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九話 青磁色の贈り物



朝の光が、裴家の東門を明るく照らしていた。

雲一つない淡青色の空に、春の陽が穏やかに昇っている。

門前に植えられた柳の若葉は、光を透かして淡く輝き、乾いた風が通るたび、細長い影を石畳の上へ揺らしていた。

重い門扉が開かれた時、一台の馬車が静かに屋敷の前へ止まった。


濃い木色の車体には、細い銀の飾りが施されている。磨かれた車輪が朝日を受け、僅かに光った。

馬車から降りた従者は、灰色の衣を隙なく整えた青年だった。

腕には、濃い紫檀で作られた大きな箱を抱えている。


「裴春華様へ、お届け物にございます」


門番は青年の腕にある箱へ目を向けた。

未婚の令嬢へ届けられるには、随分と立派な品に見える。


「どちら様からでしょうか」


従者は丁寧に頭を下げた。


龍清遠リュウ・セイエン様より、お預かりしております」


     ◇◇


大きな衣箱は、裴春華ハイ・シュンカの部屋へ運び込まれた。

濃い紫檀の蓋には、花をかたどった銀の留め金がついている。

箱そのものから、丁寧に磨かれた木のほのかな香りが漂っていた。

春華の部屋には、窓から柔らかな朝日が差し込んでいる。


外では青々とした若葉が風に揺れ、小鳥たちが高い枝の間を飛び交っていた。

窓辺には、白い花が活けられている。

昨日、南市の石畳へ散らばったものを、春華がすべて買い取った花だった。


花弁の端が欠けているもの。

茎が僅かに折れ曲がったもの。


それでも一晩水を吸った花々は、昨日よりも瑞々しく開き、明るい室内へ淡い香りを漂わせていた。


「お嬢様。お開けになりますか?」


傍らへ控えていた侍女が尋ねる。

春華は箱の前へ立ったまま、暫く答えなかった。

淡い若草色の衣をまとい、艶やかな黒髪を白玉の簪で緩やかにまとめている。


華やかな装飾はない。

けれど、伏せられた長い睫毛や、静かに重ねられた白い指には、着飾った令嬢とは異なる柔らかな美しさがあった。


清遠から贈り物が届くとは、聞いていない。

昨日別れる時にも、そのような話は何もなかった。


「……開けましょう」


春華は箱の前へ膝をつき、銀の留め金へ指を掛けた。

小さな音を立て、金具が外れる。

蓋を持ち上げると、中には白い薄紙が何枚も重ねられていた。

春華は破らないよう、一枚ずつ丁寧に取り除いていく。


最後の薄紙が開かれた瞬間。


朝の光を含んだような、淡い青磁色が姿を現した。

箱の中には、春に羽織るための新しい衣が収められていた。


青とも緑ともつかない、静かな色。


晴れた空を映した湖のように、光の当たり方によって僅かに色合いを変えている。

襟元には銀糸で細い蔓草が縫われ、袖口には小さな白い花が幾つも刺繍されていた。


裾へ近づくにつれ、花の数は少しずつ増えている。

それでも、決して華美ではない。

近くへ寄り、目を凝らして初めて、細かな針仕事の美しさへ気づくような意匠だった。


「まあ……」


侍女が感嘆の声を漏らす。


「お嬢様に、とてもお似合いです」


春華はすぐには答えなかった。

ただ、白い花の刺繍を見つめる。

その視線が、ふいに窓辺に活けられた花へ移った。


昨日、石畳へ散らばっていた花。


清遠も黙って腰を屈め、一緒に拾ってくれた白い花によく似ている。

箱の隅には、折り畳まれた書状が添えられていた。

春華は静かに封を開く。

癖のない端正な文字が、簡潔に並んでいた。


――昨日は、私との外出中に御衣を汚されました。


――代わりとして、こちらをお納めください。


――お好みに合えば幸いです。


文は、それだけだった。

親しげな言葉も。

余計な飾りもない。


けれど箱の中の衣は、春華の好みを知らなければ選べないものだった。

春華の指先が、最後の一文の上で僅かに止まる。


「清遠様のせいで汚れたわけではないのに……」


困ったように呟いた。

それでも、書状をすぐに畳むことができない。

侍女は何も言わず、僅かに口元を緩めていた。

春華が気づき、顔を上げる。


「その顔は何?」


「何でもございません」


「何でもない顔には見えないわ」


「お嬢様が、このように贈り物を見つめていらっしゃるのは珍しいと思いまして」


春華は慌てたように書状を畳んだ。


「叔母上にも、ご相談しなくてはなりません。私一人で受け取ると決めるわけにはいかないでしょう」


「かしこまりました」


侍女が箱の蓋へ手を掛ける。

閉じられていく青磁色の衣を見つめながら、春華はなぜか少しだけ名残惜しさを覚えた。


     ◇◇


朝餉を終えたあと。


叔母と春華、裴星揺ハイ・セイヨウ陸鈴花リク・リンカは、庭へ面した居間で茶を飲んでいた。

開け放たれた窓から、暖かな春の風が入り込んでくる。

庭では、淡い桃色の花びらが一枚ずつ枝を離れ、陽光の中をゆっくりと舞っていた。

星揺は卓の上の菓子へ手を伸ばしながら、叔母と春華の会話を聞いている。


「朝方、あなた宛に随分と立派な箱が届いたそうね」


叔母が尋ねる。

春華が僅かに姿勢を正した。


「はい」


「どなたから?」


答えるまでに、一瞬の間があった。


「龍清遠様という方からです」


星揺の手が、菓子の上で止まった。

その名は知らない。

けれど、春華の頬へ浮かんだ僅かな赤みを見れば、誰のことかはすぐに分かった。


「もしかして、昨日ご一緒だった方?」


春華が星揺を見る。


「どうして、あなたが昨日のことを知っているの?」


星揺の表情が固まった。

隣に座っていた鈴花は、静かに茶碗へ視線を落とす。

春華の目が、二人の間を行き来した。


「鈴花も知っているのね」


鈴花は観念したように茶碗を置いた。


「昨日、南市で偶然お見かけしました」


「偶然?」


春華は穏やかに聞き返す。

星揺と鈴花は顔を見合わせた。


「最初は、本当に偶然だったの」


星揺が答える。


「最初は?」


「姉上が男の方と歩いているのが見えて、それで……少しだけ」


「少しだけ、何をしたの?」


「後を……」


星揺の声が小さくなる。

春華は目を瞬いた。

叔母は額へ指を当てる。


「あなたたち、春華の後をつけたの?」


「私は止めました」


鈴花が答えた。


「ですが、星揺を一人で行かせる方が危険だと思いまして……」


「鈴花まで一緒にいたから、安心だったわ」


「実際には、二人揃って道に迷ったでしょ」


「迷ったの?」


春華がさらに驚く。

星揺は口を閉じた。

鈴花も僅かに視線を伏せる。


叔母のため息が、居間へ静かに落ちた。


「どうして布を選びに出ただけで、迷子になって帰ってくるのかしら」


「迷子ではないわ。帰る道が少し分からなくなっただけよ」


「それを迷子と言うのです」


叔母はきっぱりと言った。

春華は暫く二人を見つめたあと、小さく息を吐く。

怒っているというより、困っているようだった。


「私が何も話さなかったから、気になったのね」


「だって、姉上に好きな方がいるなんて知らなかったもの」


「好きな方ではありません」


春華の頬へ、僅かに赤みが差した。

星揺は、それを見逃さなかった。


「でも、嫌いではないでしょ?」


「星揺」


「それで、清遠様は良い方なの?」


今しがた聞いたばかりの名を、星揺は確かめるように口にする。


「どうして、そんな聞き方をするの?」


「姉上を大切にしてくれる方か知りたいから」


春華は一瞬、言葉を失った。

星揺の顔に、からかうような色はない。

本当に、姉の幸せだけを心配していた。


「まだ、二度お会いしただけよ」


春華は静かに答えた。

鈴花が叔母を見る。


「贈り物は、どんなものだったのですか?」


「衣です」


「衣?」


星揺の目が輝く。


「姉上に?」


「ほかに誰が着るの?」


「どのような衣なの?」


「星揺」


叔母が嗜めるように名を呼んだ。


「贈り物の中身を見物するために、春華の部屋へ押しかけてはだめよ」


「まだ行くとは言ってないわ」


行くつもりだったらしい。

叔母は春華へ向き直る。


「相手の方からいただいた品なら、私も一度中身を確認しておきましょう。未婚の娘が高価な贈り物を、家の者へ知らせず受け取るわけにはいかないわ」


「はい」


春華が侍女へ目を向けた。

衣箱は、春華の部屋から居間へ運ばれることになった。

暫くして、紫檀の箱が卓の近くへ置かれる。

叔母が見守る中、春華がもう一度蓋を開いた。


青磁色の衣が姿を現した瞬間。

星揺は思わず身を乗り出した。


「綺麗……」


鈴花も、静かに目を細める。


「春華姉様に、とても似合いそう」


鈴花は刺繍へ触れないよう、少しだけ身を寄せた。


青磁色も。

控えめな銀糸も。

白い小花も。


すべて、春華が普段選ぶものに近かった。


「清遠様は、春華姉様のお好みをよく見ていらしたのね」


春華の指先が、袖口へそっと伸びる。

布へ触れる寸前で、止まった。


「まだ、二度しかお会いしていないのよ」


「二度しか会っていないのに、姉上に似合う色が分かるの?」


星揺が尋ねる。

春華は返事に困ったように、目を伏せた。

叔母は衣と添えられた書状を確認してから、穏やかに口を開く。


「今回は、昨日のことへのお詫びの品として受け取ってもいいわ」


春華が顔を上げた。


「よろしいのですか?」


「ただし、きちんと礼状を送りなさい。そして次からは、このように高価な品を贈らないようお伝えするのよ」


「はい」


星揺は箱の中を見つめながら、嬉しそうに笑った。


「それで、どこで出会ったの?」


春華は星揺を見る。


「清遠様からお声をかけられたの?それとも、姉上が助けたの?」


「どうして、私が助けたと思うの?」


春華が少し驚いたように笑う。


「姉上だから」


星揺は当然のように答えた。

鈴花も小さく頷く。


春華は星揺と鈴花を見つめた。

やがて青磁色の衣へ一度目を落とし、ゆっくりと話し始める。


     ◇◇


それは、3日前のことだった。


春華は侍女を一人伴い、王都の西外れにある小さな寺を訪れていた。

寺には、身寄りのない老人や、親を亡くした子どもたちが身を寄せている。

裴家では季節が変わるたび、着なくなった衣や薬、保存の利く食べ物をまとめて届けていた。


その日も春華は、春物の衣と乾燥させた薬草を寺へ預け、子どもたちの顔を見てから帰路についた。

空はよく晴れていた。

街道の両側では、芽吹いたばかりの草が陽光を受けて輝いている。


乾いた土と若草の匂いに、遠くの畑から流れてくる菜の花の香りが混じっていた。

馬車が小さな林を抜けたところで、御者が手綱を引く。


「お嬢様。前方に、止まっている馬車がございます」


春華は窓の布を指先で持ち上げた。

道の先に、一台の馬車が止まっていた。

片方の車輪が不自然に傾き、車軸から外れかけている。

道端には、足を痛めたらしい従者が座り込んでいた。


その傍らには、深い灰色の笠を被った青年が立っている。

広いつばが春の日差しを遮り、その顔へ濃い影を落としていた。


淡い灰色の衣。


細身に見えるが、衣の下には鍛えられた身体があることを感じさせる、隙のない立ち姿。

長い黒髪は銀の冠で整えられ、笠の下へ美しく収められている。


春華の馬車が止まると、青年が静かに振り返った。

笠の影から、涼やかな黒い瞳が覗く。

陽の光をほとんど受けていない肌は白く、整った顔立ちには、人を気軽に寄せつけない静けさがあった。


その青年こそ、清遠だった。

春華は御者へ馬車を止めるよう告げる。


「お怪我をなさったのですか?」


見知らぬ男へ不用意に近づくことはせず、侍女と共に少し離れた場所から、座り込んでいる従者の様子を見た。

従者の足首には、白い布が巻かれている。


「大したことではございません」


従者はそう言い、立ち上がろうとした。

だが地面へ足をつけた瞬間、僅かに顔を歪める。


「無理をなさらない方がよいと思います」


春華が声をかけた。

清遠は、傾いた馬車へ一度目を向ける。


「近くの町へ使いを出しました。修理の者が来るまで、少し時間がかかるでしょう」


春華は馬車と従者を見比べた。

それから、自分が乗ってきた馬車へ視線を戻す。

迷ったのは、ほんの一瞬だった。


「私どもの馬車をお使いください」


清遠の黒い瞳が、春華へ向いた。


「私たちが?」


「お怪我をされた方を、先に医館へお連れした方がよいでしょう」


「では、あなた方はどうなさるのですか」


「先ほどの寺へ戻れば、別の馬車をお借りできます」


清遠は、春華が来た道を見る。

寺の屋根は、林の向こうに隠れていた。


「ここからでは、歩けば時間がかかります」


「怪我をした方を歩かせるよりはよいと思います」


春華は穏やかに答えた。

まるで、それ以外の選択肢など初めからないように。

清遠は、暫く春華を見つめた。


上質な衣をまとった、武門の令嬢。


普通なら、見知らぬ男とその従者のために、自分の馬車を譲ることなどしない。


近くの町へ使いを出す。

修理の者が来るまで、護衛を残す。


それだけでも、十分に親切だ。



「見ず知らずの者へ、馬車をお貸しになるのですか」



清遠が尋ねた。

春華は少し不思議そうに首を傾げる。



「お困りなのでしょう?」


それだけだった。

相手の家名も、身分も。


返礼ができる人物かどうかも尋ねない。

春華にとって大切なのは、目の前に怪我をした者がいるということだけだった。


清遠は僅かに頭を下げる。


「ご厚意に甘えさせていただきます」


怪我をした従者が、春華の馬車へ乗せられた。

清遠も付き添うため、笠のつばを僅かに下げ、馬車へ足を掛ける。


けれど乗り込む直前に、もう一度振り返った。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


春華は少し迷った。

それでも、相手に馬車を貸しておきながら名を伏せるのも不自然だと思ったのだろう。


「裴春華と申します」


裴家の長女。


その名を聞いても、清遠は驚かなかった。

初めから知っていたからだ。

春華が月に一度、寺へ品を届けていることも。

その帰りには、大勢の護衛を連れないことも。

困っている者を見つければ、素通りできない性格であることも。


すべて調べたうえで、清遠はこの道を選んでいた。


馬車の故障は、偶然ではない。

従者の足首へ巻かれた布の下にも、傷などなかった。

龍玄烈リュウ・ゲンレツから命じられた任務。


星揺が、龍昊然にとって利用できる存在なのか。

それを探るため、まず姉である春華へ近づき、信頼を得る。


この出会いは、そのために作られたものだった。

馬車へ乗り込んだ清遠は、窓の隙間から春華を見る。

春華は遠ざかる馬車を見送ったあと、侍女と共に寺へ続く道を歩き始めた。

木々の間から差し込む光が、春華の横顔を柔らかく照らしている。


綺麗な娘だ。


清遠が最初に思ったのは、それだけだった。

穏やかで、品があり、情に弱い。

信頼を得るまで、それほど時間はかからないだろう。


     ◇◇


最初の出会いから、昨日。


清遠は、借りた馬車の礼をしたいと使いを寄越し、春華を南市へ招いた。


春華は一度、断っている。

怪我をした従者が無事なら、それで十分だと返事をした。


けれど清遠は、


――何もお返ししないままでは、私の気が済みません。


と、もう一度だけ書状を送った。

あまり断り続けるのも、かえって失礼になる。

そう考えた春華は、侍女を伴うことを条件に、南市で会うことを承諾した。


待ち合わせの場所へ現れた清遠は、日除笠を被り立っていた。

笠の影が昼の光を遮り、淡い灰色の衣も、白い肌も、周囲の賑わいから切り離されたように静かに見える。


清遠が用意していたのは、淡い緑色の玉へ銀の細工を施した髪飾りだった。

木箱を開けば、玉は水を含んだ若葉のような光を放った。


若い令嬢なら、喜んで受け取る。

清遠はそう考えていた。

けれど春華は、中身を見た途端に静かに首を横へ振った。


「このように高価な品は、いただけません」


「馬車を貸していただいた礼です」


「私がしたかったから、そうしただけです」


「それでは、私の気が済みません」


清遠が答えると、春華は困ったように目を伏せた。

暫く考えたあと、顔を上げる。


「では、何か一つだけ、私に選ばせていただいてもよろしいですか?」


清遠は頷いた。

春華が選んだのは、髪飾りではなかった。

古い書物を扱う店の片隅へ置かれていた、薄い詩集だった。


髪飾りの何十分の一の値にもならない。

深緑色の表紙は少し色褪せ、頁の角も丸くなっている。


「本当に、これだけでよいのですか」


清遠は尋ねた。

春華は詩集を両手で持ち、嬉しそうに目を細めた。


「以前から探していたのです」


「新しいものを取り寄せることもできます」


「これがよいのです」


春華は古い表紙を、指先でそっと撫でた。


「前に持っていた方が、大切に読まれたのでしょう。頁の端に、幾つか小さな書き込みがあります」


他人が読んだ古い本。

清遠には、高価な髪飾りより価値があるようには思えなかった。

けれど春華は、宝物を見つけたような顔をしていた。


「物は、高価であれば嬉しいというものではありません」


春華は清遠を見る。

その眼差しは穏やかで、何の疑いもない。


「探していたものを一緒に見つけてくださった。そのお気持ちが嬉しいのです」


清遠は、すぐに言葉を返せなかった。

自分は、春華がこの詩集を探していたことなど知らない。


偶然、彼女の目へ留まっただけだ。


それでも春華は、清遠の中にあるはずのない善意を見つけ、それを受け取った。

清遠は、その清らかさを愚かだと思った。


人を簡単に信じる者は、いつか必ず利用される。

実際に自分が今、そうしている。


それなのに。


嬉しそうに詩集を胸へ抱く春華を見ていると、胸の奥が僅かに落ち着かなくなった。


その後、二人は南市を歩いた。


道へ花を散らした老人を春華が助け、衣の裾を汚したのは、その帰りだった。

春華は衣が汚れたことを気にしていなかった。

けれど清遠は、別れたあとも、石畳へ膝をついた春華の姿を思い出していた。


白い花を拾う細い指。

老人の傷へ布を巻く時の、真剣な横顔。


――傷がついても、花は花ですから。


清遠の袖には、拾った花が一輪ついていた。

屋敷へ戻ったあとも、彼はその花を捨てることができなかった。


     ◇◇


「では、昨日が二度目だったのね」


春華の話を聞き終え、鈴花が言った。


「ええ」


春華は頷く。


「本当に、まだ二度お会いしただけなの」


星揺は、箱の中に収められた衣を見た。


「二度しか会っていないのに、姉上にこれほど似合うものを選んだの?」


「だから、困っているのよ」


春華はそう答えたものの、声には本気で迷惑がっている響きはなかった。

鈴花は衣の袖口へ視線を落とす。


「清遠様は、昨日の春華姉様をよく見ていらしたのでしょうね」


「衣が汚れたことまで、私は忘れていたのに」


春華の指が、膝の上でそっと重なる。


「それに、あの白い花まで覚えていらしたのかしら」


星揺は、ますます嬉しそうに笑った。


「やっぱり、姉上をお好きなのよ」


「星揺」


「だって、そうでなければ、ここまで考えて衣を選ばないでしょう?」


春華は返事をせず、窓辺の花へ目を向けた。

陽光を受け、白い花弁が静かに揺れている。

昨日、清遠も同じ花を拾っていた。

長い指で花を扱う姿が、春華の脳裏へ蘇る。


表情はほとんど変わらなかった。

それでも老人を置いて立ち去ることはせず、最後まで花を拾ってくれた。


良い方なのだと思う。

春華は、そう信じていた。


「清遠様が龍家でどのようなお立場の方なのかも、いずれ確認しないいけないわね」


叔母が言った。

春華の表情が僅かに固まる。

まだ清遠からは、龍家の中での詳しい立場を聞いていない。

ただ龍姓を持ち、身なりや従者の様子から、身分の低い人物でないことだけは分かっていた。


「二度しかお会いしておりませんので、そのようなことまで尋ねるのは早いかと思います」


叔母は柔らかく答える。


「あなたが、これからもお会いしたいと思う方なら、少しずつ知っていけばよいわ」


春華の頬へ、また淡い赤みが差した。

星揺が口を開こうとする。

鈴花は先に、その腕へ触れた。


「今は、何も言わない方がいいと思う」


「まだ何も言ってないわよ」


「顔が言っているもの」


春華は二人を見て、とうとう小さく笑った。


     ◇◇



昼を過ぎた頃。


清遠のもとへ、春華からの礼状が届いた。

机の上には、玄烈へ提出する報告書が広げられていた。

その端には、昨日拾った白い花が置かれている。


一晩経ち、花弁は少しだけ萎れていた。

それでも清遠は、捨ててはいなかった。


春華の書状を開く。

端正な文字を、上から下へ一度読む。

そして、もう一度読んだ。


――昨日のお心遣いだけで、十分に嬉しく思っております。


清遠の視線が、その一文で止まる。

贈り物を喜んだとは書かれていない。

次からは高価な品を贈るなとも書かれている。


それでも。


清遠の胸へ残ったのは、拒まれたという感覚ではなかった。

自分の心遣いが嬉しかったと、春華は書いた。

清遠は書状を畳みかけ、再び開いた。


白い花の横へ、丁寧に置く。

机の上の報告書には、


――裴家長女との接触を継続。


――警戒心は薄く、信頼を得ることは困難ではない。


そう記されていた。

だが、青磁色の衣を贈ったことも。

春華から礼状が届いたことも。

白い花を捨てられずにいることも。


清遠は、報告書へ書かなかった。

春華があの衣を着た姿を、見てみたい。

その考えが胸を過ぎる。

清遠は、すぐに筆を取り直した。


任務のためだ。


自分が選んだ衣を春華が受け入れれば、それだけ信頼が深まったと判断できる。

それ以外の理由など、ない。


そう思いながらも、清遠の目は、もう一度、春華の書状へ向いていた。


     ◇◇


裴家では、春華が書状を送り出して間もなく、庭の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。

ほどなくして、家令が居間の戸口へ現れる。


いつもなら乱れることのない衣の裾が、僅かに揺れていた。


「蓮蓮様!」


叔母が顔を上げる。


「何があったのです?」


家令は一度息を整え、深く頭を下げた。

その顔には、隠しきれない喜びが浮かんでいる。


「北門より、早馬が参りました」


叔母の指が、茶碗の縁で止まる。

鈴花も立ち上がりかけた。


「裴将軍と陸将軍の軍勢が、王都へ到着なさいました」


居間の空気が、一瞬止まった。

春華の手から、筆が僅かに滑る。

黒い墨が、紙の端へ小さな点を落とした。


「父上が?」


星揺が立ち上がる。

勢いのまま卓へ膝をぶつけそうになり、鈴花が腕を掴んだ。


家令は大きく頷いた。


「北境にて大きな戦功を立てられ、凱旋の列が、まもなく北門へ入るとのことでございます」


叔母の目に、みるみる涙が浮かんだ。


「兄上が…あの人と帰ってきたのね」


鈴花は何も言えなかった。

胸元へ両手を重ね、唇を僅かに震わせている。

父が戦へ出てから、何度手紙を読み返したか分からない。


無事だと書かれていても。

勝っていると知らせが来ても。

自分の目でその姿を見るまでは、胸の奥から不安が消えることはなかった。


「迎えに行きましょう!」


星揺が声を上げる、今度は、誰も止めなかった。


     ◇◇


王都の北門には、すでに多くの人々が集まっていた。

澄み渡った空の下。

戦勝を知らせる鐘が高らかに鳴り、城壁の上では王家の旗が春の風を受けて大きくはためいている。

道の両側を埋めた人々は、花びらや細く切った色紙を手にしていた。


子どもたちは大人の間から顔を出し、遠くの門を見ようと懸命に背伸びをしている。

やがて、城壁の外から太鼓の音が響いた。


どん。


どん。


腹の底まで震わせるような音が、少しずつ近づいてくる。


人々のざわめきが高まった。

開かれた北門の向こうに、二本の軍旗が現れる。


一つは裴家の紋。


もう一つは、陸家の紋を掲げていた。

先頭を進む黒馬の上に、裴将軍の姿があった。


年は四十を少し越えている。

広い肩と逞しい腕。

日に焼けた顔には、長い遠征の疲れが刻まれていた。

右の眉の上には、出征前にはなかった細い傷が走っている。

深い赤の外套は土埃をまとい、胸元の鎧にも幾つもの傷が残っていた。


それでも、背筋は少しも曲がっていない。

馬上から前を見る目には、戦場で多くの兵を率いてきた将軍の鋭さが宿っていた。


その姿を見つけた瞬間。

星揺の胸の奥へ、熱いものが一気に込み上げた。


「父上……」


声が、思ったより小さくなる。

呼べば聞こえるほど近くへ戻ってきたのに。

本当に父がいるのだと思った途端、喉が詰まった。


裴将軍の少し後ろには、陸将軍がいた。

裴将軍より僅かに背が高く、日に焼けた顔には豪快な笑みが浮かんでいる。


鎧の左肩には大きな斬り傷が残り、その上から新しい革紐が巻かれていた。


けれど本人は痛みなど感じていないように、馬上から民衆へ大きく手を上げている。

鈴花は、その姿を見た瞬間、息を呑んだ。

目元が、みるみる潤んでいく。


二人の将軍の後ろを、多くの兵が続いていた。


破れた旗。

欠けた鎧。

包帯を巻いた腕。

疲れ切った顔。


それでも兵たちの背は伸び、その目には、故郷へ帰った者だけが持つ安堵と誇りがあった。


北境の砦を包囲していた敵軍へ、裴将軍は僅かな騎兵を率いて険しい山道を迂回し、後方の補給路を断った。

陸将軍は、援軍が到着するまで三日三晩、山門を守り抜いた。

その働きによって敵軍は撤退し、北境の町と多くの民が救われた。


二人の功績は、すでに王都中へ伝わっていた。


北門の内側には、太子・蕭凌川ショウ・リョウセンが立っていた。

深い青の礼装に、金糸で王家の紋を刺繍した帯。

普段の快活な青年とは違い、今は王の代理としての威厳を身にまとっている。


その傍ら。

黒い日傘の下には、龍昊然リュウ・コウゼンが立っていた。


墨色の衣と黒銀の冠。

春の光の中にありながら、黒い傘の内側だけは夜の静けさを切り取ったように見える。


その少し後ろには、深藍色の笠を被った龍暁嵐リュウ・ギョウランがいた。

広いつばの影から覗く黒い瞳は、真っ直ぐに凱旋の列へ向けられている。


龍景雲リュウ・ケイウンも濃紺の日傘のを指し立っていた。


柔らかな目元と白い肌は穏やかに見えるが、その立ち姿には少しの隙もない。

三人を覆う黒、深藍、濃紺の影は、陽光に満ちた北門の中でひときわ異質に映っていた。


星揺の視線が、父から一瞬だけ昊然へ移る。

昊然も、人々の向こうにいる星揺へ気づいたようだった。


黒い瞳が、ほんの僅かにこちらで止まる。

けれど今は、互いに声をかけられる場ではない。


星揺はすぐに父へ視線を戻した。

軍勢が門内へ入り、太鼓の音が止んだ。

裴将軍と陸将軍が馬を降りる。


二人は凌川の前へ進み、揃って片膝をついた。


「太子殿下にご挨拶申し上げます」


凌川は二人を見下ろす。

その顔には、王族としての厳しさと、無事に帰った将軍たちへの喜びが共に浮かんでいた。


「両将軍、大儀であった。陛下も、二人の働きを大いにお喜びだ」


「ありがたきお言葉にございます」


裴将軍が答える。


低く、よく通る声だった。


「北境を守り抜けましたのは、兵たちが命を懸けて戦ったためにございます」


陸将軍も続ける。


「功は、我らだけのものではございません」


凌川は静かに頷いた。


「兵たちへの褒賞も、すでに陛下がお決めになっている。今日はまず、家族のもとへ帰るとよい」


「はっ」


二人は深く頭を下げた。


その後。


裴将軍は昊然へ向き直る。


「龍将軍。ご無沙汰いたしております」


声は力強い。


だが、龍家へ向ける明確な敬意が込められていた。


陸将軍も同じように頭を下げる。


「龍将軍よりお送りいただいた援軍がなければ、北境の民を避難させることはできませんでした。心より御礼申し上げます」


昊然は黒い日傘の下で、二人を見る。


「戦を終わらせたのは、両将軍と兵たちです。私は必要なものを送ったにすぎません」


「それでも、感謝は変わりません」


裴将軍が答えた、昊然は僅かに頷く。

二人は暁嵐にも礼をした。


「暁嵐様、ご健勝で何よりにございます」


「裴将軍、陸将軍もご無事で何よりでございます」


この時、裴将軍はまだ知らなかった。


目の前の昊然が、自分の娘を二度助けていたこと。

そして、目の前の暁嵐もまた数日前、道に迷った娘たちへ側近をつけ、裴家まで送り届けていたことを。


屋敷へ帰れば、知らされる話が山ほど待っていた。


     ◇◇


式を終えた裴将軍と陸将軍が屋敷へ戻る頃には、陽が西へ傾き始めていた。

裴家の正門は大きく開かれ、使用人たちが左右へ並んでいる。


馬の蹄が門前で止まった。

裴将軍が馬から降りる。

鎧が、低く音を立てた。

その姿を見た瞬間。


星揺は堪えきれずに駆け出した。


「父上!」


「星揺、走らないで!」


春華の声も、もう届かない。

星揺は石畳を駆け抜け、そのまま父の胸へ飛び込んだ。

裴将軍は僅かによろめいたものの、しっかりと娘を受け止める。

鎧は硬く、外套には土と革、煙の匂いが染みついていた。


けれど、その腕の温かさは、出征前と何も変わっていない。


「父上……」


星揺の声が震えた。

裴将軍は、娘の頭へ大きな手を置く。


「また少し重くなったか」


星揺は、すぐに顔を上げた。

涙を浮かべたまま、父を睨む。


「帰ってきて最初に言うことが、それなの?」


「元気そうで安心したという意味だ」


「そうは聞こえなかったわ」


口では不満を言いながらも、星揺は父の外套を離そうとしなかった。

裴将軍の手が、もう一度娘の頭を撫でる。

今度は何も言わなかった。

春華も歩み寄り、父の前で丁寧に頭を下げた。


「父上。ご無事のお帰りを、心よりお待ちしておりました」


裴将軍の厳しい目元が、柔らかくなる。


「春華。留守をよく守ってくれた」


その一言だけで。

春華の目に、静かに涙が浮かんだ。


母を亡くしてから。

父が戦へ出るたび。

長女として家を守り、弟妹を気遣ってきた。

泣きたい時にも、年長の自分がしっかりしなければと、涙を堪えてきた。


父は、それを分かっていた。


春華は顔を伏せ、涙を見せないようにする。

裴将軍は娘の肩へ、そっと手を置いた。


裴景明ハイ・ケイメイも父の前へ進み、武人らしく姿勢を正した。


「父上。ご帰還、おめでとうございます」


「屋敷でまで、軍の挨拶をする必要はない」


裴将軍はそう言いながら、成長した息子の肩へ手を置く。

掌へ伝わる筋肉の厚みを確かめるように、一度だけ力を込めた。


「よく鍛えているな」


景明の目が、僅かに輝く。


「はい」


裴将軍は短く頷いた、それだけのやり取りだった。

けれど景明の背筋は、先ほどより僅かに伸びていた。


一方。


陸将軍は門を入るなり、鈴花を見つけた。


「鈴花!」


大きな声が庭へ響く、鈴花は一瞬、肩を震わせた。

けれど次の瞬間には、普段の落ち着いた表情を保てなくなっていた。


「父上……」


陸将軍は大股で娘へ近づき、そのまま両腕を広げる。

鈴花は周囲を見回した。


使用人も。

兵も。

星揺たちも見ている。


「父上、皆様が――」


言い終わる前に、陸将軍は娘を抱き締めた。


「娘に会えたのだ。何が悪い!」


「く、苦しいです」


そう言いながらも、鈴花の目から涙が零れた。

陸将軍は娘の肩を離し、顔を覗き込む。


「また背が伸びたか?」


「半年前にも、同じことを仰いました」


「では、半年前よりさらに伸びたのだろう」


「もう、それほど伸びる年ではありません」


鈴花は困った顔をしている。

けれど父の腕から離れようとはしなかった。


その少し後ろでは、叔母が夫の無事な姿を見つめていた。

声を掛けるより先に、涙が頬を伝っている。

陸将軍は妻へ顔を向けると、先ほどまでの豪快な笑みを少しだけ和らげた。


「留守を任せた」


叔母は泣きながら笑う。


「随分と長いお留守でした」


「すまなかった」


「本当に、そう思っていらっしゃるの?」


「もちろんだ」


返事は早かった。

叔母は疑うように夫を見たあと、その胸元へそっと額を寄せた。


星揺は父へ抱きついたまま、その様子を見て笑った。


「鈴花、顔が赤いわ」


「星揺には言われたくない」


涙を拭いながら返す鈴花に、皆が笑う。

長く張りつめていた屋敷の空気が、ようやくほどけていった。


     ◇◇


その夜。


裴家の食堂には、久しぶりに家族全員の声が揃っていた。

卓の上には魚や肉、温かな汁物が所狭しと並べられている。

湯気に混じり、生姜や香草の匂いが部屋へ満ちていた。

叔母は兄と夫の杯へ何度も酒を注ぎ、二人が痩せたのではないかと心配している。


「北境の食事は、それほど粗末だったのですか?」


「食べられるだけ、ましだった」


裴将軍が答える。


「兄上は昔から、何でも食べられるでしょう」


「陸将軍の方は、兵の三人分は食べていたぞ」


「それは動いた分です」


陸将軍が豪快に笑う。


「山門を守るには、腹が減るのですよ」


「三日三晩守ったのだから、少しくらい多く食べてもいいでしょ」


鈴花が父を庇う。

陸将軍の顔が、見る間に嬉しそうになる。


「聞いたか。娘は分かっている」


「今ので、また調子に乗られるわ」


叔母が呆れたように言った。

鈴花は少しだけ後悔した顔になり、星揺は口元を隠して笑った。

景明は、弓競べで授かった銀の矢飾りを父へ差し出した。


裴将軍は手に取り、暫く眺める。

銀の表面へ、灯火が細く反射した。


「二位か」


「はい」


「最後の一射は、動く的の中央だったそうだな」


景明が少し驚く。


「もうお聞きになったのですか」


「太史殿下からな」


裴将軍は銀の飾りを息子へ返す。


「次は?」


「一位を取ります」


「そうか」


それだけだった。

けれど、息子へ戻す前。

銀の矢飾りを握る父の指が、ほんの僅かに誇らしげに動いたことを、星揺は見逃さなかった。


「父上、嬉しいのでしょう?」


裴将軍は星揺を見る。


「何のことだ」


「兄上が二位になったこと」


「二位だ」


「でも、すごいと思っているのでしょう?」


「次は一位を取ると言っている」


「兄上も父上も、どうして素直に喜ばないのかしら」


景明が星揺へ冷たい視線を送る。


「お前が二人分騒いでいるからだ」


「私のせいなの?」


卓へ笑い声が広がった。

食事が進むうちに、叔母がふと思い出したように言った。


「そういえば兄上。お留守の間に、星揺が龍国公様から二度も助けていただいたのですよ」


星揺の箸が止まった。

裴将軍も、静かに動きを止める。


「龍将軍に?」


「叔母上、それは今でなくても――」


「韓家の宴では騒ぎを起こし、その後は石段から転びかけて」


「転んではいないわ」


「抱き止めていただいたからでしょう」


陸将軍が面白そうに星揺を見る。

景明は何も言わず、茶を飲んでいる。

春華も口元へ手を添え、僅かに笑っていた。


裴将軍の視線が、ゆっくり娘へ向く。


「私が留守の間に、お前は何をしていた」


「な、何もしてないわ」


星揺はすぐに答えた。


「何もしていない娘が、龍将軍に二度も助けられるのか?」


「それは……偶然が重なったの」


「二度も?」


父の問いに、星揺は言葉を失った。

陸将軍が大きく笑う。

鈴花は口元を袖で隠した。


「父上には、私たちが道に迷ったこともお話ししなければなりませんね」


鈴花が静かに言う、星揺が勢いよく振り返った。


「鈴花!」


「隠しても、暁嵐様からご報告が上がっているかもしれないでしょう?」


裴将軍の眉が動く。


「暁嵐様にも、ご迷惑をおかけしたのか?」


「ご、ご迷惑というほどでは……」


星揺が答えようとする。

鈴花は父たちへ向き直った。


「南市から戻る道を違えてしまい、暁嵐様の一行とお会いしました。側近の龍岳様をつけてくださり、裴家まで送り届けていただいたのです」


陸将軍が娘を見る。


「お前まで一緒に迷ったのか?」


鈴花は一瞬黙った。


「星揺を一人にするわけにはいきませんでしたので」


「それで一緒に迷えば、世話はないな」


陸将軍の言葉に、鈴花は返す言葉を失う。

今度は星揺が、口元を隠して笑った。


「鈴花、顔が赤いわ」


「誰のせいだと思っているの?」


裴将軍は深く息を吐いた。


「明日、龍家へ礼を申し上げねばならないな」


「父上、私も一緒に――」


「お前は屋敷にいろ」


「どうして?」


「これ以上、話を増やさないためだ」


星揺は不満そうに唇を尖らせた。

そして、父の関心を自分から逸らそうと考えたのだろう。


視線が、春華へ向く。


「それなら父上、姉上にも――」


春華と鈴花が、同時に星揺の袖を掴んだ。


「星揺」


二人の声が重なる。

裴将軍が、不思議そうに娘たちを見る。


「春華にも、何かあったのか?」


春華の頬が、みるみる赤くなっていく。


「何もございません」


「姉上、朝に――」


「星揺」


今度は、春華の声が少しだけ強くなった。


星揺は口を閉じる。


鈴花も、これ以上は何も言うなと目で訴えていた。

裴将軍は三人の様子を順番に見る。


「何か、隠しているな」


「父上がお戻りになったばかりですもの。今夜は戦のお話をお聞かせください」


春華が穏やかに話を変える。

裴将軍は納得していない顔をしていた。

けれど、長女が困っていることへ気づき、それ以上は追及しなかった。


「後で聞く」


春華の指が、膝の上で僅かに強く重なった。



食事を終えたあと。

使用人が、昼間に居間へ運んだ紫檀の衣箱を、春華の部屋へ戻そうと廊下を通りかかった。


箱の留め金へ結ばれた札が、灯火の光を受ける。


裴将軍の目が、その文字を捉えた。


「待て」


使用人が足を止める。


裴将軍は箱へ近づき、札へ記された名を見た。


――龍清遠。


「この箱は何だ」


春華の肩が僅かに揺れた。

使用人は、隠すべきこととも知らず、正直に答える。


「今朝、春華様へ届いた御衣にございます」


その瞬間静まり返る、星揺は目を輝かせ。

鈴花は、ゆっくりと目を閉じた。

春華の頬には、先ほどよりもはっきりと赤みが差していた。


裴将軍は箱から娘へ視線を移す。


「龍家の方から、お前へ衣が届いたのか?」


「それは……」


春華は言葉を探した。

裴将軍は席へ戻り、静かに腕を組む。

戦場で敵軍の動きを見極める時と同じ、鋭い目だった。


「春華」


低い声が、静かな食堂へ響く。


「最初から、説明しなさい」


星揺は、自分の話題から父の関心が逸れたことへ安堵するべきか。

姉の秘密が、すべて知られようとしていることを心配するべきか。


決められないまま、春華と父の顔を交互に見た。

夜の風が、開け放たれた窓から入り込む。


紫檀の箱へ結ばれた札が揺れ、その下で、銀の留め金が小さく光った。

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