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八話 姉上の秘密



王宮の茶会から、数日後。

王都の南市には、昼を少し過ぎても多くの人が行き交っていた。

通りの両側には、布や香、茶葉、菓子、髪飾りを扱う店が隙間なく並んでいる。

軒先からは色鮮やかな布が幾重にも垂らされ、風が通るたび、青や紅、淡い黄色の布地が波のように揺れていた。


香辛料の強い匂い。

焼きたての胡麻餅の甘い香り。


遠くでは、客を呼び込む商人の声と、荷車の車輪が石畳を転がる音が重なっている。

星揺と鈴花は、叔母から頼まれた春物の布を選ぶため、侍女を一人伴って南市を訪れていた。


「この色、鈴花に似合うと思う」


星揺は店先へ並べられた淡い水色の布を持ち上げた。

光を受けると、織り込まれた銀糸が細く輝く。

鈴花は布を自分の肩へ当て、鏡代わりに磨かれた銅板を覗いた。


「少し華やかすぎないかしら」


「そんなことないわ。いつも落ち着いた色ばかり選ぶでしょ?」


「星揺が華やかな色ばかり選ぶから、並んだ時にちょうどよいのよ」


「へぇ〜?私に合わせて地味にしていたの?」


「そうは言っていないわ」


店の主人が、二人の間へ別の布を広げた。


「こちらも今年よく出ております。若いお嬢様方には、こちらの薄藤色が――」


主人の説明を聞きながら、星揺はふと通りの向こうへ目を向けた。

人波の間に、よく見慣れた横顔が見えた気がした。


「……あれ?」


「どうしたの?」


鈴花が尋ねる。

星揺は答えず、持っていた布を主人へ返した。

通りの向こうを、もう一度よく見る。


淡い青磁色の衣。


華美ではないが、細かな刺繍の施された帯。

艶やかな黒髪を、白玉の簪で上品にまとめている。


間違いない、あれは


「姉上だわ」


「春華姉様?」


鈴花も星揺の視線を追った。

少し先の書物屋の前に、春華が立っていた。

屋敷で見る時とは違い、侍女は少し離れた場所へ控えている。


そして春華の隣には、笠を深く被った一人の青年がいた。

背が高く、白に近い淡灰色の衣をまとっている。

髪は墨のように黒く、銀の冠で整えられていた。

遠目から見ても、彼の育ちのよさが分かる。


顔立ちは端正だが、華やかというより、どこか静かで近寄りがたい印象だった。

年は、二十前後か、姉と同い年ほどの年齢の青年が何かを言う。

春華は僅かに目を伏せ、そのあと柔らかく笑った。

その表情を見て、星揺の目が大きく開かれる。


「鈴花、見た?」


「見ているわ」


「姉上が、男の方と一緒にいる」


「えぇ、見れば分かるわ」


「笑ったわ」


「春華姉様は普段から笑うでしょう?」


「いや、今のはいつもの笑い方と違ったの」


星揺は胸の前で両手を合わせた。


「…もしかして、姉上の想い人かしら」


「まだ分からないでしょう」


「でも、見て?二人きりよ」


「よく見なさい、侍女もいるわ」


「離れているでしょ?あれは二人きりと同じよ」


鈴花は何か言い返そうとして、やめた。

星揺の顔が、弓競べで景明を応援していた時と同じくらい輝いている。


「姉上にも、とうとう……」


「星揺」


「何?」


「まさかとは思うけど」


鈴花は静かに星揺を見る。


「後をつけるつもりではないでしょうね」


星揺は答えなかった。

代わりに、春華たちが歩き出した方向へ一歩進む。

鈴花がすぐにその袖を掴んだ。


「星揺」


「どんな方なのか、少し確かめるだけよ」


「それを後をつけるっていうの」


「姉上の将来に関わることでしょ?」


「だからこそ、勝手に覗いてはいけないでしょ」


「じゃあ、もし悪い人だったら?」


「今の星揺には、悪い方かどうかも分からないでしょ?」


「じゃあ、私1人で行く」


止めても、宣言通り星揺は一人で追っていく。

そのことを、長い付き合いの中でよく知っている鈴花は小さく息を吐いた。


「分かった。じゃあ布を選んでいるフリをして、もう少しだけ様子を見るだけよ」


「分かったわ」


「店を離れない」


「いいわ」


「本当に?」


「もちろん!」


星揺は力強く頷いた。

その直後。

春華と青年が書物屋の角を曲がった。


「あっ、見えなくなる」


星揺は鈴花の手を取り、そのまま走り出した。


「星揺!」


「少しだけよ!」


「先ほどの話を何一つ聞いていないでしょ!」


鈴花は侍女へ振り返った。


「ここで待っていて。すぐに戻るわ」


「ですが、鈴花様――」


「星揺を一人にする方が危険なの」


侍女は困り果てた顔をしたが、鈴花はもう星揺を追っていた。


     ◇◇


春華と青年は、大通りから一本入った静かな道を歩いていた。

こちらには大きな店は少なく、古い書物を扱う小さな店や、香を調合する工房が並んでいる。

星揺と鈴花は、積み上げられた竹籠の陰から二人の姿を窺った。


「もう少し離れなさい」


鈴花が星揺の肩を後ろへ引く。


「これ以上離れたら、何も見えないじゃない」


「見えなくていいのよ。本来なら」


春華は青年と並び、一軒の書物屋へ入った。

二人が中へ消えると、星揺はすぐに移動しようとする。

鈴花は再びその袖を掴んだ。


「待って、店の中まで入るつもり?」


「そうよ?偶然を装えばいいでしょう?」


「偶然にしては、随分と息を切らしているわね」


星揺は自分の胸元を押さえた。

走ってきたせいで、確かに呼吸が少し速い。


「じゃあ…外で待ってる」


「帰るという選択はないわけ?」


「当たり前でしょ?姉上が出てくるまでよ」


鈴花は諦めたように、書物屋の向かいへ置かれた長椅子へ腰掛けた、星揺も隣へ座る。

二人は道の反対側を眺めながら、買い物の途中で休んでいる令嬢を装った。


暫くして、春華と青年が店から出てきた。

春華の手には、薄い書物が一冊ある。

青年が持っているのは、細長い木箱だった。


「贈り物?」


星揺が囁く。


「声が大きいわ」


鈴花が答える。

青年は木箱の蓋を開け、春華へ差し出した。

中に入っていたのは、淡い緑色の玉を使った髪飾りだった。


派手ではない。

けれど、ひと目で高価なものだと分かる。

春華は驚いた顔をしたあと、静かに首を横へ振った。

何かを断っているらしい。


青年はもう一度勧めたが、春華は受け取らなかった。

代わりに、自分の手にしていた書物を示し、笑っている。

青年は暫く春華を見たあと、木箱を閉じた。


「姉上、断ったわ」


星揺が残念そうに言う。


「簡単に高価なものをいただく方ではないでしょ」


「でも、あの方からなら受け取ってもよかったのに」


「星揺は、もう二人を結婚させるつもりなの?」


「姉上が幸せなら」


「お名前すら知らないでしょ」


「これから知るればいいじゃない」


「どうやって?」


「姉上に――」


「今日ここにいたことを話せるの?」


星揺は黙った、鈴花は小さく首を振る。


「話せないことをするものではないの」


「分かってるけど……」


そう言いながらも、星揺の視線は春華たちを追っている。

青年は高価な髪飾りを断られても、機嫌を損ねた様子はなかった。

春華の持つ書物へ目を向け、何かを尋ねている。

春華は表紙を見せながら答えた。

時々、青年が僅かに頷く。


「あの方…少し、龍国公様に似ていない?」


星揺が呟く、鈴花は青年を観察した。


「んー…笠を被ってるから見えないわ」


「顔じゃなくて雰囲気よ」


「日除けしてたら全員龍国公様に見えるの?」


「そういうわけじゃないけど」


鈴花はそれ以上言わず、青年の立ち姿を見つめた。

身のこなしに無駄がない。

ただの文官や商家の子息には見えなかった。

春華と話している間も、道を歩く人間の位置を自然に把握している。 



その時、道の向こうから荷車が曲がってきた。

荷台には、鉢植えや切り花を詰めた籠が幾つも積まれている。

荷車を引いていた老人が、石畳の窪みへ車輪を取られた。


その瞬間、大きく荷台が傾く。


「あっ!」


籠が一つ、道へ落ちた。

白い花が石畳へ散らばる。

老人も体勢を崩し、膝をついた。


春華は何も考えることなく駆け寄った。


「大丈夫ですか?」


自分の衣の裾が汚れることも気にせず、老人の前へ膝をつく。

老人の手の甲には、籠の竹で切ったらしい細い傷ができていた。


「これくらい、何でもございません」


老人は慌てて立ち上がろうとする。

しかし、春華はその腕を支えた。


「急に立つと、また転びます」


それから自分の侍女へ目を向ける。


「水と、清潔な布を」


「はい、お嬢様」


侍女がすぐに動く。

春華は道へ散らばった花を一輪ずつ拾い始めた。


青年も少し遅れて、腰を屈めると白い花を拾い、籠の中へ戻す。


「お客様のお召し物が汚れてしまいます」


老人が恐縮して言った。


「衣は洗えます」


春華は当たり前のように答えた。


「ですが、こちらの花は、このままでは売り物になりませんね」


踏まれた花弁を見て、眉を曇らせる。


「今日は、これをすべていただきます」


「ですが、落ちて汚れてしまったものを――」


「部屋へ飾るのなら、少しくらい花弁が欠けていても構いません」


春華は柔らかく笑った。


「これだけ綺麗に咲いたのですもの。捨ててしまうのは可哀想でしょう?」


老人は何度も頭を下げた。


春華は侍女から受け取った布で老人の傷を包み、その結び目を確かめてから立ち上がった。

青年は、そんな春華を静かに見ていた。



最初に会った時。

彼が春華へ抱いた印象は、ただそれだけだった。


綺麗な娘だ。


裴家の長女として、穏やかで品もある。

家族の内情を探る入口としては、悪くない。

けれど今、春華は汚れた石畳へ膝をつき、自分とは何の関係もない老人の手へ布を巻いている。


誰かが見ているからではない。

老人から何かを得るためでもない。


そうすることが当然だと思っている顔だった。


「そこまでなさる必要がありましたか」


老人が立ち去ったあと、青年が尋ねた。

春華は少し不思議そうに彼を見る。


「必要がなければ、助けてはいけないのですか?」


「そういう意味ではありません」


「では、よかったです」


春華は、老人から買い取った白い花を一輪手に取った。

外側の花弁が少しだけ欠けている。

それでも春華は、綺麗なものを見るように目を細めた。


「傷がついても、花は花ですから」


青年は答えなかった。

春華は残りの花を侍女へ預ける。

その指先には、石畳の汚れが少しついていた。


けれど、本人は気づいていない。

青年は無意識に、自分の懐へ手を入れた。

白い布を取り出しかける。

けれどその前に、春華の侍女が主人の手へ布を差し出した。


ピタッと青年の手が止まる。

そのまま何事もなかったように、懐から手を離した。


「行きましょうか」


春華が言う。


「はい」


青年は短く答えた。

けれど歩き出してからも、先ほどの言葉が耳へ残っていた。


――傷がついても、花は花ですから。




     ◇◇


「姉上らしい」


二人の姿が遠ざかってから、星揺が小さく言った。

その声には、どこか誇らしげな響きがあった。


「春華姉様は、昔から変わらないものね。きっと自分の衣が汚れたことには、きっと帰るまで気づかないわ」


鈴花も微笑む。


「姉上は、そういうところがあるのよ」


「星揺も似ているけれど」


「私なら、汚れたらすぐ気づくわ」


「転んだあとでね」


星揺は鈴花を睨んだ。


「それより、あの方はどう思う?」


「まだ、何とも言えないわ」


「老人を助けてたわ」


「春華姉様が拾い始めたからでしょ?」


「でも、一緒に拾ってくれたじゃない」


「まぁ、止めなかったことは、悪くないと思う」


「でしょ?」


星揺の顔が明るくなる、鈴花は慎重に言葉を続けた。


「でも、とても注意深い方に見えたわ」


「注意深い?」


「歩いている時も、周囲をよく見ていた」


「姉上を守っていたんじゃない?」


「そうかもしれないわね」


鈴花は否定しなかった。


「それより、戻りましょう」


「もう少しだけ――」


「十分見たでしょう」


鈴花は立ち上がり、星揺の手を取った。


「春華姉様には、春華姉様のお考えがあるのよ。話したくなった時には、きっと私たちへ話してくれるわ」


星揺は春華たちが消えた道を見た。

少し名残惜しそうな顔をしたものの、やがて頷く。


「……そうね」


「それに、侍女を待たせているわ」


「あっ」


星揺の顔から血の気が引いた。


「忘れていたの?」


「少しだけ」


「人を待たせていることを、忘れてたの?」


二人は急いで元の大通りへ戻ろうとした。

けれど、角を幾つか曲がるうちに、周囲の景色が変わっていた。

先ほどまで並んでいた書物屋も、香の工房も見当たらない。

代わりに、古い塀と倉庫ばかりが続いている。


星揺は足を止めた。


「……鈴花」


「何?」


「こっちで合っていると思う?」


鈴花は黙って辺りを見回した。

夕刻が近づき、細い道には長い影が伸びている。


「星揺は、道を覚えていたんじゃないの?」


「それは、鈴花が覚えていると思ってたわ」


「もう!私は、星揺を追いかけるのに必死だったのよ」


「なら、迷った?」


「その可能性が高いわね」


「王宮だけでなく、南市でも?」


「ちょっと、誰のせいだと思ってるの?」


星揺は気まずそうに目を逸らした。


その時。

道の向こうから、馬の蹄の音が聞こえた。

一頭ではない、幾つもの蹄が、揃った間隔で石畳を打っている。


星揺と鈴花は道の端へ寄った。

やがて、夕日の差す角から、数騎の男たちが姿を現した。

先頭を進む青年は、深い藍色の騎装をまとい、先ほど見た青年と同じように笠を被っている。

傘の下からは、黒くて長い髪が見える

腰には剣を佩いていて、年は昊然より少し若く見えた。


どこか、その雰囲気は昊然に似ている。


青年も星揺たちへ気づくと、軽く手を上げる

一行が止まった。

青年の隣を走っていた男が馬を降り、二人の前へ歩いてくる。


「どうかなさいましたか」


優しい、落ち着いた声で尋ねる。

星揺が答えるより先に、鈴花が一歩前へ出た。


「お引き止めして申し訳ございません。南市の布屋へ戻る途中なのですが、道を違えてしまったようです」


「お連れの方は?」


「侍女を店で待たせております」


鈴花は少し言葉を選んだ。

従姉妹を尾行して迷ったとは、さすがに言えない。


「私どもは裴家の者です。こちらが裴星揺、私は従姉の陸鈴花と申します」


男が僅かに目を見開いた。

先頭の青年も、星揺たちへ視線を向ける。


「裴将軍と、陸将軍の…」


青年の声は、昊然より少し若く、感情も分かりやすかった。星揺は傘の下の顔を見つめた。


「失礼ですが……」


鈴花が横から星揺を見る。

また何かをそのまま尋ねるつもりだと分かったからだ


「龍国公様と、ご親戚でいらっしゃいますか?」


青年は一瞬黙った。

その後、僅かに眉を上げる。


「兄だ」


星揺の顔が明るくなる。


「やっぱり」


「星揺」


鈴花が小声でたしなめる。

星揺は慌てて頭を下げた。


「申し訳ございません。お顔が少し似ていらしたので」


「よく言われる」


青年は特に気を悪くした様子もなかった。


馬上から二人を見下ろし、短く名乗る。


龍暁嵐(リュウギョウラン)だ」


「暁嵐様」


鈴花と星揺は、改めて礼をした。

暁嵐は隣にいた男へ目を向ける。


(ガク)


「はい」


「二人を裴家まで送れ。先に南市へ寄り、侍女と馬車を拾え」


「はい、承知いたしました」


鈴花が顔を上げる。


「ですが、暁嵐様のご用を妨げてしまうのではございませんか」


「一人欠けても問題ない」


「それでも――」


「この辺りは、日が落ちると人通りが減る」


暁嵐は静かに言った。


「裴家の令嬢を二人だけで帰したと知られれば、こちらの方が面倒だ」


言い方は簡潔だが、二人を気遣っていることは分かった。

鈴花はこれ以上断る方が失礼だと判断し、深く頭を下げた。


「ご厚意に感謝いたします」


星揺も続いて礼をする。


「ありがとうございます」


暁嵐は僅かに頷いた。

星揺はもう一度、彼の顔を見た。

やはり、昊然に似ている。


けれど、黒い日傘の下に立つ昊然とは違い、暁嵐の方が少しだけ表情を読み取りやすい。

それでも、こちらの素性を必要以上に尋ねないところはやはり似ていた。


「所で、兄上と面識があるのか」


暁嵐が尋ねた。


星揺は少し驚く。


「はい。何度か、お目にかかったことがございます」


「そうか」


暁嵐はそれだけ答えた。


昊然が星揺を二度助けたことも、弓競べで彼女を見ていたことも知らない。

裴将軍の娘が、兄と社交の場で顔を合わせたのだろう。

その程度にしか考えなかった。


「行くぞ」


暁嵐が手綱を引くと、残りの騎馬が動き始める。

星揺と鈴花は道の端で、暁嵐たちを見送った。

深い藍色の背中が、夕日の中へ遠ざかっていく。


「龍国公様より、少し話しかけやすそうな方だったわ」


星揺が呟くと、龍岳が、咳払いをした。


まだすぐそばにいる。 


星揺は気まずそうに両手で口を閉じた。

鈴花は小さく笑う。


「星揺は、龍国公様にも十分話しかけていると思うけど」


「必要なことしか話していないわ」


「お礼を何度も言おうとして、止められていたでしょう?」


「それは必要なことでしょ?」


龍岳は聞こえていないふりをしながら、二人を南市の大通りへ案内した。


     ◇◇


布屋へ戻ると、待たされていた侍女は泣きそうな顔で二人へ駆け寄ってきた。


「星揺様、鈴花様!一体どちらへ行かれていたのですか!」


「ごめんなさい、少し、道を間違えてしまったの」


星揺が答える。

鈴花は隣で、何も言わなかった。

完全な嘘ではない。


けれど、その前に姉を追っていたことは伏せている。

龍岳は二人と侍女を馬車へ乗せると、自ら馬に乗り、裴家まで付き添った。


帰りの車内、鈴花が先に言った。


「春華姉様へ、今日のことを尋ねてはいけないわよ」


「まだ何も言ってないでしょ?」


「顔が言ってるのよ」


「黙ってるわ」


「…とにかく、春華姉様が自分から話してくださるまで言わないこと」


星揺は唇を尖らせた。


二人の声を聞きながら、侍女は疲れたように目を伏せた。

屋敷へ戻ったら、叔母へどこまで報告するべきか迷っているのだろう。


     ◇◇


その夜。


王都の南にある大きな屋敷では、昼間とはまるで違う静けさが満ちていた。

高い塀に囲まれた奥の書房。


灯火の前に、龍玄烈が座っている。

その向かいには、昼間、春華と共に歩いていた青年が立っていた。

淡灰色の衣は黒へ替えられ、穏やかだった表情も消えている。


彼の名は、龍清遠(リュウセイエン

玄烈の命を受け、わざと裴家へ近づいた男だった。


「裴家の娘はどうだ」


玄烈が尋ねる。

清遠は静かに答えた。


「長女は、まだ私を完全には信用しておりません」


「何か聞き出せたか」


「家族のことは、ほとんど話しません」


玄烈は不快そうに眉を寄せることもなく、杯へ酒を注いだ。


「それでよい」


「よろしいのですか」


「急いで尋ねれば、こちらの目的を悟られる」


玄烈は杯を持ち上げる。


「まずは姉の信頼を得ろ。あの女が自分から家族の話をするようになるまで待て」


清遠は僅かに頭を下げた。


「承知しました」


「裴星揺は、まだ昊然の弱点と呼べるほどの娘ではない」


玄烈は薄く笑う。


「だが、昊然が人間の令嬢を何度も助けた。それだけでも調べる価値はある」


清遠は黙って聞いている。


「まずは、姉から妹へ近づけ。妹が本当に使えるなら、その時に考えればよい」


「はい」


玄烈は清遠の顔を見た。


「長女は美しいそうだな」


「整った顔立ちではあります」


「気に入ったか?」


清遠の表情は変わらなかった。


「任務の相手です」


「それならよい」


玄烈は酒を口へ運ぶ。


「人間の女へ、余計な情を持つな」


「心得ております」


清遠は書房を下がった。

長い回廊を歩き、自室へ戻る。

部屋へ入ると、昼間着ていた淡灰色の衣が、衣桁へ掛けられていた。


清遠はその前を通り過ぎようとした。

けれど、袖へ何か白いものがついていることに気づく。

外側の花弁が少し欠けた、小さな白い花だった。

昼間、道へ落ちた花を拾った時についたのだろう。


清遠は花を指先で摘まんだ。

捨てようとして、…ふと、春華の声を思い出す。



――傷がついても、花は花ですから



あの言葉を思い出し清遠は暫く、白い花を見つめていた。

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