十二話 白い花の約束
大殿の賑わいから少し離れた水亭には、春の夜の静けさが満ちていた。
池の水面には、回廊へ吊るされた灯籠の明かりが細長く映っている。
風が吹くたび、金色や薄紅色の光が水の上で揺れ、赤や白の魚がその下を影のように泳いでいった。
水亭の屋根から垂れた小さな玉飾りが、涼やかな音を立てる。
遠くから聞こえる笛と琴の音も、ここまで来れば柔らかく薄れていた。
裴春華は、白い石造りの欄干のそばへ立っていた。
青磁色の衣の裾が、夜風に静かに揺れている。
襟元には銀糸の蔓草。
袖口には、小さな白い花。
灯籠の光を受けた刺繍が、春華の手元で淡く輝いていた。
少し離れたところに、龍清遠が立っている。
淡い灰色の衣をまとい、長い黒髪を銀の冠でまとめていた。
彼の涼やかな目元は、昼よりも夜の景色によく馴染んでいる。
清遠は春華の姿を見たまま、暫く何も言わなかった。
自分で選んだ色だった。
銀糸を使うよう命じ。
大きな花ではなく、小さな白い花を入れさせた。
春華が普段好んで身につけるものを思い出しながら、細かなところまで選んだ衣。
似合うだろうとは思っていた。
けれど実際に目の前へ立つ春華は、想像していたものとは少し違っていた。
青磁色の衣は彼女の穏やかさを引き立てている。
灯籠の光が頬へ落ちるたび、その表情まで柔らかく見えた。
「……よく、お似合いです」
清遠がようやく言った。
春華の頬へ、淡い赤みが差す。
「ありがとうございます」
袖口へ指を添え、白い花の刺繍をそっと撫でる。
「とても気に入っております」
清遠の目が、その指先へ向けられた。
「お好みに合わなければ、別のものへ替えようと思っておりました」
「そのような必要はございません」
春華は小さく首を振る。
「色も、刺繍も、本当に綺麗で……」
そこで一度言葉を止め、白い花へもう一度目を落とした。
「この花は、あの日に拾ったものを思い出して選んでくださったのですか?」
清遠の指が、衣の袖の中で僅かに動いた。
南市の石畳へ散らばった白い花。
折れた茎。
傷のついた花弁。
春華はそれらを一つずつ拾いながら、こう言った。
――傷がついても、花は花ですから。
あの言葉は、今も清遠の耳へ残っている。
「……よく似ていたので」
清遠は短く答えると、春華が顔を上げた。
「覚えていてくださったのですね」
春華は、嬉しそうに笑った。
清遠は、すぐには答えられなかった。
ただ、忘れられなかったのだ。
花を拾う指も。
老人を案じる横顔も。
誰かへ見返りを求めることなく、自然に手を差し伸べる姿も。
けれど、それをそのまま口にすることはできない。
「衣商で見かけた際に、似ていると思っただけです」
「それでも、嬉しいです」
春華は疑うことなく答えた。
清遠の言葉の奥へ、何かを探ろうともしない。
自分へ向けられた心遣いだけを受け取り、大切にしようとしている。
その素直さが、清遠の胸へ小さな痛みを残した。
「ただ……」
春華が少し困ったように続ける。
「叔母上からも申し上げたとおり、今後は、このように高価なものをお贈りにならないでくださいませ」
「…ご迷惑でしたか?」
「いいえ」
春華は慌てて首を振った。
「迷惑ではございません。…とても嬉しかったのです」
その言葉に、清遠の黒い瞳が僅かに揺れる。
春華は恥ずかしそうに目を伏せた。
「ですが、私たちはまだ二度しかお会いしておりません。それなのに、このように立派なものをいただいてしまっては……」
「分かりました」
清遠は静かに答えた。
「次からは、気をつけます」
「次が、あるのですか?」
春華が思わず尋ねた。
清遠は一瞬、言葉を止めた。
春華も自分が何を聞いたのか気づき、頬を赤くする。
「いえ、その……」
「先日お渡しした詩集には、続きがあるようです」
清遠がすぐに話を変えるように告げた。
春華の表情が変わる。
「続きが?」
「はい」
「同じ方が書かれたものですか?」
「そのようです。書店の主人へ尋ねたところ、別の巻を持つ者がいると聞きました」
春華の目が、灯籠の明かりを受けて輝いた。
古い詩集。
黄ばんだ紙。
名も知らない者が余白へ残した書き込み。
どの言葉にも、その人が何を思い、どのような景色を見ていたのかが滲んでいた。
春華は、あの本を何度も読み返していた。
「手に入りましたら、お持ちいたします」
「ですが、またいただくわけには……」
「今度は、お貸しするだけにしましょう」
春華は少し考えた。
やがて、柔らかく笑う。
「それでしたら、お願いいたします」
その笑顔を見た瞬間。
清遠は自分の口元が僅かに緩むのを感じた。
詩集の続きを探すことは、任務とは関係がない。
春華ともう一度会う理由を作る必要など、本来はない。
信頼を得るだけなら、すでに十分だった。
それでも。
彼女が本を受け取った時に、どのような顔をするのか見てみたいと思った。
「必ず探します」
思ったよりも強い言葉が口から出た。
春華が少し驚いたように瞬きをする。
「無理はなさらないでくださいませ」
「無理ではありません」
「ですが、珍しい本なのでしょう?」
「見つけます」
清遠は、もう一度言った。
春華は暫く彼を見つめたあと、小さく笑った。
「では、楽しみにしております」
その言葉が、清遠の胸へ静かに残った。
◇◇
大殿から聞こえる曲が変わった。
先ほどまでの穏やかな琴の音に、笛と太鼓が加わっている。
宴が次の舞へ移ったのだろう。
春華は音のする方へ顔を向けた。
「そろそろ戻らなくてはなりません」
「そうですね」
清遠は答えた。
二人が席を離れてから、それほど長い時間は経っていない。
けれど、これ以上二人で話していれば、余計な噂を招くかもしれなかった。
春華は清遠へ丁寧に頭を下げる。
「御衣と、詩集のこと。改めて御礼申し上げます」
「礼は、もう十分にいただきました」
「それでも、お伝えしたかったのです」
清遠も静かに頭を下げた。
二人は水亭を出た。
月門をくぐるところまで、清遠が春華の後ろを歩く。
そこから先は、人の多い大殿へ続く回廊だった。
春華が足を止める。
「こちらで」
「はい」
清遠は、それ以上ついていかなかった。
春華は一度、清遠を振り返る。
青磁色の裾が、夜風に小さく揺れた。
「詩集の続きを、楽しみにしております」
「承知いたしました」
清遠が答える。
春華は小さく微笑み、回廊を歩き始めた。
清遠は、その後ろ姿が灯籠の向こうへ消えるまで見送っていた。
◇◇
春華は一人、大殿へ戻る道を歩いていた。
先ほど清遠から言われた言葉が、何度も胸の中へ蘇る。
――よく、お似合いです。
それだけの短い言葉。
けれど、春華には十分だった。
清遠が自分の姿を見た時、一瞬言葉を止めたこと。
白い花を覚えていてくれたこと。
詩集の続きまで探してくれていること。
先程の事を思い出すたび、胸の奥が温かくなる。
その気持ちをどう呼べばよいのか、春華にはまだ分からなかった。
ただ、次に会う理由ができたことが、素直に嬉しかった。
大殿まで、あと僅か。
そう思った時。
正面から、宮女が慌ただしい足取りで走ってきた。
春華の姿を見つけると、すぐに足を止める。
宮女の顔には、明らかな焦りが浮かんでいた。
春華の胸へ、嫌な予感が走る。
「何かございましたか?」
「妹君が、控えの間へ運ばれました」
春華の顔から、血の気が引いた。
「星揺が?」
「はい。酒を浴びせられ、足をお痛めになったとのことでございます」
「どちらですか」
声が震える。
「ご案内いたします」
宮女が身を翻す。
春華は裾を持ち上げ、その後を追った。
先ほどまでの穏やかな表情は消えている。
「星揺……」
春華は、無意識に妹の名を呼んだ。
◇◇
春華が部屋へ入ると、星揺は低い寝台へ座っていた。
杏色の衣は酒に濡れ、黒髪もまだ湿っている。
肩には、見覚えのない墨色の外衣が掛けられていた。
外衣の襟へ、黒銀の糸で龍の紋が縫われている。
昊然のものだと、すぐに分かった。
「星揺!」
春華が名を呼ぶ。
星揺が顔を上げた。
「姉上……」
少し気まずそうな声だった。
春華は星揺の前へ膝をつく。
酒に濡れた頬。
冷えた指。
僅かに腫れ始めている右足首。
一つずつ確かめる。
「ほかに痛いところは?」
「ないわ」
「本当に?」
「足を少し捻っただけよ」
「頭は打っていない?」
「打ってないわ」
「酒が目に入ったりは?」
「少しだけ。でも、もう痛くない」
星揺は、いつものように大したことではない顔をしようとしていた。
春華はその顔を見つめた。
やがて、星揺の身体をそっと抱き締めた。
「姉上?」
星揺が驚いたように瞬きをする。
春華の腕には、僅かに力が入っていた。
「一人でいなくならないで」
声が震えている。
「何かあったのかと思ったら、怖かったの」
「ごめんなさい」
星揺の表情から、強がりが消えた。
「姉上の後を、少しだけ見に行こうと思ったの」
春華が身体を離す。
「私の後を?」
「だって、清遠様とどのようなお話をするのか、気になって……」
春華の頬が、一瞬赤くなる。
けれど、すぐに困った顔へ戻った。
「それで、一人で大殿を出たの?」
「叔母上には気づかれないようにしたわ」
「それは、自慢することではありません」
星揺は小さく肩を落とした。
春華は、もう一度妹の濡れた髪へ目を向ける。
用意された布を取り、優しく水分を拭き始めた。
「何があったの?」
星揺は少し黙った。
「何人かの令嬢に呼び止められたの」
「なぜ?」
「龍国公様に、何度も助けていただいたことが気に入らなかったみたい」
春華の手が止まる。
「それで、星揺へ酒を?」
「その前に、私が持っていた料理も床へ落としたわ」
星揺の目へ、再び怒りが浮かんだ。
「私のことが嫌いなら、私へ何か言えばいいのよ。それなのに、何も悪くない食べ物を落としたの」
春華は妹の顔を見つめた。
衣を濡らされたことより。
大勢に囲まれたことより。
食べ物を粗末にされたことへ、誰より怒っている。
「言い返したの?」
「謝ってくださいと言ったわ」
「叩いたりは?」
「してないわ」
星揺は少し胸を張る。
「父上や叔母上へ、迷惑をかけたくなかったから我慢したの」
春華の目元が、僅かに柔らかくなる。
「よく我慢したわね」
「本当は、少しくらい叩いてもよかったと思うけど」
「それでは、我慢したことにならないでしょう?」
星揺は不満そうに唇を尖らせた。
けれど、春華がもう一度濡れた髪を拭き始めると、大人しく俯いた。
「でも、龍国公様が、助けてくださったのね」
春華の視線が、星揺の肩に掛けられた外衣へ向く。
星揺の指が、黒い布へ触れた。
「うん」
「また?」
「……うん」
三度目だった。
母の簪を池へ落とされた時。
韓家の石段で転びかけた時。
そして今夜。
星揺が困っている時、昊然はいつも現れる。
「抱いて、ここまで運んでくださったの」
星揺の声が、少しだけ小さくなる。
春華は妹の頬を見た。
酒のせいだけではない赤みが、僅かに残っている。
「そう」
春華は、それ以上何も言わなかった。
ただ、星揺の肩へ掛かる墨色の外衣を丁寧に整えた。
◇◇
その夜。
宴から龍家の屋敷へ戻った清遠は、灯りを落とした書房へ一人でいた。
机の上には、傷のついた白い花が置かれている。
花弁は少し乾き始めていたが、清遠は捨てることができず、水を入れた小さな器へ挿していた。
その隣には、春華から届いた礼状がある。
――お心遣いだけで、十分に嬉しく思っております。
何度読んだか分からない一文。
清遠は礼状を開き、もう一度その文字へ目を落とした。
青磁色の衣をまとった春華。
袖口の白い花へ触れた指。
詩集の続きがあると知った時の、輝くような目。
――楽しみにしております。
その声を思い出す。
机の外から、控えめに戸を叩く音がした。
「入れ」
家人が一通の書状を持って入ってくる。
「清遠様。南市の書店より、知らせが届いております」
清遠が封を開く。
探していた詩集の続巻を、郊外の蒐集家が所有しているらしい。
譲る意思があるかは、まだ分からない。
清遠は書状を読み終えると、すぐに家人へ渡した。
「明朝、使いを出せ」
「先方は、王都から半日ほどかかる場所にございます」
「構わない」
「お急ぎになりますか?」
清遠は一瞬、黙った。
春華の笑顔が、脳裏へ浮かぶ。
「任務に必要だ」
家人は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
戸が閉じられる。
再び一人となった書房で、清遠は礼状へ目を戻した。
詩集の続巻が任務へ必要な理由などない。
春華へ近づくためなら、ほかにも幾らでも手段がある。
それでも。
彼女が本を受け取った時の顔を、一日でも早く見たいと思っている。
清遠は白い花へ指を伸ばした。
触れる寸前で、その手を止める。
「任務だ」
誰もいない部屋で、もう一度呟いた。




