第43話 近すぎるからこそ
火曜の朝は、よく晴れていた。
天宮家の食卓には、今日も湯気が並んでいる。味噌汁の匂い、焼き魚の香り、箸と食器の音。週末の鳴瀬神社での出来事を越えて、また学校へ戻ってきたのだと、そんな当たり前の風景が教えてくれる。
「おはようございます」
「おはよう、シエル。今日はいい天気ね」
美穂が笑い、武臣が新聞をたたむ。
「火曜か。弓道の日だったな」
「はい」
答えると、向かいで結衣が湯呑みを置いた。
「見学の子、他にも来てるんだっけ」
「たぶん。仮入部の子は、まだ何人かいるって宮坂先輩が言ってました」
「じゃ、今日は、またその子たちと“息を置ける静けさ”の中に行く日だ」
結衣がそう言うと、シエルは笑った。
「言い方だけ聞くと、何かの修行みたいです」
「間違ってはないかも」
その返しに、今度は結衣のほうが笑う。朝の空気は軽い。週末を越えて何かが大きく変わったわけではない。けれど、同じ日常の中に戻ってこられている、そのことが以前よりはっきり分かった。
家を出ると、星ヶ丘の住宅街には春の光が満ちていた。坂道の途中で、風が制服の裾を揺らす。隣を歩く結衣は、いつもの歩幅でつ並んでいる。詰めすぎず、離しすぎず、その距離が妙にありがたかった。
「今日は表情、わりといいね」
歩きながら、結衣が言う。
「表情って、なんですか?」
「体調とか、機嫌とか、そういう総合判定」
「ざっくりしすぎです」
「でも当たってるでしょ」
シエルは答えずに前を見た。否定しなかったのを、結衣はそのまま受け取ったらしい。
教室に入ると、前の席がすぐ振り返った。
「おはよ、シエル!」
ほのかの声は、朝の教室に馴染む。明るいのに、押しつけがましくない。
「おはよう、ほのか」
「なんか今日、前よりまた柔らかいね」
「パンみたいな感想だね」
「え、いいじゃん。焼きたて感ある」
「意味がわからない」
笑いながら、シエルは鞄を机に置いた。自分でも驚くくらい、会話が自然に続く。ほのか相手だと、肩に入る力が最初から少ない。前の席で、同じ教室の空気を吸っている。その近さが、変に身構えなくて済む理由なのかもしれなかった。
「今日さ、放課後、あたしの友だちも弓道見に来るんだ」
「同じ一年生?」
「うん。他のクラスの子。興味はあるんだけど、今さら行って浮かないかなーって昨日から言ってて」
「それで、ほのかが連れてくるんだ」
「そうそう。善行、徳積んでる」
「自分で言うんだ!」
「言う言う」
ほのかは胸を張ってから、声を落とした。
「でも本音で言うと、弓道場の静けさに一回は触れてほしいんだよね。あそこ、ちょっと特別じゃん」
「それ分かる」
シエルが答えると、ほのかの顔がぱっと明るくなった。
「今、すごい自然だった!」
「何が?」
「"それ分かる"のとこ。いい感じに友だちっぽかった」
「判定が細かい」
「大事だよ、そこ」
そこで担任が入ってきて、朝のやり取りはいったん終わった。けれど、胸のどこかに小さな温もりだけが残った。
昼休みは、いつものように三人で机を寄せる。
弁当箱の蓋を開ける音が重なり、教室のざわめきが遠ざかる。結衣は今日も一組へ顔を出していて、ほのかはすっかりそれを前提にしている。
「今日の見学の子、たしか伊東さんだっけ?」
結衣がサラダの蓋を開けながら聞いた。
「うん。昨日の帰りに、やっぱやめとこうかなーって言い出してさ」
「来てもないのに?」
「来てないからこそだよ。想像しただけで不安になるやつ」
ほのかは卵焼きを口に入れてから、肩をすくめた。
「でも、そういうのってあるじゃん。行ったら行ったで何とかなるのに、行く前が一番だるいって」
「あるね」
シエルが頷くと、ほのかが笑った。
「でしょ? だから今日は、二人で場の空気やわらかくしてね」
「二人って」
「シエルと宮坂先輩。あたしはたぶん、勢いで押しそうだから」
「自覚あるんだ」
「あるよ。勢い担当だから」
その言い方がおかしくて、シエルは笑ってしまった。笑いながら、週末の鳴瀬神社で見た顔を思い出していた。人は、行く前がいちばん固くなる。家を出る前。受付に並ぶ前。教室に入る前。弓道場の戸を開ける前。どれも同じなのかもしれない。
午後の授業を終え、放課後になると、ほのかはその子を連れてきた。
教室棟から弓道場へ向かう廊下は、歩くほどに匂いが変わっていく。チョークとノートと春の風が混ざった空気が薄れ、木と畳の匂いが近くなる。その変化に気づくたび、シエルの内面が静かになるのを感じた。
「伊東さん、こっち」
ほのかに呼ばれた子は、肩までの髪をきれいに揃えた、おとなしい雰囲気の少女だった。制服の着方はきちんとしていても、足取りだけは重そうだった。
「一組の天宮シエル。で、こっちは二年の宮坂先輩」
「よろしくね」
宮坂先輩は、いつも通り柔らかく微笑んだ。
伊東は慌てて頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします」
道場に入る前に一礼し、端に置かれた見学用の椅子へ案内される。的場のほうでは上級生が静かに射を続けていて、弦の音がひとつ鳴るたび、空気がすっと引き締まる。
「やっぱり、すごいですね…」
伊東が言った。褒めているのに、どこか逃げ腰の声だった。
「うん。きれいだよね」
ほのかが即答する。
「でも最初からああじゃないから大丈夫!」
「その"大丈夫"が雑なんだよ、ほのかは」
シエルが言うと、ほのかが「ひどい」と口を尖らせる。けれど伊東は、そのやり取りを見て肩の力を抜いたようだった。
宮坂先輩が、黒いゴム弓を一本持ってきた。
「今日は、見学だけでももちろんいいよ。もし触ってみたくなったら、素引きだけ体験できるから」
「え……でも」
伊東は、道場の奥へ目をやった。先輩たちの姿勢は整っていて、自分だけが場違いに見えると思っているのが顔に出ていた。
「興味は、あるんです。でも、こういうところって、ちゃんと決めてきた人が来る感じがして。私、まだそこまでじゃないので……」
言いながら、声がどんどんか細くなる。
ほのかはすぐに「そんなことないよ!」と言いかけたが、その前にシエルが口を開いた。
「今日、決めなくてもいいと思うよ」
伊東が目線を上げる。
「見学に来た時点で、もう前に進んでるから。入るかどうかは、あとで考えても遅くないんじゃないかな」
「でも、中途半端だと迷惑かなって……」
「見に来るだけで迷惑ってことは、ないから」
シエルは道場の床へ視線を落としてから、言葉を続けた。
「迷ってるなら、なおさら急がなくていいし。雑に決めないほうがいいと思う」
その言い方に、宮坂先輩がふっと目を細めた。
「うん。天宮さんの言う通りだよ」
先輩は伊東のほうを見た。
「弓道ってね、最初に上手くやることより、ちゃんと整えて始めることのほうが大事なの。だから、迷ってるなら迷ってるままで見学に来る、でも全然いい」
伊東は黙っていたが、さっきより落ち着いていた。
ほのかが、そこで待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「でしょ? ほら、勢いだけじゃなかった!」
「自分で言うんだ、それ」
シエルが呆れると、伊東の口元がようやく緩んだ。
「じゃあ、素引きだけ、やってみてもいいですか」
「もちろん」
宮坂先輩がゴム弓を差し出した。
伊東はぎこちなく立ち上がる。礼、足踏み、胴造り。ひとつひとつを教わりながら、ゴム弓を引く動きだけやってみる。最初は肩に力が入っていたが、二度目にはわずかに形になっていた。
「できてるできてる」
ほのかが、嬉しそうに言う。
「最初からそれだけできたら全然いいよ!」
「相田さんは褒め方が元気だね」
宮坂先輩が笑うと、伊東もつられて笑った。
そのやりとりを見ながら、シエルは既視感を覚えていた。週末の神社で見た、祈願に来た人たちの顔。固かったものがゆるんでいく感じ。言葉を足しすぎず、でも手を放さない距離。そういうものが、学校の中にもあるのかもしれなかった。
練習が終わり、道場に一礼して外へ出る。夕方の風が、冷たくなっていた。
道場の前には、結衣が待っていた。壁にもたれ、シエルたちを見ると、片手を上げる。
「おつかれ」
「いたんだ」
ほのかが嬉しそうに言う。
「うん。今日はちょい遅めだったから、待ってよっかなって」
伊東が慌てて頭を下げたので、結衣も自然に会釈を返した。
「見学どうだった?」
その問いに、伊東は一拍置いてから答えた。
「来てよかったです」
言葉は短かったが、来た時よりずっといい顔をしていた。ほのかが「でしょ!」と胸を張り、宮坂先輩が「また気が向いたらおいで」と見送る。伊東はもう一度頭を下げて、校舎のほうへ戻っていった。
ほのかは下駄箱の前で、急に「あっ」と声を上げた。
「やば。ノート、教室に置きっぱなし」
「取りに戻るの?」
「うん。先帰ってていいよ!」
そう言って、返事を待たずに駆けていく。あの軽さはもう才能的だな、とシエルは思った。
残されたのは、結衣と二人だけだった。
校門へ向かう坂を並んで歩く。夕方の光が長く伸び、住宅街の屋根の向こうに薄く海が見えた。
「さっきの子、ちゃんと笑ってたね」
結衣が言う。
「はい」
「シエル、ああいうとき自然だよね」
「自然……ですか?」
「うん。言葉遣いが」
結衣は前を見たまま続けた。
「ほのか相手でもそうだけど、さっきの伊東さんにも、わりとすっと出てた。なのに、私には戻るよね」
シエルは一瞬、足を止めかけた。
「敬語のほうに」
追い打ちみたいに言われて、返事が遅れる。
自分でも気づいていなかったわけではない。気づいていて、でも、うまく言葉にできなかっただけだ。
「変、ですよね」
「別に変じゃないよ」
「でも、不自然です。ほのかには普通に返せるのに、結衣には敬語だったり、そうじゃなかったりで……」
「揃ってなくてもいいんじゃない?」
結衣の声は軽い。軽いのに、雑ではなかった。
シエルはしばらく黙って歩いた。坂道の先に見える自宅の屋根が、妙に遠く見える。
「結衣には」
やっと出た声は、自分でも思ったより静かだった。
「たぶん、最初から近すぎたんです」
結衣がこちらを向く気配がした。
「近すぎた?」
「はい。たぶん、ほのかとか、学校の子たちは、ちゃんと"これから近くなる相手"なんです。でも結衣は……最初から、そうじゃなかったから」
言いながら、痛みとも違う熱が胸に広がっていく。
「同級生で、親戚で、同じ家で暮らしてて。助けてもらって、学校でも家でも、ずっと逃げ道を置いてもらって……」
そこまで言って、シエルは視線を落とした。
「普通に崩したら、たぶん……本当に甘えてしまうから」
風が吹いた。制服の袖が揺れ、髪が頬に触れる。
「ここが、自分の帰る場所なんだって、信じたくなってしまうから」
言葉にした瞬間、それがずっと胸の奥にあった本音なのだと分かった。
慈愛の家は生活の場所だった。守ってくれたし、育ててもらった。けれど、ずっとそこにいるための場所ではないと知っていた。だから、帰る場所という言葉を、どこか怖がってきた。
結衣の隣では、それを信じたくなってしまう。
だから最後のところだけ、丁寧にしておきたかった。簡単には崩れないように。自分から飛び込みすぎないように。
「それが、怖いんです」
言い終えるころには、胸が痛かった。
結衣はしばらく何も言わなかった。坂道の途中、二人の足音だけが続く。その沈黙が長すぎないのは、結衣がちゃんと待っているからだと分かる。
やがて、結衣が言った。
「シエル、敬語でも別にいいよ。無理に直さなくていいし」
その声音に、シエルは顔を上げた。
「でも、たまに素で崩れるほうが、私はけっこう好き!」
「好き、ですか?」
「うん!」
結衣は笑った。
「そっちのほうが、ちゃんと近いって分かるから」
胸の底で、何かがふっと緩んだ。緩んだあとに、今度は別の意味で苦しくなる。
「それ、ずるいです」
思わず出た言葉に、結衣が目を丸くした。
次の瞬間、にやっとする。
「ほら、今の」
「……っ」
「今の、すっごいよかった」
「掘り返さないでください」
「いや、掘り返すでしょ。今のは大事なやつだから」
顔が熱くなる。けれど、前みたいに逃げたくはならなかった。
坂の上まで来ると、見慣れた家の玄関が見えた。灯りはまだついていない。けれど、帰れば誰かがいて、夕食の匂いがして、今日の続きがある。
それを当たり前だと思ってしまうのが怖くて、敬語をひとつ残してきた。
でも、崩れてしまう瞬間があるのは、距離がずっと近くなったからだ。
その近さを、受け取ってもらえたのなら。
シエルは家のほうを見ながら、息を吐いた。
まだ全ては崩せない。
けれど、帰ることを前より怖がらずに済みそうだった。




