第41話 通う道に祈る理由
月曜の朝は、拍子抜けするくらい穏やかに始まった。
目が覚めた瞬間、昨日の祠の記憶が胸の底をかすめたのは確かだった。四角い輪郭。空欄みたいな丸。拾った一音。けれど、そこから先に引きずり込まれる感じはない。代わりに浮かんだのは、机の上に並んだ札と、宗一の低い声と、最後に自分で置いた言葉だった。
“明日は学校”
“普通の一日を積み上げる”
シエルは布団の中で一度だけ息を吸って、吐いた。今日の自分を置く。黒髪。黒い瞳。制服。リボン。
そうやって順番に並べると、朝はいつもの朝の形になった。
階段を降りると、台所から味噌汁の匂いがした。食卓にはすでに、決まった席と、決まった湯気が揃っている。
「おはようございます……お母さん」
そう言うと、美穂は振り向いて目を細めた。
「うん。おはよう、シエル」
大したことは言わない。ただ、それだけでいい。武臣も新聞から顔を上げ、「寝不足してないか」と短く聞いてきたので、シエルは「大丈夫です」と答えた。短い会話なのに、線は太く繋がっている。それが、ありがたかった。
向かいでは、結衣が湯呑みを手にしたままスマホを置いた。
「今日は雨の心配なさそう。徒歩組だからよかったね」
「徒歩組って、なんだか部活みたいですね」
「地味に坂あるから、軽いトレーニング部みたいではあるかな」
返しが早くて、シエルは笑った。笑えるなら、たぶん今日も大丈夫だ。
家を出るころには、春の空気が澄んでいた。星ヶ丘の住宅街は、週明けの朝らしい静かなざわめきに包まれている。洗濯物を干す音。遠くの車の走行音。塀越しに揺れる木の影。二人は並んで、いつもの道を学校へ向かった。
緩い坂道を上がり、小さな公園の脇を抜ける。何度も歩くうちに、この道の段差や、日陰になる場所や、風の抜け方まで、体が覚え始めていた。通い始めたばかりなのに、もう「通う道」の顔をし始めている。
公園の前を通りかかったときだった。
少し先で、同じ制服の女の子が立ち止まっていた。肩にかけた鞄を開けて、焦った手つきで中を探っている。忘れ物か何かを落としたのだと分かる慌て方だった。
同時に、歩道の端、ベンチの脚のそばで、紺色の薄い冊子が朝の光を受けていた。
「あ……」
シエルが足を止める。結衣もすぐに気づいたらしく、「あれ」と声を落とした。
シエルはしゃがみこんで、それを拾い上げる。角に校章。擦れた透明カバー。生徒手帳だった。
顔を上げると、鞄を探していた子がこちらを見た。目が合った瞬間、その子の表情がぱっと明るくなった。探していたものがそこにあると、確信した眼差しだった。
「あの……これ、落としましたか」
シエルが差し出すと、女の子は駆け寄るようにして受け取った。
「す、すみません! ありがとうございます!」
声が裏返っている。リボンの結び方がまだ慣れていないようで、どこかぎこちない。新しい朝の緊張が、そのまま人の形になったみたいだった。
「見つかってよかった」
結衣が軽く言うと、その子は何度も頭を下げた。
「ほんとに、よかった。これないと、もう、どうしようかと……」
それだけ言って、またぺこりと頭を下げると、小走りに学校の方へ向かっていった。紺の背中が坂の向こうへ消えるまで、シエルはしばらく目で追っていた。
大した事件ではない。事故でもない。不審者でもない。ただ、生徒手帳を落としただけだ。
それでも――見つからないかもしれない、間に合わないかもしれない、教室に入れないかもしれない。そんなふうに思った朝は、きっとそれだけで世界の輪郭を歪める。
前の人生の通勤を思い出しかけて、シエルはやめた。今は必要ない。これは、行かなければならない場所へ向かう足取りではなく、通いたい場所へ向かう足取りだ。
「行こっか」
結衣の声で、意識が戻る。
「うん」
二人はまた歩き出した。さっきまでと同じ坂道なのに、景色の見え方が変わっていた。
教室に入ると、前の席の住人がすぐに振り返った。
「おはよ、シエル!」
ほのかの声は、朝の教室によく合う。明るくて、真っ直ぐで、でも眩しすぎない。
「おはよう、ほのか」
席に鞄を置くと、ほのかがじっと顔を見てきた。
「なんか今日、ちょっと落ち着いてる?」
シエルは一瞬だけ目を瞬かせてから、息を吐いた。
「うん。昨日、ひとまず区切りがついたから」
「そっか」
ほのかはそれだけ言って、ノートを開いた。もっと聞こうと思えば聞けるのに、そこで止まる。深入りしないまま、肯定だけを置いていく。その距離感がありがたかった。
ホームルームが始まり、朝の挨拶があり、授業が始まる。チョークの粉。紙をめくる音。黒板を写す手の動き。先生の声が、窓から入る春の光と混ざり合って、教室の中をゆっくり流れていく。
大きな事件は、何も起きない。
けれど、その"何も起きない"に、今日は重みがあった。
何事もなく席につけること。ノートを開けること。チャイムの音をただのチャイムとして聞けること。そのひとつひとつ当然のごとく思えることが、実は守られているからなのかもしれないと思えた。
休み時間、教室の入り口から結衣が手を振った。
「シエル、ほのか」
「結衣ー」
ほのかが軽く手を振り返す。結衣は教室に入るなり、シエルの顔を見て、いつものように笑った。
「そういえば朝、通学路で生徒手帳落としてた子がいて」
シエルが言うと、結衣が「ああ」と頷いた。
「あれ、普通に焦るやつ」
「すごく困ってました」
「だよねー。朝にあれはしんどい」
ほのかが机の端に腰を預けて、「うわあ」と顔をしかめた。
「朝って、ちょっと何かズレるだけで、その日ぜんぶ終わりそうになる時あるもん」
その言葉が、妙に意識に残った。
昼休みは、三人で食べることになった。窓際から離れた場所で机を寄せ、弁当箱を開く。教室のざわめきは柔らかくなり、昼の光は朝よりも丸い。
ほのかのお弁当は、相変わらず彩りが元気だった。結衣とシエルは美穂が作ってくれたお弁当の蓋を開けた。
「いただきます」
三人の声が重なる。
しばらくは、授業の話や、先生の板書が速いとか、月曜の一限は頭がまだ寝ているとか、そんな普通の話が続いた。その普通の隙間に、ふと、シエルは前から気になっていたことを口にした。
「結衣」
「ん?」
「いつもこちらで食べていて、三組の友だちは大丈夫なんですか?」
箸を止めたのは結衣より、ほのかのほうが早かった。
「お。そこ気にするんだ、シエル」
「気にしますよ……」
シエルが言うと、結衣は目を丸くしてから、すぐに笑った。
「大丈夫大丈夫。親戚の子が外部から入ってきたばっかだから、しばらく昼は一組に顔出してるって言ってあるし」
「親戚の子……」
「うん。事実だし」
さらりと言われて、シエルは返事に詰まった。
ほのかが、にやっとする。
「なるほど。保護者ポジ」
「保護者は盛りすぎ。見守り係くらい」
「似たようなもんでは?」
「全然違うけど!」
軽いやりとりの中に、自分がきちんと居場所を持てている実感がある。そのことが不思議で、でも居心地は悪くなかった。
「それなら、よかったです」
「心配しなくていいよ」
結衣はタコさんウインナーを箸でつまみながら続けた。
「三組にも普通にいるし。こっち来るのは、私が来たくて来てるだけ。あと、外部から来た子が最初しんどいの、まあ分かるし」
「経験者みたいな言い方」
ほのかが突っ込むと、結衣は首を傾げた。
「経験者ではないけど、想像はできるよ。ほら、星女って中等部からのつながり強いじゃん」
「それはまあ、そうかも」
「だから、最初のうちは顔出しといたほうがいいかなって」
言い方は軽いのに、置いてくるものは軽くない。押しつけず、でも手を離しもしない。結衣のそういうところを、シエルは知っている。
卵焼きを一口食べて、目を伏せた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。元が取れてる感じするし」
「何のですか」
「私のシエルポイント」
「ポイント制なんだ!」
ほのかが笑う。つられて、シエルも笑った。
笑いが一段落したところで、朝の話がまた戻ってきた。
「でもさ」
ほのかが、箸の先で卵焼きを指すみたいにしながら言った。
「生徒手帳の件も、地味だけど朝から心折れるよね。事故とかじゃなくても、"ちゃんと学校に辿り着けるか"って大事なんだなって思った」
「うん」
シエルが頷く。
「見つかっただけなのに、あの子、泣きそうでした」
結衣はサラダの蓋を閉めながら言った。
「そういうのも、通学安全のうちかもね」
「え?」
「ほら、"安全"って事故に遭わないとか、不審者に会わないとかだけじゃなくてさ。ちゃんと行ける、ちゃんと着ける、ちゃんと帰れる、みたいな」
その言葉に、教室のざわめきが遠くなる。
ちゃんと行ける。ちゃんとたどり着ける。ちゃんと帰れる。
短い言葉なのに、朝の坂道の景色と、不安そうな顔と、生徒手帳を受け取ったあとの安堵が、その中に全部収まる気がした。
「なるほど」
ほのかが素直に頷く。
「それなら、祈願とかお守りって、ちょっと分かるかも。大奇跡ください、じゃなくて、普通に通したいんだ」
普通に通したい。
その言い方が、シエルには妙にしっくりきた。
祠の前で必要だったのは、異常なものを抑えるための作法だった。けれど、こちら側の毎日にも、別の意味で"通すためのもの"があるのかもしれない。線を引き、道を整え、日常が日常のまま届くようにしておくための、小さな祈り。
午後の授業は、午前よりも穏やかに進んだ。
ノートを取りながら、シエルは何度か窓の外を見た。白い校舎。遠くの空。まだ冷たい春の光。その全部が、特別ではない様相でそこにある。特別ではないからこそ、大事にされるべきものもあるのだと、今日はなんとなく思えた。
放課後。校門を出ると、朝と同じ坂道が待っていた。けれど今は、朝よりずっと柔らかい色をしている。二人で並んで歩き出し、しばらく無言が続く。その無言が苦痛ではないのも、いいことだと思った。
公園の前まで来たところで、シエルがぽつりと言った。
「朝の、あの子の気持ち、分かる気がしました」
「うん?」
「学校に着けないだけで、その日全部だめになる気がする朝って、あるので」
結衣はすぐには返さず、坂の先を見たまま歩幅を合わせた。風が吹いて、木の枝が揺れる。
「あるね」
しばらくしてから、そう言った。
「だから祈るんだと思う。大げさな奇跡じゃなくて、ちゃんと行って、ちゃんと帰れるようにって」
その言葉は、昼休みよりも静かに、深く入ってきた。
ちゃんと行って、ちゃんと帰る。
それだけのことが、前の人生ではずいぶん雑に扱われていた気がする。削られるだけの移動。消耗していくための往復。
けれど今は違う。家から学校へ。学校から家へ。そのあいだを自分の足で行き来できること自体に、意味がある。
「はい」
シエルは頷いた。
夕方、家に戻って制服を整え、机に向かった。配布物を重ね、ノートを置き、生徒手帳を鞄から取り出す。紺色の表紙を指先で撫でたとき、朝の冊子の感触が蘇った。
そのとき、スマホが震えた。
由奈からのメッセージだった。
『今度の小祈願、時間これでおねがい!』
『授与所ちょい忙しいかも』
『通学安全の札も出るよ。あと学業のほうも例年より人来そう』
文面は由奈らしく弾んでいるのに、内容はきちんと実務的だった。シエルは画面を見たまま、静かに息を吐く。
祠の"向こう側"に触れるための手順があるように、こちら側の日常を通すための祈りもあるのだろう。
持ち物ひとつ。
坂道ひとつ。
朝の不安ひとつ。
それら全部に、小さな居場所があるのかもしれない。
シエルはスマホを伏せて、窓の外を見た。星ヶ丘の夕暮れは、今日も静かだった。
明日も学校だ。
そして週末は、神社の表の仕事が待っている。
通う道にも、祈る理由はある。
新作はじめました!
龍になったので会社辞めました ~ヒト化したら美少女で、今は巫女やってます~
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