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十一話 女の嫉妬



王宮の夜は、無数の灯火に包まれていた。


朱塗りの回廊には、金や薄紅色の灯籠が等間隔に吊るされている。

春の夜風が通り抜けるたび、灯籠の下へ垂れた長い房が揺れ、磨き上げられた床へ淡い影を落とした。

宴の開かれる大殿の前には、大輪の牡丹と白い蘭が飾られていた。


花の甘い香り。

沈香を焚いた煙。

厨房から運ばれてくる焼いた肉や香辛料の匂い。

それらが混じり合い、華やかな夜の空気を作り出している。


今夜は、北境の戦で功績を挙げた者たちを称えるための祝宴だった。

裴将軍と陸将軍をはじめ、戦へ参加した武官や王都の高官、その家族たちが王宮へ招かれている。


裴星揺ハイ・セイヨウは、陸鈴花リク・リンカと並んで大殿へ続く階段を上りながら、頭上の灯籠を見上げていた。


今夜の星揺は、淡い杏色の衣を身につけている。


襟元と袖には、細い金糸で小花が縫われていた。

艶やかな黒髪は半分だけ高く結い上げ、母の形見である銀の簪は屋敷へ置き、代わりに白玉の簪を挿している。


「星揺。前を見て」


鈴花が小声で注意する。


「見ているわ」


「今は灯籠を見ていたでしょう?」


「綺麗だったから、少し見ただけよ」


「階段で上を向いて歩くと、また転ぶわ」


「今日は裾も短くしてもらったもの」


「裾を踏まなくても、星揺は転べるでしょう?」


星揺が不満そうに鈴花を見る。


「どういう意味?」


二人の少し前を歩いていた裴景明ハイ・ケイメイが、振り返った。


「鈴花の言うことを聞け」


「兄上まで」


「王宮の階段で転べば、今度こそ笑い話では済まない」


「分かってる」


星揺は頬を膨らませたものの、それからは少しだけ大人しく前を向いた。

その隣では、裴春華ハイ・シュンカが小さく笑っている。


今夜の春華は、青磁色の衣を身につけていた。

淡い青とも緑ともつかない、春の湖面のような柔らかな色。

襟元には銀糸で細い蔓草が縫われ、袖口と裾には、小さな白い花が控えめに刺繍されている。


龍清遠から贈られた衣だった。


決して華美ではない。

けれど灯籠の光を受けるたび、布地には静かな艶が浮かび、春華の穏やかな顔立ちを引き立てていた。


星揺は、先ほどから何度も姉の姿を見ている。


「姉上、やっぱりその衣にしてよかったわね」


「もう何度目なの?」


春華が困ったように笑う。


「だって、本当によく似合っているもの」


「ありがとう」


「清遠様も、きっと驚くわ」


春華の頬へ、僅かに赤みが差した。


「星揺」


「何?」


「そのお名前を、大きな声で出さないで」


「どうして? 清遠様からいただいた衣でしょう?」


鈴花が星揺の袖を引く。


「星揺。今は黙っていてあげた方がよいと思うわ」


「私だけ悪いみたいに言わないでよ」


後ろを歩いていた叔母は、娘たちのやり取りを聞きながら静かに笑っていた。


裴将軍は何も聞こえなかったような顔をしていたが、眉間には深い皺が刻まれている。


     ◇◇


大殿の中には、すでに多くの客人が集まっていた。

高い天井から幾つもの灯りが吊るされ、金色の光が朱の柱と磨き上げられた床へ映っている。


中央には、舞や演奏を披露するための広い空間が設けられていた。

その周囲を囲むように、身分ごとの卓が並べられている。


卓の上には、蜜と香辛料を塗って焼いた鶏肉。

白身魚と春野菜を和えたもの。

木の実を包んだ餅。

桃や蓮の花をかたどった菓子。

赤や白の果実を盛った皿が、所狭しと並んでいた。


星揺の目は、席へ着く前から料理へ向いている。


「まだ食べるなよ」


景明が言った。


「分かってるってば」


「手が伸びかけていた」


「見てただけ」


星揺が言い返した時。

大殿の奥にいた一人の男が、こちらを見た。

龍清遠リュウ・セイエンだった。


淡い灰色の衣。

銀の冠でまとめられた長い黒髪。

夜の王宮では、日差しを遮る笠も日傘も必要ない。


清遠の視線が人々の間を抜け、青磁色の衣をまとった春華の上で止まった。

手にしていた杯が、僅かに静止する。

春華も、向けられた視線へ気づいた。


二人の目が合う。


春華は少しだけ目を伏せ、袖口へ刺繍された白い花へ指を添えた。

清遠の表情は、普段とほとんど変わらない。

それでも黒い瞳の奥へ、一瞬だけ柔らかな色が差した。


星揺は二人を交互に見た。

何かを言おうとして口を開く。

鈴花が先に星揺の腕を掴んだ。


「今は、見ていないふりをして」


「でも、姉上が――」


「見ていないふりよ」


鈴花に重ねて言われ、星揺は仕方なく口を閉じた。


その時。

大殿のさらに奥から、別の視線が向けられていることへ気づいた。墨色の衣をまとった龍昊然リュウ・コウゼンが、王族席の近くに立っていた。


黒銀の冠の下から、長い黒髪が背中へ流れている。

灯りに照らされた肌は白く、夜の中へ冷たい月だけが浮かんでいるように見えた。


星揺と昊然の目が合う。

昊然は何も言わない。

けれど、すぐに視線を逸らすこともしなかった。


星揺の胸が、僅かに鳴る。

なぜ見られているのだろうと思いながら、先に目を逸らした。


その様子を、少し離れた場所から見ていた令嬢がいた。

王都でも高い官職に就く男の娘だった。

華やかな紅色の衣をまとい、金や紅玉を連ねた簪を黒髪へ挿している。


彼女は以前から、昊然へ想いを寄せていた。

父親を介して挨拶をしても。

宴の席で近くを通っても。

昊然の黒い瞳が、自分の上へ長く留まったことは一度もない。


それなのに。


昊然は今、星揺を見ていた。

紅衣の令嬢は、扇の陰で唇を噛んだ。


     ◇◇


王の到着を知らせる鐘が鳴った。

大殿にいた者たちが、一斉に立ち上がる。


王・蕭承淵ショウ・ショウエンが、太子・蕭凌川ショウ・リョウセンと、昭華公主・蕭昭華ショウ・ショウカを伴って姿を現した。


承淵が王座へ着き、その右側へ凌川、左側へ昭華が座る。


祝宴が始まると、まず北境での戦功が読み上げられた。

裴将軍が少数の騎兵を率い、険しい山道を抜けて敵の補給路を断ったこと。

陸将軍が援軍の到着まで三日三晩、山門を守り抜いたこと。


二人の働きによって、北境の村や町へ敵兵が流れ込むのを防いだこと。

承淵から直々に労いの言葉を受け、裴将軍と陸将軍は深く頭を下げた。

星揺は、自分が褒められたような顔で何度も頷いている。


席へ戻ってきた裴将軍が、娘を見る。


「なぜ、お前が胸を張っている」


「父上が褒められたのですから、私も嬉しいの」


「騒ぐなよ」


「まだ何もしてないわ」


「先に言っている」


叔母が小さく笑った。


「皆、星揺へ同じことを言うのね」


     ◇◇


宴が進むにつれ、大殿の空気は次第に和らいでいった。

楽師の奏でる穏やかな曲に合わせ、鮮やかな衣をまとった舞姫たちが長い袖を翻している。

星揺は舞を見ながらも、目の前の料理を忘れてはいなかった。


白い小皿には、蜜を薄く塗った肉と、桃の花をかたどった菓子が載っている。


「この菓子、美味しいわ」


星揺が小声で言った。


「先ほどから、そればかり食べていない?」


鈴花が尋ねる。


「同じ形でも、中の餡が違うのよ。これは果実で、さっきのは木の実だったわ」


「本当?」


鈴花が少し興味を持ったように、星揺の皿へ顔を寄せた。

その時、太子の侍従が景明のもとへやってきた。


「景明様。太子殿下がお呼びでございます」


景明が顔を上げる。

凌川は若い武官たちと話しながら、こちらへ視線を向けていた。


「行ってくる」


景明が立ち上がる。

星揺は、すぐに兄を見る。


「最後の一射は、誰よりも中心だったとお伝えしてね」


「伝えるわけないだろ?」


「なんでよ?」


景明は返事をせず、凌川のもとへ向かった。

ほどなくして、今度は昭華の侍女が鈴花を呼びに来る。


「鈴花様。公主殿下が、少しお聞きしたいことがあるそうです」


鈴花は昭華のいる方を見た。


昭華は龍景雲リュウ・ケイウンと話していたが、鈴花へ気づくと手招きをしている。


「すぐに戻るわ」


鈴花は星揺へ言った。


「大丈夫よ。子どもじゃないんだから」


「知らない人についていっては駄目よ」


「それくらい分かってるわ」


「それから、春華姉様の後を勝手についていかないでね」


星揺の目が、僅かに泳いだ。


「どうして、そんなこと言うの?」


「さっきから、春華姉様と清遠様を交互に見ていたから」


「見てない」


「見ていたわ」


鈴花は小さく笑い、昭華のもとへ向かった。


その少し後。

春華が、そっと席を立った。

清遠が大殿の端にある柱の近くから、春華へ僅かに頭を下げていた。


春華はまず、叔母へ目を向ける。

叔母は清遠の姿と、二人きりにならない場所であることを確かめたあと、穏やかに頷いた。

春華は裾を整え、大殿の外へ続く回廊へ向かっていった。


清遠も少し間を置き、人々の間から静かに離れる。

星揺は、二人の後ろ姿をじっと見送った。


もしかして、呼び出し?


ということは、清遠は、青磁色の衣を見て何と言うのだろう。

ほんの少し見るだけなら、姉の邪魔にはならないかもしれない。


けれど、すぐ近くには叔母がいる。


鈴花が席を離れた今、自分が星揺を見ていなければならないと思っているのだろう。

叔母は時折、星揺へ視線を向けていた。

星揺は手にした小皿へ目を落とした。


桃の菓子が一つ。

蜜を塗った肉が二切れ。

その横には、まだ口をつけていない赤い果実が載っている。


食べながら大人しく待っているふりをして、そっと叔母の様子を窺った。


ちょうどその時。

陸将軍と親しい武官の夫人たちが、叔母へ挨拶に訪れた。


「陸夫人。ご主人のご帰還、誠におめでとうございます」


叔母は席を立ち、相手へ丁寧に頭を下げる。


「ありがとうございます。皆様のお力添えがあってこそでございます」


さらに別の夫人も加わり、北境の話を尋ね始めた。

叔母の顔が、完全に星揺から逸れる。


――今だ。


星揺は小皿を持ったまま、音を立てずに腰を上げた。

卓と卓の間を抜ける。

一度だけ振り返ると、叔母はまだ夫人たちと話していた。


星揺は衣の裾を片手で持ち上げ、春華たちが出ていった回廊へ急いだ。


ほんの少し見るだけ。

姉に見つからないうちに戻れば、叔母にも気づかれない。


自分へそう言い聞かせながら。


     ◇◇


大殿を出ると、春の夜気が火照った頬へ触れた。

長い回廊には、赤い灯籠が等間隔に吊るされている。

風が通るたびに明かりが揺れ、朱塗りの柱へ淡い影を落としていた。


宴の音楽はまだ聞こえる。

けれど人々の声は遠ざかり、灯籠の小さく軋む音や、庭の水路を流れる水音がはっきりと耳へ届いた。


回廊の先で、春華の青磁色の裾が角を曲がるのが見えた。

星揺は少しだけ足を速める。


「姉上……」


呼びかけそうになり、慌てて口を閉じた。

声を出せば、後をつけていることが分かってしまう。

角を曲がると、小さな月門の向こうから、低い話し声が聞こえた。


星揺は柱の陰へ身体を寄せ、そっと顔を覗かせる。

月門の先には、池へ面した小さな水亭があった。

春華と清遠が、灯籠の下で向かい合っている。


二人の間には十分な距離があり、近くには王宮の宮女も控えていた。


「お召しくださったのですね」


清遠が、春華の衣へ目を向ける。

普段と変わらない静かな声。

それでも、春華を見つめる黒い瞳は柔らかかった。


「はい」


春華は袖口の白い花へ、そっと指を添えた。


「とても気に入りましたので」


「よく、お似合いです」


短い言葉だった。


けれど春華の頬は、夜の灯りの下でも分かるほど赤くなった。


「ありがとうございます」


春華は僅かに目を伏せる。


「この白い花は、あの日の花を思い出して選んでくださったのですか?」


清遠が一瞬、答えを止めた。


「……よく似ていたので」


「そうだったのですね」


春華は嬉しそうに微笑んだ。

清遠の目が、その笑顔へ留まる。


自分が何者であるのかも。

なぜ彼女へ近づいたのかも知らず。

春華は清遠の行動へ、純粋な好意だけを見つけている。


そのことが、胸の奥へ小さな痛みを残した。


「ただ、叔母上からも申し上げたとおり、今後はあまり高価なものをお贈りにならないでくださいませ」


春華が少し困ったように続ける。


「お気持ちだけで、十分に嬉しく思います」


「承知しました」


清遠は答えた。

けれど、すぐに言葉を継ぐ。


「先日お渡しした詩集には、続きがあるようです」


春華が顔を上げる。


「続きが?」


「はい。書店の主人へ尋ねたところ、別の巻を持つ者がいると聞きました」


春華の目が輝く。

その変化を見て、清遠の口元が僅かに緩んだ。


「手に入りましたら、お持ちいたします」


「ですが、それではまた清遠様からいただくことに――」


「今度は、お貸しするだけにいたしましょう」


春華は少し考えたあと、柔らかく笑った。


「それでしたら、お願いいたします」


柱の陰で見ていた星揺は、声を出さないよう口元を押さえた。

姉のあのような笑顔を、今まで見たことがあっただろうか。


嬉しそうで、少し恥ずかしそうで。

それでも清遠と話すことを、心から楽しんでいる。

もう少しだけ見ていたい。


そう思った時。


後ろから、幾つかの足音が近づいてきた。


「星揺様」


突然呼ばれ、星揺は驚いて振り返った。

紅色の衣をまとった令嬢が、三人の娘を連れて立っている。

手には、銀の酒杯を持っていた。

宴の席で昊然を見ていた令嬢だった。

星揺は顔を知っているだけで、名までは知らない。

けれど、偶然ここへ来たようには見えなかった。


「何をなさっているの?」


紅衣の令嬢が、柱の向こうへ目を向ける。


星揺は咄嗟に一歩前へ出た。

姉と清遠が話していることを、余計な者へ知られたくなかった。


「少し、夜風に当たっていただけです」


「小皿を持って?」


令嬢の視線が、星揺の手元へ落ちる。


「食べかけだったので、持ってきただけです」


「そう」


令嬢は小さく笑った。


「本当に、何もお気になさらない方なのね」


「何のお話ですか?」


「龍国公様に、何度も助けていただいたそうですわね」


星揺は、僅かに眉を寄せた。


「はい。」


「そう、何度も偶然が重なるものかしら」


「さぁ?私にも分かりません」


「龍国公様へ近づくため、わざと困ったふりをなさったのではなくて?」


星揺の表情が変わる。


「そんなことはしてません」


「皆の前では、何も知らない顔をして」


令嬢が一歩、星揺へ近づいた。


「弓競べの日も、今夜の宴でも、龍国公様はあなたをご覧になっていたわ」


「私を?」


星揺が思わず聞き返すと、令嬢の顔が歪んだ。


「その顔が気に入らないのよ」


「私は、本当に何も――」


「分からないふりをするのは、おやめなさい」


「ふりではありません」


星揺は相手を真っ直ぐに見た。


「それに、龍国公様が誰をご覧になるかは、私が決められることではないでしょう?」


悪意のない言葉だった。

けれど令嬢には、余裕を見せつけられたように聞こえた。


令嬢の手が、星揺の持つ小皿へ伸びる。


次の瞬間。

小皿が強く払い落とされた。

白磁の割れる音が、静かな回廊へ響く。


桃の菓子。

蜜を塗った肉。

赤い果実。


すべてが磨かれた床へ散らばった。

星揺は、床を見つめた。

驚きよりも先に、強い怒りが胸の奥から込み上げてくる。


ゆっくりと顔を上げた。


「今のは、わざとですね」


「手が当たってしまっただけですわ」


紅衣の令嬢が扇を開く。

後ろの娘たちが、小さく笑った。

星揺は床へ落ちた食べ物へ、もう一度目を向けた。


「私がお気に召さないのでしたら、私へ直接そう言ってくれたらいいのに…」


声が、僅かに震えている。

怯えているのではない。

込み上げる怒りを抑えているためだった。


「食べ物を粗末にする必要はないでしょう」


令嬢の笑みが消える。


「随分と立派なことを仰るのね」


「この料理は、今夜のために誰かが作ったものです」


星揺は相手から目を逸らさない。


「育てた方も、運んだ方もいます。それを、私への嫌がらせのために落とすなんて」


「星揺様は、王宮の料理人の心配までなさるの?」


「当たり前でしょう」


星揺は一歩、前へ出た。


「謝ってください」


令嬢たちは、思わず黙った。

泣くと思っていたのだろう。

怯え、何も言わず逃げ出すと思っていた。

まさか正面から謝罪を求められるとは、考えていなかったらしい。


紅衣の令嬢は、銀の酒杯を強く握った。


「龍国公様に守られていると思っているから、そのような口を利けるのでしょう?」


「龍国公様は関係ありません」


星揺は即座に答えた。


「これは、あなたと私の話です」


「関係ないはずがないでしょう!」


令嬢の声が、初めて大きくなる。


「あなたが現れてから、あの方は――」


そこまで言い、唇を噛んだ。星揺は困惑していた。


「龍国公様と、何かお約束をなさっているのですか?」


「……何ですって?」


「それほど気になさるのでしたら、婚約などのお話があるのかと」


本当に、そう思っただけだった。

けれど令嬢にとって、それは最も触れられたくないことだった。

昊然との間には、何の約束もない。

挨拶をしても、昊然が自分の名を呼ぶことすらほとんどなかった。


令嬢の顔が、怒りで赤くなる。


「馬鹿にしているの?」


「していません」


「何も知らないくせに!」


銀の酒杯が傾いた。

星揺が避けるより早く。

冷たい酒が、頭から肩へ浴びせられた。


「……っ」


甘く強い酒の匂いが広がる。

髪から滴り。

頬を伝い。


杏色の衣の肩と胸元へ、大きな染みを作った。

袖を伝った酒が、裾まで濡らしていく。

星揺は目を見開いた。


紅衣の令嬢は、空になった杯を見下ろす。


「まあ。また手が滑ってしまったわ」


後ろの娘たちが笑った。

星揺の拳が、固く握られる。

今すぐ、その笑う顔を叩きたい。


韓家の宴で母の簪を池へ落とされた時と同じように、身体が前へ出そうになる。

けれど父の顔が浮かんだ。


叔母の言葉も。


気づかれないように席を抜けた自分が騒ぎを起こせば、叔母にも父にも大きな迷惑がかかる。

星揺は唇を噛み、どうにか踏みとどまった。


「今のことも、手が滑ったと仰るのですか」


低い声だった。


「ええ」


「ならば、謝ってください」


「どうして私が?」


「皿のことも、酒のこともです」


「嫌だと言ったら?」


星揺は相手を睨んだ。

その目には涙ではなく、怒りが浮かんでいる。


「父上か太子殿下へ、お話しします」


令嬢の顔が強張る。


「私の父が誰か、分かっているの?」


「知りません」


あまりにも迷いなく答えられ、令嬢は言葉を失った。


「ですが、誰のお嬢様であっても、悪いことをしてよい理由にはならないでしょう?」


星揺が一歩、相手へ近づいた。

濡れた裾が足へ絡む。

床へ落ちた酒に、靴底が滑った。


「きゃっ……」


身体が傾く。

割れた皿を踏まないよう、咄嗟に足を捻った。

右足首へ、鋭い痛みが走る。


床へ倒れる、そう思った時。

強い腕が、星揺の腰を支えた。


酒と花の匂いの中へ、冷たい香の気配が混じる。

星揺が息を呑み、顔を上げた。

すぐ近くに、昊然の顔があった。


「龍国公様……」


黒い瞳が、星揺を見下ろしている。

昊然の表情は変わらない。


けれどその視線が、酒に濡れた髪から頬、衣へ移るにつれ、回廊の空気が静かに冷えていった。

昊然は片手で星揺を支えたまま、自らの外衣を外した。


墨色の布が、星揺の肩から身体へ掛けられる。

濡れた髪も、酒の染みた胸元も。

周囲から隠すように、厚い布で包み込んだ。

紅衣の令嬢の顔から、血の気が引く。


「誰がやった」


昊然の低く冷たい声が、回廊へ落ちた。


「龍国公様。星揺様が、ご自分で――」


昊然の視線が、令嬢へ向く。

それだけで、続くはずだった言葉が止まった。


「誰が、やったと聞いた」


「わ、私の持っていた酒が、少しかかってしまっただけで……」


「では、皿は」


令嬢は答えられない。

昊然は、それ以上追及しなかった。

腕の中にいる星揺へ視線を戻す。


「立てるか」


「はい」


星揺は反射的に答えた。

昊然の腕から離れ、自分の足で立とうとする。

右足へ体重をかけた瞬間。


ズキンと、激しい痛みが走った。


「っ……」


その瞬間、顔が歪み身体が揺れ、昊然の手が再び腰を支える。


「歩けます」


「無理をするな」


「でも、父上たちが――」


星揺が言い終える前に。

昊然は、彼女の背と膝裏へ腕を回した。

身体が、ふわりと床から浮く。


「え……」


星揺は反射的に、昊然の胸元を掴んだ。

昊然は、外衣に包まれた星揺を抱き上げていた。

まるで重さなど感じていないような、安定した腕。


星揺の身体が、昊然の胸元へ近づく。

すぐ目の前に、彼の美しい顔がある。


長い黒髪、スッと真っ直ぐな鼻筋。

灯籠の光を映さない、夜のような瞳。

星揺の胸が、大きく鳴った。


怒っていたはずなのに。

足も痛いはずなのに。

今は、自分の鼓動ばかりがやけに耳へ響いている。


昊然が星揺へ視線を落とすと、二人の目が重なった。

どちらも、すぐには逸らさなかった。


もちろん、言葉はない。

ただ灯籠の炎が揺れ、遠くから宴の音が聞こえる。

星揺は何かを言おうとした。

けれど、何を言えばよいのか分からなかった。


昊然も何も言わない。

星揺を抱く腕へ、ほんの僅かに力が入った。


その時。

回廊の向こうから、景雲が歩いてきた。

昊然と景雲は、王・承淵へ届けられた北境からの報告を確認するため、先ほど大殿の脇にある小部屋へ呼ばれていた。

戻る途中、皿の割れる音と女たちの声を聞いたのだった。


景雲は床へ散らばった食事と、割れた皿。

そして、酒に濡れた星揺。

空の酒杯を持つ令嬢を順に見た。


「昊然様」


昊然は令嬢たちへ一度だけ目を向ける。


「景雲」


「はい」


「後は任せる」


景雲は静かに頭を下げた。


「承知いたしました」


昊然は星揺を抱いたまま、控えの間へ向かって歩き始めた。

星揺は彼の胸元を掴んだまま、昊然の横顔を見つめている。


歩くたび、腕から確かな体温が伝わった。

鍛えられた胸板、広い胸、しっかりとした体つきに、ぽっと、頬が染まるのが分かった。


昊然が一度、星揺へ目を向ける。

また、視線が重なる。

星揺の胸が、先ほどより強く鳴った。

昊然は何も言わず、そのまま前を向いた。


星揺も、何も尋ねなかった。

ただ二人の間には、これまでとは違う静かな空気が残っていた。


     ◇◇


昊然が星揺を連れていったあと。

景雲は、その背中が回廊の角へ消えるまで見送った。


それから令嬢たちへ向き直る。

口元には、普段と変わらない穏やかな笑みが浮かんでいる。


「何があったのか、最初からお話しください」


紅衣の令嬢は、乱れた呼吸を整えるように胸元へ手を添えた。


「何も、ございませんわ」


「何も?」


「星揺様が突然こちらへ近づいてきて、ぶつかっただけです」


景雲は床へ目を向ける。

割れた白磁の皿。


散らばった菓子と料理。


少し離れた場所には、空になった銀の酒杯が落ちている。


「何が起きたのか、順を追ってお話しください」


景雲の声は、まだ穏やかだった。



「ですから、星揺様が勝手に――」


「ぶつかっただけなら、頭から酒をかぶることはない筈です」


令嬢は答えなかった。

景雲の口元には、まだ薄い笑みが残っている。


「お答えください」


「なぜ、私だけが説明しなければなりませんの?」


令嬢は強がるように顎を上げた。


「私は、偶然ここを通っただけですわ」


景雲の笑みが消えた。

柔らかく細められていた目が、冷たく令嬢へ向けられる。


声を荒らげたわけではない。

一歩、近づいたわけでもない。

それでも、その場の空気は一変した。

景雲の声から、完全に温度が消える。


「ですから、事故で――」


「事故かどうかを決めるのは、お前たちではない」


令嬢たちの顔から、血の気が引いた。

普段なら、景雲は相手が誰であっても丁寧に話す。


穏やかな声を崩すこともない。

その景雲から敬語が消えたのだ。

それだけで、彼の怒りがどれほど深いのか分かった。


後ろにいた娘の一人が、慌てて口を挟む。


「私たちは、本当にお話をしていただけですわ」


景雲の視線が、ゆっくりその娘へ移る。


「では、見たことをすべて話してもらおう」


娘の唇が震え、声が出なくなった。


「答えろ」


短い言葉が、回廊へ落ちる。

誰もが息を呑んだ。

紅衣の令嬢は、扇を強く握りしめた。


「景雲様、私の父が誰か、ご存じでしょう?」


景雲の目は、少しも揺れなかった。


「ええ」


「でしたら――」


「父親の名を出せば、何をしても許されると?」


令嬢は言葉を失った。

景雲は、近くへ控えていた宮女へ顔を向ける。

その時だけ、声へ僅かに礼儀が戻った。


「この回廊を通った者と、近くにいた宮女を全員呼んでください」


「かしこまりました」


「床の物には触れないように」


「はい」


宮女たちが動き始める。

景雲は再び令嬢たちを見る。

黒い瞳には、誰一人逃がすつもりがないことが表れていた。


「今ここで話すか」


静かな声だった。


「目撃した者たちの前で、嘘を一つずつ暴かれるか」


一拍の沈黙。


「選んでください」


令嬢たちは、とうとう顔を伏せた。

その時になって、ようやく理解したのだ。


龍景雲は、いつも昊然の半歩後ろで穏やかに笑い、柔らかな声で話し、誰に対しても礼を失わない。

しかし、ただ優しいだけの男ではないと。



     ◇◇


昊然は、星揺を大殿から離れた控えの間へ運んだ。

部屋には低い寝台と、衣を整えるための衝立が置かれている。

開け放たれた窓の向こうでは、夜風に竹の葉が揺れていた。


宮女たちが慌てて駆け寄る。


「お怪我を?」


「足を痛めた」


星揺が答えるより先に、昊然が言った。

宮女の一人が、すぐに女医を呼びに走る。

昊然は寝台の前まで進み、星揺を静かに下ろした。

右足を床へつけないよう、背を支えながら座らせる。


身体が離れた。

その瞬間。


星揺は、先ほどまで自分を包んでいた腕の温かさがなくなったことへ、妙な物足りなさを覚えた。

自分でも驚き、すぐに視線を落とす。

肩には、まだ昊然の外衣が掛けられている。

墨色の布からは、微かに冷たい香りがした。


「痛むか」


「少しだけです」


星揺は右足首へ触れた。


「歩けないほどではありません」


「無理に歩くな」


「でも、父上たちが心配します」


「私が知らせる」


「宴の途中なのに……」


昊然は何も答えなかった。

ただ、星揺の濡れた髪と頬を見ている。


星揺も顔を上げた。

二人の目が合う。

先ほど抱き上げられた時より、距離は離れている。

それなのに、胸の高鳴りは収まらなかった。


酒の匂い。

夜風に揺れる竹の音。

遠くから聞こえる宴の音楽。


その間で、二人だけが言葉を失ったように見つめ合っていた。

星揺は何かを言おうとした。

けれど、口にすべき言葉が見つからない。


昊然も何も言わない。

星揺の肩へ掛けられた外衣へ一度目を落とし、それから、また星揺を見た。


とても、長い沈黙だった。

けれど不思議と、苦しくはない

やがて廊下から、女医と宮女たちの足音が近づいてきた。


昊然が僅かに身を引いた。


「龍国公様」


星揺がそう呼べば、昊然が足を止めた。

星揺は胸元で黒い外衣を握り、まっすぐに彼を見た。


「……ありがとうございました」


昊然は返事をしなかった。

ただ、ほんの僅かに黒い瞳を細める。


二人の視線が、もう一度重なった。

すぐには、どちらも目を逸らさない。

星揺の胸が、また小さく鳴った。

昊然はやがて前を向き、宮女たちと入れ替わるように部屋を出ていった。


戸が閉じられる。

星揺は、肩へ掛けられた黒い外衣を見下ろした。

布には、まだ昊然の体温が残っている。

胸の奥が、もう一度強く鳴った。


それがなぜなのか、今の星揺にはまだ分からなかった。

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