第39話 鳴瀬神社――塞ぎ直しの支度
土曜の朝。
目覚ましが鳴る前に起きてしまった。
寝返りを打ったところで、再び微睡みに沈むことは叶いそうになかった。
緊張、というより――予定が現実になる前の、あの感じ……
私は布団の中で一回だけ息を吸って、吐いた。
次に吸い込むまでの短い“間”に、「大丈夫」を置く。
起き上がってカーテンを少し開けると、空がうっすらと白んでいる。晴れでも曇りでもない、判断しにくい明るさだった。
「天気次第、か……」
呟いた瞬間、廊下の向こうから小さな音がした。キッチンで食器が触れる音。誰かが早起きしている。
部屋着のまま階段を降りると、美穂さん――じゃない。
最近、口の中で呼び方を練習している人が、振り返って笑った。
「おはよ。早いね、シエル」
私は一拍置いてから、口を開く。
「……おはようございます。お母さん」
言えた。
胸の奥が、熱いというより、じんわりする。
お母さんは、嬉しさを隠すみたいに目尻に指先をそっと添えてから、わざと普通に言った。
「朝ごはん、準備できたから…」
「はい。……ありがとうございます」
“ありがとうございます”も少し固い気がしたけど、今はそれでいい。
無理に馴染ませようとすると、逆に変になるかもしれないし。
武臣さん――いや、お父さんが新聞を畳みながらこちらを見た。
「寝不足か」
「大丈夫です。……少し、早く目が覚めただけです」
「ならいい。だが無理するな」
言い方はいつも通り短いのに、線は太い。
私は頷いて、いただきますを言った。
結衣は、私の向かいでご飯を頬張りながら、スマホで天気予報のサイトをはしごしていた。
「降るか降らないか、微妙」
「微妙って言うと、降りそう…」
「やめて!」
結衣の返しが早くて、少しだけ笑ってしまった。
笑えるなら、たぶん今日も大丈夫だ。
鳴瀬神社へは、管理用の道から車で入る。
参道のにぎわいとは別の、静けさに繋がる道だ。
車内で私は、目を閉じてもう一度、深呼吸をした。
学校での黒髪黒目は、“制服”みたいに纏っているけれど――今日は違う。
ただ、鳴瀬神社では「黒髪に染めて、黒目のカラコン」扱いになっている。
だから見られる可能性がある場所では、黒にしておく必要がある。
私は、車が境内の裏手に近づくタイミングで、息を置いて“黒”を定着させた。
目の端が少しだけ滲む。負荷はゼロじゃない。
(長時間は、まだ無理……)
でも、今日は準備だけ。うまく配分すれば、負担は少ないはず。
「シエル、今、切り替えた?」
結衣が小声で聞く。
「うん」
「辛くなったら、すぐ言って」
私はもう一度だけ頷いた。
社務所の裏手で車を降りると、森の匂いが濃く感じられた。
湿った土と、杉の木と、冷たい陰影。
宗一さんはもう来ていた。
作業着の上に羽織を引っかけて、手袋を外しながらこちらへ歩いてくる。
「来たな。……武臣さん、結衣。シエルも」
「おう」
「おはよう、宗一伯父さん」
宗一さんは頷いてから、私の顔を一瞬だけ見て、目線を外した。
“黒”を確認した、というより――負荷を見た、みたいな目だった。
「今日は、道具の準備が主だ。天気が持てば、祠まで行って“当たり”をつける」
「当たり?」
私が聞き返すと、宗一さんは短く言い直した。
「気配の位置だ。引っ張りが来る場所、強さ。……それを確認する」
分かりやすい。
私は息を吸って、吐いて、覚える。
社務所の一角の引き出しから、宗一さんが包みを取り出した。
和紙。墨。筆。小さな硯。細い麻紐。白い布。
そして、薄い板に挟まれた、札の束。
「これが“返し札”の下地。今日は書く直前まで作る」
「書くのは……名を拾ってから?」
結衣が言うと、宗一さんは頷いた。
「そうだ。名がないものに“戻れ”だけ書いても、届きにくい。矛先が散る」
矛先――
言葉が物騒なのに、宗一さんが言うと作業の話に聞こえる。
そのとき、机の下から「にゃ」と声がした。
白い猫が、ぬるっと現れて、何の遠慮もなく畳の上に座った。
目つきは眠そうで、態度は堂々としていた。
そしてそのまま、机の脚に頬をこすりつけている。
「あ、雪!」
結衣の声が弾む。
「お前、今日はこっちか」
武臣さんが言うと、雪は「にゃ」とだけ返した。
雑な返事。なのに、妙に安心する。
私は雪の背中に指先で触れた。温かい。
“名のある”手触り。
(名があるということ……)
呼べば振り向く。
呼ばれたら、返事をする。
こちら側のルールに乗っている重さ。
宗一さんは、雪を追い出さないまま作業を続けた。
紙を揃え、紐を切り、布を折り、札の束を整える。ひとつひとつの動作が無駄なく静かだった。
「シエル。紙に触れていい。ただし、息が乱れたら手を止めるように」
「はい」
「結衣は、紐を結ぶ。武臣さんは、明日、墨の濃さの確認をお願いしたい」
「俺か」
「武臣さんのほうが、目がいい」
宗一さんが真顔で言うと、お父さんは一瞬だけ黙ってから「分かった」と返した。褒められたのか判断しにくいけど、たぶん褒めている。
作業は淡々と進んでいった。
けれど、淡々としているからこそ、頭の隅に“祠”の存在が残る。
四角い窓。意味の分からない文字列。警告の気配。
あれを、今日は“こちら側の手順”で扱うことになる。
昼前。外の明るさはまだ白いままだった。
雨は降っていない。でも、降りそうでもある。
「……行くなら今だな」
宗一さんが言った。
私たちは必要なものだけ持って、裏手の道を歩いた。
参拝者の導線から外れた、管理用の通路。
足元は落ち葉が薄く積もっていて、踏む音が心地よい。
祠は、そこに“ある”というより、“そこが境目だから置かれている”みたいに見える。小さくて古い。けれど、軽くはない。
「ここでは、黒を無理に維持しなくていい」
宗一さんが言った。
私は一瞬迷った。
でも、ここにいるのは、《《知っている》》人たちだけだ。
息を置き、黒を解いていく。
銀が戻るのが自分でも分かる。視界が少しだけ澄む。
「……楽」
つい本音が漏れた。
「でしょ」
結衣が小さく笑う。
宗一さんは祠の前で膝をつき、異常がないか地面の様子を確かめた。
「今日は“塞ぐ”まではやらない。まずは“拾う”」
拾う。名を拾う。
言葉にすると簡単なのに、実行するとなると怖い。
私は祠の前に立った。
手は下ろしたまま。目は閉じない。閉じると、引っ張りが強くなる気がする。
息を吸って、吐く。
次の吸い込みまでの“間”に、意識を置く。
――静かだ。
風が鳴らない。
鳥も鳴かない。
森が、一瞬だけ息を止めたみたいに感じる。
その瞬間、視界の端に“四角”が浮かんだ。
光ってはいない。
でも、四角い枠だけが、そこだけ別の世界の輪郭みたいに在る。
胸の奥がひゅっと冷える。
引っ張りが来る。
(……息)
私は息を置いた。
置いて、置いて、置き続ける。
すると、四角の中に、意味の分からない文字列が一瞬だけ走った。
読めない。理解できない。
でも、その中にひとつだけ、形が“分かる”ものが混じっていた。
丸い、ゼロみたいな――空白みたいな形。
「……っ」
声にならない声が喉に引っかかる。
宗一さんが低い声で言った。
「シエル。無理に追うな。形だけでいい」
私は頷いた。
追わない。掴まない。ただ、形を“拾う”。
「丸い、空欄みたいな……」
「音は?」
結衣が小さく聞く。
私はもう一度、息を置いた。
さっきの四角が、まだ残っている気がする。
そして、文字列の奥から、ひとつだけ“音”が浮いてきた。
はっきりした言葉じゃない。
でも、舌に触れる。
「……ぬ」
言った瞬間、四角がスッと引いた。
森が、また息を吹き返す…
私はその場で膝をつきそうになって、踏ん張った。
結衣の手が、私の肘を軽く支える。押さえつけない、確認の触れ方。
「大丈夫?」
「うん。引っ張りは、切れた」
宗一さんが頷いて、メモ帳を取り出し、鉛筆で短く書きこんだ。
「“ぬ”。形は空欄。……よし」
「それだけで?」
私が聞くと、宗一さんは即答した。
「十分だ。名は、最初から“全部”は拾えない。拾える分だけ拾う」
その言い方が、少しだけ優しかった。
お父さんが、祠に視線を向けて言う。
「今日はこれで戻るか」
宗一さんは空を見てから、短く頷いた。
「雨の匂いが近い。無理はしない。……準備は進んだ。次で行ける」
“行ける”
その言葉に、怖さと一緒に、ちゃんと“前に進む感じ”が混じっている。
私はもう一度だけ祠を見る。
名のないものは、まだいる。
でも――今は“ぬ”という、取っかかりがある。
ほんの一音。
それだけで、矛先が一本になる気がした。
帰り道、雪がいつの間にか後ろをついてきていた。
落ち葉を踏む音も立てずに、白い影みたいに歩いている。
「雪、ついてきてるの、かわいい!」
結衣が小声で言う。
「こいつは気分屋だ」
武臣さんが言って、雪は「にゃ」と雑に返した。
私は、少しだけ笑った。
作業場に戻ると、宗一さんはさっきのメモを机の上に置き、札の束を見下ろした。
「“ぬ”を軸にする。空欄の形も使う。――次は、筆にのせ、書く」
言い切ってから、私を見た。
「シエル。今日はよく拾った。……今夜はよく休め」
「……はい」
“休め”が、命令じゃなくて、手順の一部みたいに聞こえた。
私は息を吸って、吐いた。
次の吸い込みまでの“間”に、今日の出来事をそっと入れる。
ぬ。
空欄。
四角い窓。
怖い。
でも、手順がある。
帰り際、私はもう一度だけ、祠の方角に視線をむけた。
あそこにはまだ、名のないものがいる。
でも、今は――
名を拾える側に、私たちが立っている。
それが、少しだけ心強かった。




