第42話 明日の朝に小さな祈りを
週末の朝。
鳴瀬神社へ続く石段は、うららかな春の光を薄くまとっていた。
まだ朝も早いというのに、境内にはぽつぽつと人がいる。大祭のような賑わいではない。けれど、静かな山の中腹にある神社にしては、今日は人の出入りが絶えなかった。
社務所の前には受付の机が出され、白い紙袋と札の束が几帳面に並べられている。誰かの新学期と、誰かの通う道に関わる日――そんな、日常のことではあるが、軽くはない空気が、境内のあちこちに息づいていた。
社務所の奥の部屋で、シエルは鏡の前に座っていた。
黒髪はきれいに梳かれ、白衣と緋袴が体の線を整えていく。銀を沈めた髪は、神前に立つにしても派手ではなく、ただきちんと整えられている。
「今日は人が多いから、立ってるだけでも疲れるかもしれないわ」
背後から髪を結いながら、遥が穏やかに言った。
「しんどくなったら、ちゃんと言ってね。親戚の手伝いなんだから、無理しなくていいのよ」
「はい……気をつけます」
「うん。いい返事」
遥は最後に、顔まわりの髪を目立たないように留めた。
「今日は"裏"じゃなくて"表"だからね。きれいに、丁寧に。それだけで充分」
鏡の中の自分は、平日の制服姿とも、祠の前で銀をほどいた姿とも違っていた。
黒い髪。黒い瞳。白と朱。役目に合わせて輪郭を整えられた自分は、まだ他人みたいで、でも、今の自分でもあった。
廊下へ出ると、由奈が待ち構えていた。
「うわ、やっぱいい! 今日のシエル、完全に"表の巫女さん"じゃん」
「由奈、声おっきい!」
結衣が横から即座に牽制する。
「それに、変な言い方はやめて」
「分かってるって。自制してるよ、これでも」
そう言いながらも、由奈の目はキラキラしていた。騒がしいのに、悪意が一ミリもない。その軽さに、シエルの肩から力が抜けた。
宗一はすでに社務所の机の向こうで、授与品の確認をしていた。白木の箱、通学安全の札、学業成就のお守り、申込の紙、初穂料袋。手つきに無駄がない。
「来たか」
顔を上げた宗一が、短く言う。
「今日は祠には触れない。受付と授与所の手伝いが主だ。分からないことは勝手に進めず、聞くように」
「はい」
「緊張してるか?」
問われて、シエルは一瞬迷ったあと、正直に頷いた。
「少し」
「それでいい。雑に扱わないってことだ」
淡々とした言い方だったが、不思議と息が整う。宗一の言葉はいつも、必要以上に褒めてこない代わりに、足場だけはしっかり固めてくれる。
「じゃあ、受付は最初、由奈とシエル。結衣は横で流れを見ながら補助。人が増えたら入れ替える」
「了解でーす」
「わかりました」
結衣が軽く答え、シエルも続いた。
最初に来たのは、星ヶ丘女学院ではない別の高校の制服を着た少女と、その母親だった。娘のほうは緊張で表情が固く、母親のほうはそれを見守りながらも、そわそわしている。
「学業と、通学安全で」
母親が言いながら申込用紙を差し出す。指先が落ち着かない。
シエルはそれを受け取り、確認してから頷いた。
「お預かりします」
「この子、四月から電車とバスで通うので……。今まで徒歩圏の学校ばかりだったから、ちゃんとやっていけるのかなって」
娘のほうが「お母さん!」と抗議したが、その声にも硬さがあった。
シエルは用紙を整えながら、月曜の朝に見た、生徒手帳をなくして青ざめていた子の顔を思い出した。あれも、大きな事故ではなかった。ただ不安が、その朝の世界を歪めていた。
「最初は、緊張しますよね」
シエルが言うと、娘の肩が揺れた。
「でも、朝、ちゃんと家を出て、登校して、無事に帰ってこられるだけで、充分だと思います」
大げさな励ましではない。けれど、その言葉は母親の肩からも力を抜いたらしかった。
「そうですよね」
母親が、ようやく笑う。
「つい、全部ちゃんとやらせなきゃって思ってしまって」
「最初から全部は、難しいですし」
シエルがそう返すと、娘のほうがそっと目を上げた。
「……ありがとうございます」
その声は、受付へ来たときより柔らかかった。
親子が拝殿のほうへ向かうと、隣で帳面をつけていた由奈が小声で言った。
「今の、効くなあ」
「何がですか?」
「言い方っていうか。なんか、安心する」
「普通のことしか言ってないです」
「その"普通"がちゃんと言える人、意外と少ないんだって」
由奈はそう言って、次の人へ顔を上げた。
続いて来たのは、自転車通学を始めるらしい中学生と、その父親だった。少年は平気そうな顔をしているが、父親のほうが坂道と交通量を気にしている。
「この辺、朝は車も多いでしょう」
父親はそう言って、通学安全の札を見つめた。
「本人は大丈夫って言うんですけどね。親のほうが、どうしても」
「そうなりますよね。見送る側のほうが、いろいろ想像しちゃいますし」
由奈が横で軽く笑うと、父親もつられて表情を崩した。
シエルは札を紙袋に入れる前に、紐のよれを指先で整えた。ごく小さな動作だった。紙の手触りが指に残り、衣の裏側で冷たいロザリオの気配が揺れた気がした。無意識にそこへ意識が向きかけて、すぐに戻した。
今日は、表側の仕事だ。
シエルは少年へ向かって言った。
「急がなくていいので、交差点、ちゃんと左右見てください」
「……はい」
少年は照れくさそうに頷いた。父親が頭を下げ、札を受け取る。そのとき、紙袋を持つ手から余計な力が抜けるのが見えた。
人の流れは途切れない。
今年受験の孫を案じる祖母。小学校へ上がる孫娘を連れた祖父母。中学へ進む息子を案じる母親。言葉の形は違っても、抱えているものはどこか似ていた。
ちゃんと行けるだろうか。ちゃんと馴染めるだろうか。ちゃんと帰ってこられるだろうか。
そのどれもが、ひとりで抱えるには重い。何かにすがりたいと思うのも道理なのかもしれない。
昼に近づくころ、結衣と位置を入れ替えた。由奈が授与所の袋を補充し、シエルは机の横で受け渡しを手伝う。結衣は人の流れを見ながら、さりげなく声をかけてくる。
「立ちっぱなし、辛くない?」
「まだ大丈夫」
「"まだ"付き?」
「……ちょっとだけ」
「正直でよろしい」
軽い調子のまま、逃げ道だけは残してくれる。その気配りがありがたくて、シエルは微笑んだ。
そのとき、祖母に手を引かれた小柄な少女が、机の前でぴたりと足を止めた。緊張しているのか、姿勢がどこかぎこちない。
「この子ねえ」
祖母が申し訳なさそうに笑う。
「学校は楽しみみたいなんだけど、人が多いと緊張しちゃって。教室の前まで行くと、お腹が痛くなるって」
「小学校に上がったばかりだから、余計心配で……」
少女はうつむいたまま、祖母の袖を握りしめていた。
シエルはその小さな手を見て、何を言うべきか考えた。変に励ますと、かえって言葉が軽くなる。分かったようなことも言いたくなかった。
「最初から、毎日を完璧にしようとしなくていいと思います」
少女が、わずかに顔を上げる。
「完璧じゃなくて、いいの?」
「はい。朝、ちゃんと家を出て、教室の前まで来られただけでも、前に進んでますから」
少女は黙ったまま、でも、祖母の袖を握る力をわずかに緩めた。
「ありがとうございます」
祖母が深く頭を下げる。
「この子、いきなり頑張らせようとすると、余計に固くなっちゃって」
「無理なく続けられるのが、一番ですから」
その言葉は、自分自身にも返ってきた。普通の一日を積み上げる。月曜の朝、そう決めたばかりだ。朝、家を出る。坂を上る。席につき、息をする。そういう小さいもののほうが、案外、祈る理由になる。
不意に風が強く吹いた。
「あっ」
受付票の束の端がめくれ、ひと組の親子が持っていた初穂料袋が足もとへ滑りこんだ。母親が反射的にしゃがみこんだが、慌てた手つきでうまく拾えない。隣の子どももつられて不安そうに顔をこわばらせる。
シエルはすぐに一歩出て、飛ばされかけた紙を押さえ、初穂料袋を拾い上げた。
「大丈夫です」
それだけ言って差し出すと、母親は、ほっとしたように笑った。
「すみません、なんか、こういうのまで落とすと縁起悪い気がしてしまって」
「書き直しもできますし、落としたくらいでは大丈夫です」
シエルは、新しい受付票も一枚差し出した。
「急がなくていいので、ゆっくりどうぞ」
母親は何度も礼を言い、子どもの肩を抱く。ほんの数十秒のことだったのに、さっきまで強ばっていた空気が緩んでいく。
その様子を見ていた由奈が、呟いた。
「今日のシエル、なんか回復陣でも貼ってる?」
「意味わかりませんし、貼ってないです!」
「分かってる。分かってるけど、そう言いたくなるの!」
祈願の時間になると、人の流れは拝殿の前へ移った。鈴の音が響き、ざわめきがすっと静まる。祝詞の声が、春の山の空気に溶けていく。差し込む光はやわらかく、紙垂が風に触れる音さえ、今日は鮮明に聞こえた。
列の端から、シエルは来訪者たちの背中を見ていた。
誰も世界の裏側なんて知らない。縫い目や、境目や、名のないものの気配なんて、知らなくていい。ただ、朝に家を出て、学校へ行って、帰ってくる。それだけの日々を願い、ここへ訪れている。
その姿は、祠の前で向き合ったものとは違う切実さを持っていた。こちらは不安も願いも、もっと実生活に近い。けれど、だからこそ、見落とせない重みがある。
衣の下でロザリオが、冷えたような気がした。
シエルは無意識にそこへ指先を添えかけて、やめた。代わりに、息を整える。今日は奇跡を起こす日ではない。誰かの明日を、通しやすくするための日だ。
祈願が終わったあと、拝殿から出てきた人たちの顔は、やわらかく見えた。
「なんだか、来てよかったです」「安心しました」
そんな言葉が、ぽつぽつと零れる。劇的な何かが起きるわけではない。ただ、胸のつかえが取れ、足取りも軽くなる。それだけで、充分なのかもしれない。
午後には一段落し、境内はまた春の静けさを取り戻し始めた。
残った紙袋を束ね、机を拭き、札の数を合わせる。社務所の中には、紙と墨と木の匂いが薄く残っている。
忙しさが引いたあとの静けさは、どこか祭りのあとにも似ていた。
「いやー、思ったより忙しかった!」
由奈が背伸びをしながら言う。
「でも、なんか今日は場が丸かったね。変に荒れなかったし、みんな普通に喋ってくれたし」
「神社の行事なんだから、荒れたら困るでしょ」
結衣が帳面を閉じながら返す。
「でも分かる。今日、みんなシエルの前だと喋りやすそうだった」
「え、やっぱそう見えた?」
「見えた」
二人の視線を受け、シエルは困った顔をした。
「普通に、聞いただけです」
「それができる人って貴重なんだよ」
結衣はさらっと言う。
「しかも、変に頑張れとか言わないし」
「それは……頑張れない日も、あると思うので」
その瞬間、由奈が一瞬だけ真面目な顔になった。けれど、すぐにいつもの軽さを取り戻す。
「うん。そういうとこだよね」
宗一は、離れたところで授与品の残りを整えていた。木箱の蓋を閉め、札を重ね、指先で向きを揃える。その動作の途中で、ふと手を止めた。
「……今日の札、妙に存在感があったな」
低い声だった。
由奈が即座に振り向く。
「え、マジで!?」
宗一は視線だけで制してから、もう一度札へ目を落とした。
「気のせいかもしれん。だが、気のせいで片付けるには、場の収まり方が揃いすぎていた」
結衣が、ほんのわずかに目を細めた。シエルも、思わず息を止めかける。
けれど宗一は、それ以上は続けなかった。
「今日は今日だ。まずは無事に終わった。それでいい」
「……はい」
シエルは答えながら、衣の下の首もとへ意識が向くのを感じた。見えないところで、銀の十字がそこにある。何かをしたつもりはない。ただ、人の言葉を受け取り、札を渡し、平穏な日常へ繋げる手伝いをしただけだ。
それでも、もし何かが混ざっていたのだとしても、今はまだ、そのことに名前をつけるほどではない気がした。
片付けを終えて社務所を出ると、春の陽は傾いていた。境内の先には、町並みが見え、その向こうに遠い海の光がかすかにきらめく。
さっきまでここにいた人たちは、それぞれの家へ帰っていくのだろう。月曜の朝を迎えるために。坂道を上るために。教室へ入るために。自転車をこぐために。
祈りは、奇跡のためだけにあるんじゃない。
誰かの明日の朝を、通しやすくするためにも、きっとある。
シエルは静かにそう思った。




