第38話 「ほどほど」の段取り
金曜の朝。
前日の朝ほどの緊張感は、ないはずなのに…
祠の前で社伝を開いて聞いた“手順”。
あとは週末の「塞ぎ直し」の準備――そう頭では分かっている。
なのに……
階段を降りる途中で、胸の奥が少しだけ、きゅっと鳴った。
昨日の夜のことを思い出したからだ。
テーブルの上のケーキ。甘い匂い。
それから、私が口にしたことば。
(……お父さん。お母さん)
言えた。確かに言えた。
でも、それは“言った”というより、どこかに落としてしまったみたいな感覚に近い。拾い直すのが怖いのに、拾い直したい。
キッチンから、フライパンの音がした。
美穂さん――じゃない。今は……
「おはよう。シエル」
振り向いた美穂さんが、いつも通りの笑顔で言う。
その笑顔に、昨日の涙ぐんだ目の色が少しだけ重なって、私は一瞬だけ呼吸を置いた。
「おはようございます……お母さん」
声が、昨日よりちゃんと出た。
自分でも驚くくらい、普通の声色だった。
美穂さん――お母さんが、目を瞬かせてから、ふっと笑う。
「うん。おはよう」
それだけ。
大げさに抱きしめたりもしない。号泣もしない。
でも、その“それだけ”が、胸の奥にゆっくり染みこんでいく。
背中のほうで咳払いがひとつ。
「……おはよう。朝食、食べなさい」
武臣さん――いや。
「……お父さん。はい、いただきます」
言うと、武臣さんはほんの少しだけ、顎を引いた。
照れを隠すみたいに、味噌汁の椀を持ち上げる。
そして、廊下の端から咲さんがぬっと顔を出した。
「おはよー。今日も可愛いね、シエル。……ところで」
目が、妙にきらきらしている。
「“お姉ちゃん”は?」
「朝から圧が凄い……」
結衣の声が、同じタイミングで背後から降ってきた。
私は椅子に座って、味噌汁を一口飲んだ。
温かい。塩気がほどよくて、胃が落ち着く。
(……祠の前じゃなくても、息を置ける)
昨日のケーキのときと同じことを思って、少しだけ可笑しくなった。
家を出るころには、黒髪。黒に近いこげ茶の瞳。
息を吸って、吐いて、その“間”に自分を置く。
定着させる。今日も大丈夫。
教室に入ると、前の席がすぐ振り返った。
「おはよ、シエル!」
ほのかの笑顔は、朝の光みたいに分かりやすい。
「おはよう、ほのか」
「昨日さ、神社の用事って言ってたじゃん。どうだった? ……って聞きたいけど、聞かないほうがいいやつ?」
言いながら、自分で言って、自分で引く。
その気遣いが、彼女の優しさだと思う。
「大丈夫。……ちゃんと、手順通りに進んだから」
「手順。なんか職人みたい」
「職人じゃないです」
「でも、いいじゃん。手順があるの分かりやすそう」
ほのかはそれだけ言って、ノートを開いた。
深入りしないまま、肯定だけを置いていく。
そういう普通の距離感が、今の私には本当に助かる。
休み時間、結衣が廊下から手を振ってきた。
「シエル、ほのか。おはよ」
「結衣ー」
ほのかが軽く手を振り返しながら、私の顔を覗き込む。
「ねえ、結衣。今日のシエル、なんか落ち着いてる」
「うん。私もそう思う」
結衣はさらっと言って、私の肩に指先を軽く置いた。
押さえつけない、確認する触れ方。
「無理してない?」
「……してないです。たぶん」
「“たぶん”が出るなら、今日も合格」
「合格って何の……」
ぼやくと、結衣が笑った。
それだけで、胸の奥の糸が少しだけ緩む。
昼休みは、三人で一緒に食べた。
ほのかの話題は、弓道の見学のことと、提出が終わった“好きな場所紹介文”の先生コメントのこと。
「先生さー、私の発表に『声が大きくてよい』って書いててさ。褒めてるんだろうけど、雑じゃない?」
「ほのかの声、大きいもんね」
「結衣、ほめてる?」
「褒めてる褒めてる」
いつもの調子だ。
その“いつもの”に混ぜこむように、結衣が小声で言った。
「週末のこと、宗一伯父さんから連絡来ると思う。たぶん今日…」
ほのかの前では、単語を選ぶ。
結衣はそれが上手い。私も、それに合わせる。
「……うん」
ほのかは卵焼きを口に運びながら、にやっとした。
「週末も神社案件?」
「まあ、そんな感じ」
「いいなー。私、週末は家の片付けだよ。私の現実はつらい」
「現実、大事!」
結衣が言うと、ほのかが肩を落とすふりをする。
「結衣ってさ、さらっと強者ムーブするよね」
「だって現実からは、逃げられないから」
「うわ、名言っぽい」
笑いながら、私は弁当箱の端を指で押さえた。
“現実”。
その言葉は、前の人生の記憶を少しだけ連れてくる。
プレゼンは得意だった。
でも、得意であることが“仕事を増やす理由”にされた職場の空気も、覚えている。
(……今は違う)
胸の奥で、そっと言い直す。
ここは、逃げ場がある。
結衣が、逃げ道を置いてくれる。
ほのかが、適度な距離感で笑ってくれる。
だから、私はまだ“こちら側”にいられる。
放課後。
見学と仮入部期間の弓道場には、今日も人がいる。
ほのかが帰り支度をしながら言った。
「ね、シエル。今日、ちょっとだけ弓道場寄らない? ほんの十分でいいから」
“ほんの十分” その言い方が、上手い…
私は少し迷って、頷いた。
「……うん。少しだけ」
「やった」
廊下で待っていた結衣は、私たちを見るなり、状況を理解した顔をする。
「弓道、ちょい寄り?」
「ちょい寄り!」
ほのかが即答する。
「いいじゃん。私、先に帰ってる。宗一伯父さんから連絡来たら共有するね」
「ありがとう」
「ほどほどにね」
結衣は言い残して、手を振って行った。
弓道場の空気は、やっぱり静かだ。
音が落ちる。匂いが落ち着く。
私の中の“糸”が、ここでは少しだけ絡まりにくい。
ほのかが的のほうを見ながら、小声で言う。
「私さ、こういう静かな場所って、意外と好きなんだよね。うるさいのも好きだけど」
「ほのか、うるさいのも好きなんですね!」
「だから、静かなのがありがたいときもある」
その言葉に、私は小さく頷いた。
(……息を置ける静けさ)
祠の前で覚えた言葉が、別の形で繋がっていく。
帰宅すると、スマホが震えた。
宗一さんからのメッセージ。
『週末の午前。天気次第だが当日に実行する。来られるか?』
短い。段取りだけ。
でも、昨日までより現実に近づいた。
私は返信を打つ。
『行けます。無理はしません』
送信して、息をひとつ置く。
そのタイミングで、廊下の先から咲さんが顔を出した。
「シエルー。今日さ、夕飯のあと時間ある? ちょっと話したいことがあるの」
「……はい」
「“お姉ちゃん”の件で」
「そこなんですか……!」
言い返した声が、思ったより強くて、自分で驚いた。
咲さんは楽しそうに笑う。
キッチンのほうから、お母さんの声。
「二人とも、手洗ってー。今日は簡単にするよ」
リビングでは、お父さんが新聞を畳んでいる。
視線が一度だけこちらに来て、すぐ外れた。
でも、その一度が「いるぞ」という自己主張みたいで、私は少しだけ安心した。
黒髪黒目のままの一日が終わる。
その“維持”は、今日もちゃんとできたが疲れる。
でも、帰る場所があるから疲れは、嫌いじゃない。
食卓に座る前、私は小さく息を吸って、吐いた。
次に吸い込むまでの“間”に、言葉を置く。
「……咲、お姉ちゃん」
自分でも、反射みたいに出た言葉だった。
咲さんが、固まって――次の瞬間、両手で口を押さえた。
「ちょ、待って。今の、録画したい」
「しないでください……!」
お母さんが笑って、お父さんが咳払いで誤魔化した。
――こういう圧のかけ方をするんだ。家族って。
優しいのに、逃げ道も残してくれる。
だから、私は応えたくなる。
週末の準備は、きっと楽じゃない。
境目は怖い。名のないものは、まだいる。
でも……
手順がある。
“ほどほど”がある。
呼べる名前が、少しずつ増えていく。
私は箸を取って、もう一度言った。
「いただきます。……お父さん、お母さん」
今度は、昨日より少しだけ、胸の奥の熱がやわらかかった。




