第44話 選ぶ場所
木曜の朝、家を出ると、春の光が住宅街の坂道を明るく照らしていた。風はやわらかく、朝の冷たい空気を運んでいる。二人で並んで歩きながら、シエルは制服の袖を指先で整える。
「今日は表情判定、どうですか」
不意にそう言うと、結衣が目を瞬かせた。
「お、そっちから来た」
「この前、総合判定って言ってたので」
「じゃあ今日は……かなり良い寄り」
「かなり、って高評価ですね」
シエルは笑った。自分から結衣へこんなふうに返すのは、前なら難しかった気がする。
全部は変わらない。でも、何も変わっていないわけでもない。そういう感じが、今のシエルにはちょうどよかった。
教室に入ると、前の席のほのかが、すかさず振り返った。
「おはよ、シエル!」
「おはよう、ほのか」
「なんか機嫌よさそう」
「"柔らかい"から"機嫌よさそう"に判定変わったの?」
「日替わりだよ」
ほのかは胸を張った。
「で、今日は弓道の日です。しかも伊東も来ます!」
「宣言みたいに言うのね」
「だって今日は大事なんだもん。あの子、昨日の放課後も"やっぱ浮くかな"ってメッセージ送ってきてさ」
「まだ言ってたんだ」
「言ってた。だから、"浮く前に来い"って返しといた」
「雑だなあ」
「雑だけど、たまにはそういう背中の押し方もいるの!」
たしかに、ほのかのそういう勢いに救われることもある。伊東が先日笑えたのも、宮坂の人当たりの良さだけではなく、ほのかの遠慮のなさが場を明るくしたからだ。
「今日は、ほのかも入部届の話する気でしょ?」
シエルが言うと、ほのかは即答した。
「当然!」
そこで担任が入ってきて、朝の話は途切れた。けれど、教室の空気は重くなかった。ノートを開き、授業を受け、いつものように時間が流れていく。その"いつものように"が、前より確かなものになっている。
昼休みは、三人で机を寄せ、各自持参のお弁当箱をかこんでいた。
「伊東だけど、今日こそもうちょい行ける気がするんだよね」
ほのかが卵焼きをつつきながら言った。
「一昨日の帰り際はかなり表情違ってたし」
「たしかに」
結衣が頷く。
「来てよかった、って言えてたし」
火曜の伊東の顔を思い出し、シエルも頷いた。道場の前で、あの子は笑っていた。見学という言葉から、もう一歩先に足をかけた表情だった。
「シエルはどう思う?」
ほのかに聞かれて、シエルは箸を置いた。
「今日は伊東さん、決める方向へ行けるんじゃないかなって」
「おお」
「でも、急がせないほうがいいとも思う」
その言い方に、結衣が一瞬だけ視線を上げた。火曜の帰り道から続いているものを、たぶん結衣も感じ取っている。
放課後になり、教室棟から弓道場へ向かうと、道場の前には、伊東がもう来ていた。一昨日よりは表情がやわらかい。それでも、扉の前で一度立ち止まるあたりに、まだ迷いは残っているようだ。
「こんにちは」
シエルが声をかけると、伊東は振り返った。
「あ、天宮さん。ほのかも……」
ほのかが手を上げる。
「ようこそ弓道の静けさへ!」
「言い方が変」
シエルがすぐに返すと、伊東が笑っていた。
道場に入る前に一礼し、宮坂のもとへ行く。先輩は今日も穏やかで、優し気な声色も変わらない。
「今日も見学だけでも大丈夫だからね。やれそうなら、またゴム弓から」
「はい。お願いします」
伊東はそう答えたが、一昨日のような遠慮気味な硬さはなかった。
礼、足踏み、胴造り。宮坂の指示に従いながら、一年生たちは順に体を整えていく。弓道場の静けさは、強制的な静けさではない。余計なものが自然に落ちていく静けさだ、とシエルは思う。
伊東は、前回よりも体の力みが少なかった。ゴム弓を握る指先も、視線も、前を向いている。宮坂がその変化を見ていた。
「いいね。一昨日より姿勢もよくなって、力みもだいぶ取れてる」
「ほ、本当ですか」
「うん」
伊東の顔が、ぱっと明るくなる。その横で、ほのかが嬉しそうに拳を握った。
「でしょ! 来た甲斐あったよね!」
「相田さん、自分の手柄みたいに言うのね」
宮坂が笑うと、場の空気がまたやわらいだ。
練習が進み、今日は希望者だけ本物の弓の素引きまでやることになった。伊東は一瞬ためらったが、結局「やってみたいです」と言った。
その決断を見て、シエルは自分の言葉を思い出した。見学に来ただけでも前に進んでいる。あれは伊東に向けた言葉だったが、今は自分にも返ってくる。
本物の弓は、見た目以上に存在感がある。伊東はそれを受け取ると、背筋を伸ばし、緊張した面持ちで前に出た。宮坂が後ろから手の位置と肘の向きを整える。
「大丈夫。いきなり綺麗にやろうとしなくていいから」
シエルはその横顔を見ながら、口を開いた。
「またここに来たってことは、それだけでも前に進んでるってことだと思う」
伊東が目を向ける。
「だから、うまくやらなきゃって考えなくても、いいんじゃないかな」
伊東は弓を持ったまま、息をついた。
「うん」
その返事は、ずっと素直だった。
練習が一段落し、水分補給の時間になる。宮坂が一年生たちに向かって自然に言う。
「仮入部は今週でひと区切りにするから、続けたい子は入部届を持ってきてね。もちろん、まだ迷うなら無理に急がなくていいけど」
その言葉を待っていたみたいに、ほのかが即座に手を挙げた。
「私、絶対出す! 今ここで書いてもいいくらいなんだけど」
道場の空気に、笑い声が広がる。
「相田さんらしいなあ」
宮坂が目を細める。
「でも、そのくらい気に入ってもらえたなら嬉しいよ」
ほのかは満面の笑みで頷いた。
「だって、ここ好きだもん。静かだし、頭の中からっぽにできるし」
その勢いの横で、伊東は入部届の言葉に視線を落としていた。決めたい気持ちと、まだ怖い気持ちが両方ある顔だった。
「私は……」
伊東が弓道場の床を見たまま言う。
「もうちょっと、迷ってもいいですか」
「もちろん」
宮坂の返事は即答だった。
「迷いながら続けるのも、全然ありだよ」
それを聞いて、伊東の肩から力が抜ける。
シエルは、その横顔を見ながら言った。
「これからまた迷うことはあると思う。でも、迷えるってことは、それだけ考えたいってことでもあるし」
伊東が顔を上げる。
「意味がありそうとか、楽しそうとか……そう思えたほうを選ぶのも、たぶん悪くないよ」
言ってから、シエルはその言葉の出どころに見当がついた。
前の人生では、迷う時間すら無駄とされ、「どう思う?」と聞きながら、上司は自分の意見以外の答えを許さない。気づけば「他にないから」と言い聞かせて進むことばかりだった。意味がありそうとか、楽しそうとか、そんな曖昧な理由で何かを選ぶ余地は、ほぼなかった。
ある意味、迷えること自体、贅沢だ。
その贅沢が今ここにあるのなら、手を伸ばしてみる理由としては充分なのかもしれない。
伊東はしばらく黙っていたが、やがて口元をゆるめた。
「じゃあ、もう一回来てから決めます」
「うん。それでいいと思う」
宮坂が頷く。
そして、そのままシエルのほうへ視線を向けた。
「天宮さんは?」
心臓の鼓動が一瞬、跳ねた。
ほのかはもう答えを持っている。伊東はまだ迷っている。では自分はどうだろうか。
弓道場は、見学先ではなくなっていた。静かで、怖くなくて、息を置ける場所。学校の中で、自分からまた来たいと思えた場所。
「持って帰って、書いてきます」
答えると、宮坂はやわらかく笑った。
「うん。じゃあこれ、渡しておくね」
差し出された入部届は、紙一枚なのに、思ったより重く感じた。
道場に一礼して外へ出ると、夕暮れの風が頬を撫でる。
ほのかはさっそく鞄の中のプリントを見直しながら、妙に上機嫌だった。
「いやー、決めた決めた。私、絶対向いてると思うんだよね、こういう"静かに激しく燃える系"の部活」
「静かに激しく燃えるって、矛盾してない?」
「してない! 内側で燃えてるの!」
ほのかは自信満々に言ってから、途中の分かれ道で手を振った。
「じゃ、私はこっちだから。来週は"弓道部コンビ"だね!」
「まだ書いてないけどね」
「書くでしょ?」
答える前に、ほのかは笑って駆けていった。ああいう勢いは、たぶん才能だ。
残されたのは結衣と二人だった。
校門を出て、いつもの坂道を並んで歩く。夕陽が住宅街の壁を柔らかく染めていた。
「もらったんだ」
結衣が言う。視線はシエルの手元のクリアファイルに向いていた。中に挟まった入部届が、透けて見えている。
「うん」
「出すの?」
問い方は軽かった。答えを急かす感じではない。
シエルは、ファイル越しに自分の名前欄を見る。まだ空欄のままの紙が、逆に今の自分に似ている気がした。
「うん。出したい」
言った瞬間、自分でもそれが本音だと分かった。
結衣はただ、歩幅を変えないまま笑った。
「いいじゃん。週二だし、弓道部、シエルに似合ってると思うよ」
「そう思います」
そこはまだ敬語だった。けれど、結衣は何も言わない。言わなくてもいい形で受け取ってくれる。
家に帰ると、夕食とお風呂の時間が過ぎ、夜になった。机の上に入部届を置き、シエルはペンを持つ。
星ヶ丘女学院高等学校 弓道部 入部届。
氏名の欄は、まだ空白だった。
そこへ、ゆっくりと記入する。
“天宮シエル”
自分の手で書いたその文字を見て、シエルはふと息を止めた。
学校は通う場所だった。
家は、帰る場所になりつつある。
そして弓道場は――自分で選んだ場所になる。
紙の上の文字は、たったそれだけだ。なのに、そこから先の景色が違って見えた。
居場所は、与えられるだけじゃない。
自分で手を伸ばして、選んでいいものもあるのだと、ようやく思えた。




