十話 龍家への礼
裴将軍と陸将軍を乗せた一台の馬車が、王都の大通りを東へ進んでいた。
空は朝からよく晴れている。
屋根の向こうには淡青色の空が広がり、店を開け始めた商人たちの声が、車輪の音に混じって聞こえてきた。
裴将軍は馬車の窓辺に座り、膝の上へ片手を置いていた。
濃紺の正装に身を包んでいるが、右の眉の上に残る新しい傷と、日に焼けた肌には、北境から戻ったばかりの武人らしさが色濃く残っている。
向かいへ座る陸将軍は、窓の外を眺めながら小さく笑った。
「戦から帰った翌日に、娘たちのことで龍家へ礼へ向かうことになるとはな」
「お前の娘も一緒だっただろう」
裴将軍が低く返す。
「鈴花は、星揺を一人にできなかっただけだ」
「それで二人揃って迷えば、同じことだ」
陸将軍は言葉に詰まり、その後で豪快に笑った。
「まあ、無事だったのだからよい」
裴将軍は答えなかった。
無事だったからこそ、こうして笑っていられる。
けれど、龍国公に二度助けられ。
龍暁嵐の側近に屋敷まで送られ。
さらに長女には、龍家の男から衣まで届いている。
戦地にいた間に、娘たちの周囲へ龍家の者が増えすぎていた。
「随分と難しい顔をしているな」
「いつもどおりだ」
「敵の補給路を断つ時より険しいぞ」
裴将軍は窓の外へ視線を向けた。
「戦場の敵は、目的が分かりやすい」
「娘へ近づく男は分からんか」
裴将軍の目が、陸将軍へ戻る。
「まだ近づいたと決まったわけではない」
「そうか」
陸将軍の口元には、面白がる笑みが浮かんでいた。
◇◇
龍国公府は、王宮の東側に広がる静かな一画にあった。
黒い塀の向こうには深い森が広がり、大通りの賑わいも、門へ近づくにつれて遠ざかっていく。
龍家の屋敷には、朝の陽光を避けるため、門前から玄関まで濃い布を張った天幕が続いていた。
深い軒と回廊が幾重にも重なり、屋敷の敷地へ入った途端、外の明るさが切り離されたように薄暗くなる。
馬車が天幕の下へ止まった。
扉が開かれると、裴将軍と陸将軍は揃って外へ降りた。
石段の前には、一人の青年が立っていた。
深藍色の笠を被り、その広いつばの下から、雪のように白い髪が流れている。
肩の辺りで一つに束ねられた白髪は、僅かな光を受けるたび、銀糸のような艶を帯びた。
肌も白く、顔立ちは端正だった。
細身ではあるが、腰へ佩いた剣と、音もなく立つ姿には、一分の隙もない。
龍暁嵐の側近を務める、龍岳だった。
白い髪は、龍家の中でも古い分家筋に受け継がれる特徴である。
「裴将軍、陸将軍。お待ちしておりました」
龍岳は丁寧に頭を下げた。
裴将軍もすぐに礼を返す。
「龍岳様でいらっしゃいますか」
「はい」
「先日は、娘たちを裴家までお送りくださり、ありがとうございました」
「ご無事にお戻りになられたのであれば、何よりでございます」
「道中、ご面倒をおかけしたのではありませんか」
陸将軍が尋ねる。
龍岳は少しだけ間を置いた。
「賑やかな道中ではございました」
陸将軍が声を立てて笑う。
裴将軍は眉間へ指を当てた。
「星揺の方ですね」
龍岳は否定しなかった。
「こちらへどうぞ。昊然様がお待ちです」
龍岳は二人を、屋敷の奥へ案内した。
◇◇
龍国公府の回廊は、昼間でも夜のように静かだった。
黒い格子窓には薄布が幾重にも掛けられ、庭へ続く場所には、陽光を遮る天幕が張られている。
回廊の脇には細い水路が流れ、冷たい水音が絶えず耳へ届いた。
白や濃紫色の花が、深い日陰の中でひっそりと咲いている。
案内された客間の正面には、龍昊然が座っていた。
屋内のため、黒い日傘は傍らへ置かれている。
その左側には、龍暁嵐が控えている。
艶のある黒髪と、真っ直ぐな黒い瞳。
王蓮の家系を継ぐ彼の姿には、龍岳とは異なる、鋭く凛とした気配があった。
裴将軍と陸将軍は、昊然の前で揃って頭を下げた。
「龍将軍。本日はお時間を頂戴し、ありがとうございます」
「お掛けください」
昊然が短く答える。
二人が腰を下ろすと、使用人が音もなく茶を運んできた。
裴将軍は、持参した贈答の品を示した。
「北境では、龍将軍よりお送りいただいた兵と物資に助けられました。僅かではございますが、感謝の印にございます」
「すでに北門でも礼は受け取りました」
「それでも、家を代表する者として、改めて御礼を申し上げたく参りました」
裴将軍は深く頭を下げる。
「それから、娘のことでも幾度かお世話になったと伺っております」
昊然の黒い瞳が、僅かに動いた。
「星揺殿のことですか」
返事が早かった。
ごく小さな違いだったが、戦場で人の呼吸や視線を読み続けてきた裴将軍は聞き逃さなかった。
「はい」
「迷惑を掛けられた覚えはありません」
「二度も助けていただき、ありがとうございました」
「礼は、すでに本人から受け取っています」
また、返事が早い。
裴将軍は昊然の顔を静かに見た。
表情には、何も現れていない。
「今後とも、娘がご迷惑をおかけすることがあるかもしれません。その折には、どうか厳しくお叱りください」
昊然の眉が、ごく僅かに動く。
「叱る理由があれば、そういたします」
「理由がなくとも、少々厳しくしていただいて構いません」
暁嵐が僅かに目を伏せた。
笑いを堪えているようにも見える。
裴将軍は続いて、暁嵐へ向き直った。
「暁嵐様にも、娘たちへご配慮を賜り、御礼申し上げます」
「私は岳に送らせただけです」
「それでも、見知らぬ娘二人を放っておかず、お助けくださったことには変わりございません」
暁嵐は短く頷いた。
「道に迷っていると分かっていて、放っておくわけにもいかないでしょう」
「お恥ずかしい限りにございます」
裴将軍は、心からそう思っている顔で頭を下げた。
◇◇
礼の話が一段落した頃。
回廊の向こうから、静かな足音が近づいてきた。
戸の前で一度止まり、低い声がする。
「龍清遠です。失礼いたします」
客間へ入ってきたのは、龍清遠だった。
淡い灰色の衣。
銀の冠でまとめられた長い黒髪。
涼やかな目元が、はっきりと見えた。
清遠は手にしていた書状を、昊然へ渡そうとする。
その途中で、裴将軍と視線が重なった。
清遠は、相手が春華の父であることをすぐに察した。
裴将軍も、その名を忘れてはいなかった。
青磁色の衣箱へ結ばれていた札。
そこへ記されていた名である。
裴将軍は席を立ち、清遠へ丁寧に頭を下げた。
「龍清遠様でいらっしゃいますか」
「はい」
清遠も礼を返す。
「裴将軍。ご帰還、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
二人の間へ、短い沈黙が落ちた。
「娘の春華が、お世話になったと伺いました」
「お世話になったのは、私の方です」
「その礼として詩集を贈ってくださり、さらに昨日は、御衣までお贈りいただいたと聞いております」
清遠の表情は変わらない。
「私との外出中に、春華殿が衣を汚されたためです」
春華殿。
娘の名が、清遠の口からあまりに自然に出た。
裴将軍は、それにも気づいていた。
「娘自身が、人助けをした際に汚したと聞いております。清遠様に責任はございません」
「それでも、私が外へお誘いした際の出来事です」
清遠は一歩も引かなかった。
裴将軍は暫く相手を見る。
そして、礼を失わない声で静かに告げた。
「お心遣いには感謝申し上げます。ただ、娘はまだ婚約もしていない身にございます」
清遠の目が、僅かに細くなる。
「今後、このように高価な品をお贈りくださる際には、先に家の者へお知らせいただければ幸いです」
言葉は丁寧だった。
けれど、その奥には父親としての明確な牽制があった。
清遠は、すぐに頭を下げる。
「配慮が足りませんでした。申し訳ございません」
「いえ。娘のためにお選びくださったこと自体は、ありがたく存じます」
裴将軍は一度、言葉を切った。
「随分と、娘の好みに合う御衣で」
清遠の黒い瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「それは、良かったです」
返事が少し早かった。
裴将軍は、それ以上追及しなかった。
もう一度、清遠へ深く頭を下げる。
清遠も静かに礼を返した。
◇◇
裴将軍と陸将軍が龍国公府を辞したあと。
二人を案内していた龍岳の白い髪が回廊の向こうへ消え、客間の戸が静かに閉じられた。
清遠は昊然へ改めて書状を渡し、一礼する。
「それでは、私も失礼いたします」
「清遠」
昊然の低い声が、その背中を止めた。
清遠が振り返る。
「はい」
「なぜ、裴春華殿へ衣を贈った」
客間の空気が静まり返る。
暁嵐は席を立たず、兄と清遠のやり取りを黙って見ていた。
「先ほど申し上げたとおりです。私との外出中に、御衣を汚されたためでございます」
「お前が汚したのか」
「いいえ」
「ならば、お前が代わりを用意する必要はない」
「私が外へお誘いしました」
「礼は詩集で済んだのだろう?」
清遠は答えなかった、昊然は黒い瞳を細める。
「ただ代わりを用意するだけなら、衣商へ任せれば済む」
昊然の声は静かだった。
怒鳴りもせず。
表情も変えない。
それでも清遠は、鋭い刃を喉元へ向けられているような感覚を覚えた。
「男が、未婚の娘へ仕立てた衣を贈る。それが、ただの礼では済まないことを知らないわけではないだろう」
「承知しております」
「ならば、なぜだ」
清遠は答えられなかった。
白い花を拾った春華の指先。
古い詩集を胸へ抱いた時の、嬉しそうな顔。
自分の中にあるはずのない善意を信じた、穏やかな眼差し。
どれも、用意していた答えの邪魔をした。
「礼をしたかったからです」
ようやく答える。
昊然は清遠から目を逸らさない。
「裴春華殿で弄ぶつもりなら、今のうちにやめろ」
清遠の目が、初めてはっきりと動いた。
「そのようなつもりはございません」
返事は、これまでのどの言葉よりも速かった。
「ならば、自分が何をしているのか考えろ」
清遠は暫く黙り、やがて深く頭を下げた。
「承知いたしました」
客間を出ようとする。
その背中へ、昊然がもう一度声をかけた。
「人を信じる者ほど、裏切られた時の傷は深い」
清遠の足が止まる。
――そのお気持ちが嬉しいのです。
春華の声が、脳裏へ蘇った。
「分かっております」
清遠は振り返らずに答え、そのまま客間を出ていった。
◇◇
戸が閉じられたあとも、暁嵐は暫く黙っていた。
昊然は清遠が置いていった書状へ目を通している。
やがて暁嵐が口を開いた。
「兄上」
「何だ」
「清遠が、人間と婚約できないことを知らないわけではないだろ」
昊然の指が、紙の端で僅かに止まる。
「知っているからこそ、言った」
「龍家の者と人間の婚姻は認められない。特に子を残すことは、なおさら許されない」
「ああ」
「ならば、兄上も同じではないか?」
昊然の黒い瞳が、ゆっくりと弟へ向いた。
「何が言いたい」
「裴星揺のこと」
客間へ流れる水音が、急にはっきりと聞こえた。
「関係ない」
昊然は短く答えた。
「今日、裴将軍が娘の話をした時、兄上はすぐに星揺の名を口にした」
「裴将軍の娘で、私が助けたのは彼女だけだ」
「二度も偶然に助けた娘だろ」
昊然の眉が僅かに寄る。
「清遠へ、自分が何をしているのか考えろといったが」
暁嵐は兄から目を逸らさなかった。
「兄上も、気をつけた方が方がいいんじゃないか?」
「裴星揺は関係ない」
返事は先ほどよりも強かった。
暁嵐は一度、静かに息を吐く。
「そうだ、兄上にも、婚約の話が出ている」
「断ったはずだ」
「以前の話は、だろう?」
「今度は誰だ」
「龍静蘭」
その名を聞いた瞬間。
昊然の周囲へ漂う空気が、さらに冷たくなった。
龍静蘭。
龍家の古い分家に生まれた、純血の娘。
腰を越える長い黒髪は、光を受けると銀色の艶を帯びる。
白い肌と、薄紫を含んだ灰色の瞳。
華やかさを見せつける女ではなく、静かな夜に咲く蘭のような娘だといわれていた。
幼い頃から礼法や学問を教え込まれ、龍家の薬学や古い記録にも通じている。
家格。
血の濃さ。
教養。
どれを取っても、龍国公の妻として不足はない。
少なくとも、長老たちはそう考えていた。
「北の別邸にいるはずだ」
「王都へ戻ると」
「誰が話を進めている」
「長老たちだ。皆賛成していると聞いてる」
昊然の黒い瞳に、冷たい光が差した。
「本人は、何と言っている」
「まだ、何も」
「ならば話にもならない」
「静蘭殿が望めば、受けるのか?」
「受けない」
返事は早かった、暁嵐は兄を見つめる。
「婚姻するつもりがないから?」
「ああ」
「それとも、相手が静蘭殿だから?」
昊然の視線が鋭くなる。
「何が言いたい」
暁嵐は静かに答えた。
「人間と婚約できないことを、清遠だけが知っているわけじゃない」
昊然は何も答えなかった。
暁嵐は席を立つ。
「静蘭殿は、近いうちに王都へ戻る」
戸口へ向かいながら、背を向けたまま続けた。
「長老たちは、今度こそ話を曖昧には終わらせないだろうな」
暁嵐が客間を出る。
残された昊然は、一人、席へ座ったままだった。
静蘭であろうと。
ほかの龍家の女であろうと。
婚姻するつもりなどない。
その考えは、以前から変わっていなかった。




