表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/62

特別番外編(後編):鈴鹿の夜、チェッカーの向こう側

 ――決まったのは、前夜のことだった。


 予選日の夜、ホテルの部屋で足を投げ出していたシエルの元へ、あの女性スタッフから電話が入った。声は、いつもの軽いのりではなく少し沈んでいた。


「シエルちゃん、ごめん。急な話なんだけど……明日の決勝、もう一日だけ、お願いできないかな?」

「明日も……ですか」


「本当は今日だけの約束だったのは分かってる。ただ、休んでる子、まだ熱が下がらなくて、明日も来れそうにないの。急いで代役も当たったんだけど、決勝当日にいきなり入れる子なんて、そうそう見つからなくて」

 受話器の向こうで、スタッフが小さく息をつくのが聞こえた。


「無理なら、断ってくれていい。頭数が一人減るだけだし、こっちで何とかする。ただ、今日のシエルちゃんの立ち姿、スポンサーさんにもすごく評判よくてね。もし来てくれるなら、正直、すごく助かる」


 シエルは、すぐには答えなかった。

 目立つのは、本当は苦手だ。カメラに囲まれるのも、SNSでざわつかれるのも、できれば遠慮したい。今日一日で、もう十分すぎるくらい非日常を味わった。


 それでも――昼間に見た、ピットで動き回る晃太たちの背中が、頭に残っていた。あの人たちは、明日、8時間を走り切るために、今もどこかで準備をしている。その隣に立つ一日を、 “今日だけ” で切り上げてしまうのは、なぜだか少しだけ惜しい気がした。


「……足、痛いんですけど」

「うん」

「上げ底ブーツ、明日もですよね」

「ごめん、そこは譲れない」

 スタッフの声に、ようやく少し笑いが戻る。シエルは、天井を見上げて、息を吐いた。


「分かりました。明日も、やらせていただきます」

「……ほんと? 助かる、マジで助かる!」


「その代わり、足が限界になったら、ちゃんと休ませてください」

「約束する。絶対」


 電話を切ってから、シエルはしばらくスマホを握ったまま動かなかった。

 断らなかった理由を、うまく言葉にできない。ただ、 “最後まで見届けたい” という気持ちだけは、確かに自分の中にあった。


 それは、頑張らないと決めたはずの自分にしては、ずいぶん物好きな選択だった。


     ◇


 決勝の朝、鈴鹿の空は、昨日よりも白っぽく霞んでいた。

 湿気を含んだ風がテントを揺らし、ピット裏には、独特の緊張と高揚が満ちている。


「おはよう、シルバーエンジェル」

 メイクテントに顔を出すと、昨日と同じメイクをしてくれたスタッフが、当然のような顔で手招きしてきた。


「……おはようございます。その呼び方、やっぱり定着させる気なんですね」

「今さら変えられないよ。ほら、今日もかわいくして、ピットロードに立ってもらわないと」

 椅子に座らされ、ケープをかけられる。


 銀髪は昨夜ホテルでしっかり乾かしておいたおかげで素直にまとまり、指先が梳くたびに光を流す。

「昨日の夜ね、 "鈴鹿の銀髪の子かわいすぎ" ってタグが回り始めててさ」

「……タグ」


「#シルバーエンジェル とか #鈴鹿の銀髪 とか……。まだそこまでバズってないけど、じわじわ増えてる感じ」

 ファンデーションを乗せながら、スタッフは楽しそうに言う。


「本人が見ると恥ずかしくて死ぬやつですね」

「確実に死ぬね。現場では見ない方がいいよ、気が散るから」

「努力します」

 今日は昨日より薄めのメイク。

 すでに “顔が売れてしまった” という状況、余計な派手さは要らない。


 ポロシャツとミニスカート、上げ底ブーツも昨日と同じ。

 靴ひもを締め直し、一歩立ち上がると、また世界が十センチ高くなった。


     ◇


 グリッドウォーク前、ヨシクラのピットは慌ただしかった。

 燃料のチェック、タイヤ交換、最終的なセットアップ。

 晃太はすでに “仕事の顔” で、モニターとノートPCを交互に見ながら、ライダーと短い言葉を交わしている。


「ライン取りは昨日のロングランのイメージで。路面温度、スタート時点で四十度超えそうだから、最初から無理しない方がいい」

「了解」


 会話の意味を全部は理解できない。

 それでも、モニターに流れるグラフや数字を一瞥したとき、その密度だけは肌で感じ取れた。


(これ、全部頭に入れて理解してるのか……)

 晃太の横顔は、普段ののんびりした兄ちゃんのそれではない。

 戦場の指揮官に近い。

 その背中を見ていると、昨日までよりさらに、彼への尊敬が積み上がっていく。


 女性スタッフが、シエルの肩を軽く叩いた。

「そろそろ行くよ」

「はい」


 深呼吸を一つ。

 笑顔、まではいかなくとも、少なくとも “不安気な顔” ではない表情を作って、ピットロードへ踏み出す。


 グリッド上は、まさにお祭りだった。

 各チームのマシンがズラリと並び、その周りを、カメラを構えた観客とスタッフが波のように行き交う。

 スピーカーからはアナウンスと音楽、空にはヘリの飛行音、地面からはエンジンの鼓動が伝わってくる。


 ヨシクラのマシンの横、ライダーとチームスタッフに挟まれるようにして、シエルは指定された位置にパラソルを持って立っていた。


「シエルちゃん、こっち向いてー」

 カメラマンが手を振り、レンズを向ける。

 昨日より、視線を向けるのが楽になっていた。

 観客席からは、点々と声が飛ぶ。


「銀髪の子、今日もいる!」

「本物だったんだ」

「写真で見るより実物やべえ」


(やめて、心の防御力が削られる)

 心の中でだけ、頭を抱える。

 しかし、ここでうつむいたままでは、チームの看板に泥を塗ることにもなる。


(ヨシクラのマシンと、この人たちが好き。それだけ、伝えられればいい)

 視線を真っ直ぐ前に戻す。


 眩しさに目を細めながら、ヘルメットを抱えたライダーの横で、短く会釈した。

 スターターの合図、グリッドからクルーとコンパニオンたちが一斉に下がる。

 エンジンが一斉に咆哮し、スタート進行が始まった。


 スタートを終え、シエルはピット裏のモニター前に戻ってきた。


 8時間の始まり。

 モニターにはコース全体図とラップタイム、順位が流れている。


「長いな……」

 思わず漏れた呟きに、隣のスタッフが笑った。


「ここからが本番だよ。立ちっぱなしじゃなくていいから、合間合間でちゃんと座んな」

「ありがとうございます」

 モニターの中で、赤と黒のマシンが、他チームと入り乱れて走っていく。

 トップ争いではない。

 それでも、確かに戦っている。


 ピットインのたびに、空気が変わる。

インパクトレンチの甲高い作動音が、ピット全体を貫く。ジャッキアップ、タイヤ交換、給油、ライダー交代。


 何度か見ているうちに、どの動きが成功で、どの動きが少し遅れたのか、素人なりに分かるようになってくる。


 晃太はピットウォールで、タイムボードを出したり、インカムで短く指示を出したりしていた。

 その姿を見ているだけで、胸の奥が熱くなる。


(こんなにも必死に、誰かのために頭使って、身体動かしてる大人もいるんだ)

 かつて、疲れ切ったスーツ姿ばかり見ていた世界とは、違う。

 同じように疲れているのだろうけれど、その疲れ方には、何か別の色が混じっていた。


 レースも中盤に差し掛かった頃、空の色が変わり始めた。

 遠くに黒い雲が見える。

 サーキット特有の、急なスコールの気配。


「これ、降るかな?」

「微妙ですね」

 スタッフ同士の会話が飛び交う。

 タイヤ選択がレースを左右する時間帯だ。


 結局、雨は完全には降らなかった。だが、ぽつ、ぽつ、と落ちた雨が路面をわずかに濡らし、いくつかのチームが足元を掬われる。


 他チームのマシンが一台、大きくコースアウト。

 グラベルを巻き上げてタイヤバリアにぶつかる映像がモニターに映り、すぐにセーフティカー導入の文字が現れた。

 ピットの空気が、一気に張り詰める。


「ライダー大丈夫か」

 救急車が動き出す様子が映り、観客席からもどよめきが起きる。

 シエルの胸の奥で、何かがひやりとした。


 見えない線。

 目には見えないが、世界の構造のようなものが、一瞬だけ “軋む” 感覚。


(ここで手を出せば、たぶん何かを変えられる)

 転倒したライダーの怪我を、なかったことにできるかもしれない。そういう手触りが、確かに指先の近くに存在した。


 いや――それだけじゃない。雨の粒の落ちる位置も、グラベルの流れ方も、マシンの挙動も。順位さえ、思うままに書き換えられる気がした。ヨシクラを、勝たせることさえ……


でも、それは。

(スポーツとしてのレースを、けがす)


 勝つべき者が勝ち、負けるべき者が負ける。それを人知を超えた力でねじ曲げるのは、ただの不正だ。

 それが『調停』なのかどうか、正直分からない。少なくとも、今の自分に、そこまで踏み込む資格はない。

 握りしめた手のひらに、爪が食い込む。


(せめて――)

 目を閉じ、息を整える。

 心の中で、言葉を紡ぐ。


(大きな怪我になりませんように。命に、関わりませんように)

 祈りと、微細な調整の境界線。

 ぎりぎり、その手前で足を止める。

 やがて、モニターの中で、担架に乗せられたライダーが、手を上げる姿が映った。


 拍手が起こる。

 シエルも、胸の内のこわばりをほどき、静かに手を合わせた。


 太陽が傾き始める。

 空の色は、昼の白から、夕方の橙へ。

 サーキットを囲む観客席も、少しずつ影を伸ばしていく。


 ヨシクラのマシンは、大きなトラブルこそないものの、細かなロスが積み重なり、優勝争いからは外れつつあった。それでも、ピットの誰一人として「諦めよう」とは言わない。


「最後まで走ることに意味があるんだよ」

 途中の休憩時間、女性スタッフがぽつりと言った。


「もちろん勝ちたいけどね。でも、完走できなかった年の悔しさは、本当にしばらく抜けないから」

 シエルは頷き、もう一度モニターを見る。

 残り時間、二時間を切った。


 足は痛く、限界に近い。

 上げ底ブーツの中で、じわりじわりと締め付けが増している。

 それでも、座ってしまうと、逆にもう立てなくなりそうで、ピットの壁にもたれながら、立ち続ける方を選んだ。


(ここで、この空気の中で、最後まで見届けたい)

 途中で帰るのは簡単だ。

 でも、晃太たちがここで踏ん張っているのを、途中で見捨てるような気がして、それがどうしても嫌だった。


 残り一時間。

 ヨシクラのマシンは、上位争いからは離されている。

 それでも、確実にラップを重ね、順位を大きく落とすことなく走っている。


 ピット内の声が、増えてきた。

「燃料、ギリギリ持つな」

「このままいけば、最後のスティントまで行ける」

「無理してプッシュしないでいい、今のペース維持で」


 晃太の声は、落ち着いていた。

 焦りも苛立ちもない。

 ただ、目の中には、最後まで諦めないという光がある。

 シエルは、その横顔を見ながら、ふと気付く。


(私、この人のこと、尊敬してるんだな)

 前から尊敬はしていた。

 でも、こうして “自分の得意分野で、全力で戦っている姿” を目の当たりにして、ようやく実感として腑に落ちた。


 やがて、残り時間十分の表示。

 ピット前に、スタッフが集まり始める。

 それぞれがピットウォール近くに陣取り、最後の周回を待つ。


「シエルも来い」

 晃太に手招きされる。

 上げ底ブーツを引きずるようにして、ピットウォールの後ろまで出る。


 夕焼けの中、コースの向こうに観客席のシルエットが浮かぶ。

 その下を、マシンたちが最後のラップを刻んでいる。


 ―Checkered Flag―

 旗が振られ、次々とマシンがホームストレートを駆け抜けていく。


 モニターに “FINISH” の文字が並び、スピーカーから歓声と拍手が溢れる。


 ヨシクラのマシンが、遅れてホームストレートに現れた。

 ヘッドライトを点灯させ、最後の力を振り絞るように加速し、チェッカーを受け、駆け抜けていく。


「……っ」

 何かが、ぷつん、と切れた。


 8時間。

 スタートからここまで、一度も止まることなく走り続けた。

 トラブルも、小さなミスも、悔しい瞬間もあった。

 優勝ではない。

 表彰台にも届かない。


 それでも。

 このマシンは、確かに8時間を生き抜いた。


 晃太たちが手を叩き、スタッフ同士がハイタッチを交わす。

 誰も飛び跳ねて喜んだりはしない。

 それでも、その表情には確かな達成感があった。


「よく、走り切ったな……」

 誰かの呟きが耳に届く。

 同じ言葉が、シエルの胸の内でこだまを打った。


(すごい)

 言葉にならない。

 ただそれだけしか頭に浮かんでこない。


 視界が滲んだ。

 慌てて瞬きをしても、追いつかない。

 頬に、温かいものが一筋、二筋と伝っていく。


「あれ!?」

 自分でも驚くほど、あっけなく崩れた。

 涙を止めるという選択肢が、そこから先は浮かんでこなかった。


「お、おい」

 近くにいたスタッフが、狼狽した声を出す。


「泣いてるぞ、うちの天使」

「そりゃ泣くだろ、初めて8耐最後まで見た子が、こんなん正面から浴びたらさ」

「写真撮るなよ、SNSに上げたら炎上するからな、分かってるな、振りじゃないからな」

 冗談めかした声が飛び交う。

 誰も笑っていないわけではないが、その笑いは決して意地悪ではなかった。


 晃太が、ピットウォールから降りてくる。

 ヘッドセットを首から外し、汗を拭いながら、シエルの前で立ち止まった。


「……最後まで立っててくれて、ありがとう」

 短い言葉。

 その一言に、今日一日の全部が詰まっているような気がした。


「い、いえ、私は何もじてばじぇん」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま答える。

 声が震えて、うまく言葉にならない。


「でも、見ててくれたろ」

 晃太は、それだけ言って、口元を緩めた。


「それだけで、けっこう救われるんだよ」

 そう言われると、余計に涙が止まらなくなるので困る。


     ◇


 ホテルに戻ったのは、空がすっかり暗くなってからだった。

 シャワーを浴びて、メイクを落とし、上げ底ブーツから解放された足をマッサージする。

 ふくらはぎが悲鳴を上げていた。


「……上げ底、侮れない」

 ベッドの上でだらりと伸びながら、スマホを手に取る。

 ちょうどそのとき、結衣からメッセージが飛んできた。


《おつかれシルバーエンジェル》

《ちょっとこれ見て》

 添付されていたのは、SNSのスクリーンショット。

 そこには、見覚えのありすぎる銀髪の少女の写真が並んでいた。


「…………」

 さっきまで泣いていた目が、今度は別の意味で潤む。


 ピットロードでの笑顔。

 マシンの横でポーズを取る姿。

 ピット裏でスタッフと談笑している横顔。

 いくつかは、さっきの “涙目の瞬間” まで切り取られている。


 ハッシュタグには、#シルバーエンジェル、#鈴鹿8耐、#謎の銀髪の子

 などの文字が踊っていた。


《マジで天使》

《ヨシクラに新キャラ追加された》

《この子だれ案件》


「ひゃっ……」

 変な声が出る。

 枕に顔を押しつけて、しばらくバタバタした。


《おみやげ話、期待してるからね》

 結衣のメッセージに、震える指で返信する。


《帰ったらまとめて話します。先にネットを閉じたいです》

 送信してから、スマホを伏せる。

 布団に頭まで潜り込み、しばらくそのまま動かなかった。


(……でも)

 騒がれるのは、正直言うと恥ずかしい。

 だが、あの場に立って、あのチェッカーを見届けられたことに、後悔はなかった。


 上げ底ブーツで痛くなった足。

 熱気と汗と、オイルの匂い。

 晃太たちの必死な背中。

 チェッカーフラッグと、8時間走り切ったマシンの姿。

 全部が、今日という一日の記憶として、身体のどこかに刻まれている。


(こういう "頑張り" なら、たまには、悪くないかも)

 壊れるまで働くのは、もう嫌だ。

 でも、誰かと一緒に、同じ目標に向かって走り切るのは――気持ちいい。

 そんなことを考えながら、シエルはゆっくりと目を閉じた。


 鈴鹿の夜は、まだ遠くのどこかでエンジンの余韻を響かせている。

 その音を子守歌にするように、彼女の意識は静かに沈んでいった。



――――――――――

次回、特別番外編最終話になります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ