?」

「してる。お父さんと同じ種類の真面目顔」

「それは、だいぶ重いですね」

 つい普通に返すと、由奈が目を丸くした。

「お、返しが早い!」


 結衣が横から笑う。

「最近、シエルはだいぶこっち側に来てるから」

「こっち側って何?」

 シエルがすぐに返すと、由奈は満足そうに頷いた。

「いいね。親戚味が出てきた」

「味って言わないでください」


 そこで、宗一が低く言った。

「由奈」

「はい、撤退します」

 由奈は即座に盆から手を離し、一歩下がった。


「あとでゴールデンウィークの予定、聞くからね。そこは逃がさない」

「えっ!?」

「じゃ、お邪魔しましたー」

 言うだけ言って、由奈は廊下へ消えていった。


 残されたシエルは、思わず結衣を見る。

「今の、何?」

「たぶん、由奈の趣味関係」

「嫌な予感しかしないんだけど」

「たぶん、半分くらい当たってる」

「半分で済む?」

「済まないかも…」


 二人のやり取りに、宗一は湯呑みを手に取りながらため息をついた。

「あれはあれで、鳴瀬の風通しだ」

「風通し!?」

「こういう話ばかりしていると、内へ籠る。騒がしいのがいるくらいがちょうどいい」

 シエルは湯呑みを両手で持ち、茶の温度を確かめてから口をつけた。


 紙の文字が乾くと、宗一はそれを新しい封筒に入れた。封はしない。ただ、折らずに収まる大きさの封筒だった。

「家に帰ったら、メモ帳と一緒にしまうな」

「はい。別にします」


「時々見てもいい。ただし、意味を足したくなったら、まず日付を書け」

「日付、ですか」

「いつ思ったことかを分けろ。後から見た時に、混ざるからな」

「ああ……それは分かります。ログみたいなものですね」

「ろぐ?」

 宗一が眉をひそめる。


 結衣が横から補足した。

「記録のこと。たぶん、シエルの前世側の言い方」

「なるほど」

 宗一はそれ以上突っ込まなかった。


「なら、その感覚で扱え。いつ、どこで、何を見て、何を考えたか。混ぜずに残せ」

「分かりました」

「今日はここまでだ」

「はい」

「帰りに、手を合わせていけ。裏に用がなくても、表には挨拶はしておけ」

「分かりました」


「それと」

 宗一はシエルを見た。

「学校は学校で大事にしろ。鳴瀬のものを見る目で、全部を見ようとするな」


 シエルは一瞬、答えを探した。けれど、すぐに頷いた。

「はい。学校には、学校の見方がありますよね」

「そうだ」


 宗一は湯呑みを置いた。

「星ヶ丘女学院は、お前が通い学ぶ場所だ。探す場所にしすぎるな」

 その言葉に、胸の奥が痛んだ。

 図書室。弓道場。教室。ほのか。結衣。昼休みの三人席。 そこを全部、謎を探すための場所にしてしまったら、たぶん何かを失う。

「……はい。気をつけます」




 社務所奥を出る頃には、午後の光が傾いていた。

 二人は宗一に言われた通り、拝殿の前で手を合わせた。鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼。特別な願いをするわけではない。ただ、今日ここへ来て、無事に帰ることへの挨拶だった。


 シエルは鞄の中の封筒を、そっと指先で確かめたが、答えは増えなかった。

 けれど、胸の中に散らばっていたものは、置き場所を得た。


 石段を下りながら、結衣が隣で言った。

「今日、答えは増えなかったね」

「うん。でも、勝手に答えにしちゃいけないって分かった」

「それも、けっこう大事だよね」

「……うん。今の私には、たぶん一番大事」

 石段の途中で、山風が二人の髪を揺らした。


 シエルは、鞄の中の封筒の中を思う。

 “ぬ”

 “ひ”

 “継承”


 その横に残された、余白。

 それは、空白ではなかった。

 いつか何かが書かれるまで、壊さずに持って帰るための場所だった。

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