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十三話 眩しい人


夜宴から、三週間が過ぎていた。


春の陽が、裴家の庭を明るく照らし、枝先に芽吹いた若葉は、風が通るたび柔らかく裏返り、淡い色と濃い色を交互に見せていた。

石畳の隙間には小さな草が顔を出し、軒下では燕が巣へ運ぶ泥を嘴に咥えている。


裴星揺ハイ・セイヨウは、開け放たれた窓の前へ立ち、右の足首をゆっくりと動かしていた。


爪先を伸ばす。

戻す。

足首を小さく回す。


夜宴の翌朝には、足首が一回り大きく見えるほど腫れていた。


それから数日、寝台から立ち上がるたびに鈍い痛みが走り、ようやく、部屋の中をゆっくり歩けるようになった。


腫れはほとんど引き、布も外されている。

普通に歩くだけなら、もう痛みはなかった。

ただし階段を下りる時や、急いで右足へ体重をかけた時には、まだ僅かな違和感が残っている。


「もう大丈夫ね」


星揺は満足そうに呟き、少し勢いをつけて窓辺から離れた。


一歩。


二歩。


三歩目で、右足の運びが僅かに遅くなる。

それを見ていた侍女のまつ毛が、呆れたように伏せられた。


「今、右足を庇われました」


「庇ってないわ」


「歩幅が違いました」


「少しくらいは違うでしょ?人間の足は二本とも、まったく同じではないもの」


「そのようなお話ではございません」


侍女は寝台の脇へ視線を向けた。

そこには、濃い布に包まれた黒い外衣が置かれている。


夜宴の夜。


酒を浴びせられた星揺の身体を隠すように、龍昊然が掛けてくれたものだった。


厚みのある墨色の布。

襟や裾へ黒銀の糸で施された、細い龍の刺繍。

酒の匂いを落とすため、裴家の侍女たちは布を傷めぬよう何度も水を替え、香を強く残さないよう陰干しをした。


ようやく返せる状態へ整ったのだ。

星揺は外衣の前へ膝をつく。

包みを少し開き、折り目が乱れていないか確かめる。

指先が黒い布へ触れた。


その瞬間。


身体が床から浮いた時の感覚が、鮮明に蘇った。

膝裏と背中へ回された腕。

落とされる心配など、一度も感じなかったほど安定した抱き方。


近すぎる距離で見た、陶器のように綺麗な肌。

自分を見下ろしていた、夜より深い黒い瞳。

星揺の指が、外衣の上で止まった。


あの夜から何日も過ぎたのに。

黒い布を見るたび、なぜか思い出してしまう。


抱き上げられたことだけではない。

控えの間で、何も言わずに見つめ合った時間まで。

胸の奥が、あの時と同じように小さく鳴った。


「お嬢様?」


侍女に呼ばれ、星揺は弾かれたように顔を上げた。


「何?」


「先ほどから、御衣をご覧になったままです」


「畳み方を確認していたのよ」


星揺は慌てて包みを閉じる。


「失礼があってはいけないでしょう?」


「左様でございますね」


侍女は素直に頷いた。

けれど、口元には僅かな笑みが浮かんでいる。

星揺はそれに気づき、眉を寄せた。


「何よ、その顔は」


「何でもございません」


「何でもない顔には見えないわ」


星揺が追及しようとした時、部屋の外から鈴のような声がした。


「何が、何でもないの?」


戸が開き、陸鈴花リク・リンカが姿を現した。

薄い水色の衣に、白い帯。

艶やかな黒髪は低い位置で一つにまとめられ、銀の小さな髪飾りが光っている。


鈴花は部屋へ入ると、まず星揺の顔ではなく足元を見た。

長いまつ毛が静かに下がり、右足の置き方を確かめる。


「もう歩いても平気なの?」


「平気よ」


「本当に?」


「健康が取り柄だもの」


星揺は胸を張り、鈴花の前を数歩歩いてみせた。

鈴花の視線が、その足運びを追う。


「やはり、まだ少し右足を庇っているわ」


「鈴花まで同じことを言うのね」


「同じように見えるからでしょう」


「痛くはないわ」


「痛くなくても、無理はしない方がいいわよ」


鈴花は黒い外衣を包んだ布へ目を向けた。


「今日は、それをお返しするのでしょう?」


「ええ」


「叔母上から、星揺を一人で行かせないようにと言われたわ」


星揺は僅かに肩を落とした。


「こんなに大人しくしていたのに」


「夜宴で叔母上の目を盗み、一人でいなくなったことは、いくら日が経っても消えないと思う」


「少し姉上の様子を見ようとしただけよ」


「その少しで、酒を浴びせられて、足まで捻ったでしょう?」


「それは、そうだけど…」



言い返せない。

星揺は唇を尖らせ、黒い外衣の包みを両手で抱えた。


「分かったわ。鈴花と一緒に行く」


「初めから、そのつもりで来たのだけれど」


鈴花のまつ毛が柔らかく伏せられ、目元へ小さな笑みが浮かんだ。


     ◇◇


龍国公府へ向かう馬車は、広い道を進んでいた。

晴れた空には薄い雲が浮かび、春の陽が屋根や石壁を明るく照らしている。


通りでは、色とりどりの布を吊るした店が風を受けて揺れていた。


籠いっぱいの青菜を運ぶ男。

焼いた小麦の薄餅を並べる女。

花を束ねながら客を呼ぶ娘。


馬車の窓を少し開けると、人々の声と共に、焼いた小麦や甘い果実の香りが入ってくる。

星揺は黒い外衣の包みを膝へ置き、その上へ両手を重ねていた。


馬車が大通りを離れる。


人々の声が遠ざかり、道の両側へ高い木々と黒い塀が続くようになる。

やがて、黒瓦を幾重にも重ねた門が見えてきた。

龍国公府だった。


     ◇◇


龍家の屋敷には、外の明るさから切り離されたような静かな影が満ちていた。

門前から建物へ続く道には、黒に近い濃紺の布を張った天幕が設けられている。

陽の光が一筋も肌へ触れぬよう、布と深い軒が途切れることなく連なっていた。


馬車が天幕の下へ入る。

扉が開くと、外よりも冷たい空気が頬へ触れた。

星揺は包みを抱え、ゆっくりと馬車を降りる。

右足を地面へ下ろした時だけ、ほんの僅かに動きが慎重になった。


それを、石段の前へ立つ青年の目は見逃さなかった。

深い影の下。

雪のように白い髪を持つ、龍岳リュウ・ガクが立っていた。

今日は日除けの笠を被り、広いつばの下から白髪を肩へ流している。


「お待ちしておりました」


龍岳は二人へ丁寧に頭を下げた。

鈴花も礼を返す。


「先日は、屋敷まで送っていただきありがとうございました」


「暁嵐様のご命令に従ったまででございます」


「それでも、道を丁寧に教えてくださいました」


龍岳の目が、僅かに柔らかくなる。


「次は迷われないでしょう」


「はい。もう大丈夫です」


鈴花が答える。

星揺も隣から口を挟んだ。


「私も道を覚えました」


龍岳の視線が、静かに星揺へ移る。

白いまつ毛が一度伏せられた。


「左様でございますか」


声は穏やかだった。

けれど、信じているようには聞こえない。


星揺が眉を寄せる。


「何ですか、そのお顔は」


「何も申し上げておりません」


「顔が言っています」


「星揺」


鈴花が袖を引いた。


「御衣をお返しに来たのでしょう?」


星揺は口を閉じた。

龍岳は表情を変えず、屋敷の奥を示した。


「こちらへどうぞ」


     ◇◇


二人が通されたのは、中庭へ面した客間だった。


黒く磨かれた柱。

白い石を敷いた床。


格子窓には、陽光を和らげる黒い薄布が何枚も重ねられている。

深い軒の下を、細い水路が流れていた。

澄んだ水の上には白い花びらが浮かび、時折石へ触れて小さく回ってから、再び流れていく。


庭の奥は、黒い天幕に覆われている。

その外側だけには、明るい春の光が満ちていた。

客間の壁へ、一枚の大きな地図が掛けられている。

黄ばんだ紙へ山や川、古い城壁、細い街道が墨で描かれていた。


鈴花は部屋へ入った途端、地図へ目を奪われた。

長いまつ毛がゆっくりと上がり、黒い瞳が川の線を追う。


「これは……今の王都ではありませんね」


その声へ応えるように、奥の回廊から男が姿を現した。


龍暁嵐リュウ・ギョウランだった。

艶のある黒髪を高く結い、王蓮の家系を思わせる深い藍色の衣をまとっている。


「古い地図だ」


暁嵐が言った。


「今とは、川の流れも街道も違う」


鈴花と星揺は声の主に気がつくと、挨拶をした。

鈴花は、挨拶を終えると地図の前へ近づく。

けれど勝手に触れず、少し離れた位置から細部へ目を凝らした。


「この川は、以前はこちら側を流れていたのですね」


暁嵐の眉が、僅かに上がる。


「分かるのか」


「父から聞いたことがあります。昔、大雨が続いて川筋が変わったと」


鈴花は地図へ描かれた道を目で辿る。


「この旧街道は、川が移る前のものですか?」


暁嵐が鈴花の隣へ立った。

指先で、山沿いに描かれた細い線を示す。


「そうだ。昔はこちらが王都へ入る主要な道だった」


「今は使われていないのですか?」


「雨季に崖が崩れる。商人は平地の新しい道へ移った」


「では、この印は宿場でしょうか」


鈴花の指先が、紙へ触れないぎりぎりの位置で止まる。


「そうだ。今は村ごとなくなっている」


「川が遠くなったから?」


暁嵐が鈴花を見る。

ほんの少し、目を細めた。


「よく分かったな」


鈴花の顔が明るくなる。


「水がなければ、人は暮らせませんもの」


そこから二人の会話は、途切れなくなった。


消えた村。

移された橋。

北境へ続く山道。

季節によって姿を変える湿地。


鈴花が疑問を口にすると、暁嵐は短く答えながらも、必要な場所では地図へ線を引くように指を動かした。

暁嵐が説明すれば、鈴花はただ頷くだけではない。


「でも、その道では荷車が通れないのでは?」


「軍馬なら通れる」


「では、軍のための道なのですね」


「もとは薬草を採る者の道だ」


「それを軍が使うようになったのですか?」


「ああ」


普段は口数の少ない暁嵐が、地図の話になると次第に説明を重ねている。

鈴花も、相手の身分へ過度に遠慮せず、自分の考えを述べていた。


二人の間に、甘い空気はない、しかしどちらも地図だけを見ている。

同じものへ興味を持つ者同士の、気楽な親しさが少しずつ生まれていた。


星揺は二人を眺め、目を瞬いた。


「鈴花が、あれほど話すなんて」


誰へ言うでもなく小さく呟く。



「何を見ている」


不意に、背後から低い声がした。


星揺の肩が小さく揺れる。

客間の入口に、龍昊然リュウ・コウゼンが立っていた。


墨色の衣。

黒銀の冠。


長い黒髪は背中へ真っ直ぐ流れ、薄暗い屋敷の中で夜そのもののように艶めいている。

夜宴から久しぶりに見る顔だった。


胸の奥が、意味もなく強く鳴る。

星揺は黒い外衣の包みを抱え直し、姿勢を正した。


「龍国公様」


昊然は客間へ入ると、星揺の顔ではなく、まず足元へ視線を向けた。


「足は」


「もう大丈夫です」


星揺は明るく答えた。

その場で右足を少し動かしてみせる。


「健康が取り柄ですから」


昊然のまつ毛が、静かに伏せられた。

黒い瞳が足首の辺りへ落ちる。

一拍置き、再び星揺の顔へと戻った。


星揺はそれを見て、思い出したように抱えていた包みを前へ差し出した。


「こちらを、お返しに参りました」


包みの布を開く。

丁寧に折り畳まれた、黒い外衣が姿を現した。


「先日は、ありがとうございました」


「もう聞いた」


「ですが、外衣までお借りしましたから」


「返す必要はなかった」


「どうしてですか?」


星揺はすぐに聞き返した。

昊然が一瞬、黙る。


「酒がかかった」


「もう綺麗になりました」


「手間がかかっただろう」


「お借りしたものですから、当然です」


星揺は迷いなく答えた。

昊然は外衣を受け取る。

すぐ傍らには、龍家の使用人が控えていた。

けれど昊然は、外衣を渡さなかった。


自分の腕へ掛けたまま、星揺へ目を向ける。

二人の間に、沈黙が落ちた。

少し離れた場所からは、鈴花と暁嵐の声が聞こえる。


「こちらの山は、昔は越えられたのですか?」


「冬以外ならな」


「今は道が消えているように見えます」


「森へ呑まれた」


彼らの会話だけが、静かな客間へ続いている。

星揺は何かを話さなければと思った。


外衣は返した。

礼も伝えた。

本来なら、それで用事は終わっている。


それなのに。

このまま帰るのが、なぜか少し惜しいような気がした。


昊然も、立ち去る様子を見せない。

黒い外衣を腕へ掛けたまま、星揺を見ている。

その視線が落ち着かなくなり、星揺は一度目を伏せた。


長いまつ毛の影が、頬へ薄く落ちる。

けれど黙っていることにも耐えられず、また昊然を見上げた。


間近で見る昊然の肌は、今日も透けるように白かった。

陽を浴びていない、日焼けなど知らない肌。


星揺は、思ったことをそのまま口にした。


「龍国公様は、本当にお肌が綺麗ですね」


昊然のまつ毛が、僅かに動く。

一度ゆっくり伏せられ、再び上がった。


「何だ、突然」


「少し羨ましいです」


「羨ましい?」


昊然の眉が、ほんの僅かに寄った。

星揺は自分の頬へ片手を当てる。


「私は日に当たると、すぐ頬が赤くなるのです。夏になると、鼻の辺りまで少し色が濃くなりますし」


昊然は何も言わない。

星揺は彼の白い頬を見つめたまま続けた。


「龍国公様のような白い肌は、とても綺麗だと思います」


そこには、憐れみも皮肉もなかった。

ただ美しいと思ったから。

星揺は、それをそのまま言葉にしただけだった。


昊然の黒い瞳が、僅かに揺れる。

龍家の白い肌は、美しさのためにあるものではない。


陽の下へ出られない証だった。

陽光へ触れれば、肌は赤く焼け。

長く浴びれば、火傷となり裂けていく。


白いのではない。

昼の光の中へ立つことを許されていないだけだ。


その時。


庭を覆う黒い薄布が、春の風を受けて大きく膨らんだ。

布と布の間に、細い隙間が生まれる。


そこから差し込んだ一筋の陽光が、客間の縁へ落ちた。


光は、影の中へいる昊然へは届かない。

そのすぐ手前に立つ星揺だけを、柔らかく照らした。

艶やかな黒髪の縁が、淡い金色に透ける。

頬へ春の光が触れ、白玉の簪が、小さく輝いた。


星揺は何も気にしていない。

陽を避けることもなく。

恐れることもなく。

当たり前のように光の中へ立ち、昊然を見上げている。


昊然の黒い瞳へ、やけにその姿が焼きついた。


──眩しい


そう、思った。

陽の光だけではない、光の中で呼吸し、笑い。

自分の思ったことを何一つ恐れず口にする娘が。

昊然には触れられない昼そのもののように、眩しく見えた。


星揺が不思議そうに首を傾ける。

長いまつ毛が一度上下し、黒い瞳が昊然を真っ直ぐに映す。


「どうかなさいましたか?」


昊然は答えなかった。

ただ星揺を、少し長く見つめる。

風が弱まり、膨らんでいた黒い布が元の位置へ戻っていく。


星揺を照らしていた光が、少しずつ細くなった。

それでも昊然の視線は、彼女から離れなかった。


暫くして。

低い声が、静かな客間へ落ちる。


「君は、変わった娘だな」


星揺は目を瞬いた。


「それは、褒めていらっしゃるのですか?」


昊然は答えない。


「悪く仰っているのですか?」


やはり返事はなかった。


けれど。


その黒い瞳は、不思議なほど冷たくは見えなかった。

星揺は昊然を見上げたまま、動けなくなる。

昊然も視線を逸らさない。

何も話していないのに。

ただ目が合っているだけなのに。


星揺の胸が、ゆっくりと強く鳴り始めた。


先ほどまで平気だった頬が、少しずつ熱くなる。

陽に当たったからだろうか。


それとも。

昊然に見つめられているからだろうか。

自分でも分からない。


星揺は先に耐えられなくなり、まつ毛を伏せた。

白砂を敷いた庭へ視線を落とす。


けれど、昊然の視線がまだ自分へ向けられているように感じられ、余計に落ち着かなくなった。


「私は……」


星揺が小さく口を開く。


続く言葉が見つからない。

指先が、衣の袖を僅かに摘む。


「私は、変わっていないと思います」


ようやく出た言葉は、それだけだった。

昊然のまつ毛が、ゆっくりと伏せられる。

口元は変わらない。

けれど黒い瞳の奥へ、ほんの僅かな柔らかさが浮かんだ。


「そうか」


短い返事。


普段と同じ低い声。

それなのに星揺には、少しだけ優しく聞こえた。


     ◇◇


「星揺」


鈴花の声がして、星揺は顔を上げた。

鈴花と暁嵐が、古地図の前から戻ってくる。

鈴花の目元には、満足そうな色が浮かんでいた。


「随分と長く話していたのね」


星揺が言う。


「とても興味深い地図だったの」


「鈴花が地図を好きだとは知らなかったわ」


「地図そのものというより、昔と今で土地がどう変わったのかを見るのが好きなのよ」


暁嵐が口を開く。


「別の写しもある」


鈴花のまつ毛が持ち上がる。


「もっと古いものですか?」


「ああ。王都の外壁が、今より内側にあった頃の地図だ」


「それは拝見してみたいです」


「次に来た時に見ればいい」


暁嵐は、特に深く考えた様子もなく答えた。

鈴花も自然に頷く。


「では、次の機会に」


星揺は二人を見比べる。


「いつの間に、そんなに仲良くなったの?」


鈴花が首を傾げた。


「地図の話をしていただけよ」


「暁嵐様も随分と楽しそうでした」


「そう見えたか?」


暁嵐は少し不思議そうに星揺を見る。

鈴花も同じだった。

暁嵐にとって、自分の知識へ過度に感心するのではなく、疑問や意見を返してくる鈴花は珍しい。


鈴花にとっても、暁嵐は身分を気にせず、知りたいことを話せる相手だった。


     ◇◇


帰りの馬車が、龍国公府の門を離れた。

黒い塀の上を木々の影が流れ、やがて明るい大通りが見えてくる。

鈴花は向かいの席へ座り、先ほど見た古地図の話を続けていた。


「昔の北街道は、今より短かったの。でも雨季になると道が崩れるから、結局は新しい道の方が安全なのですって」


「鈴花」


「何?」


「楽しそうだったわね」


そう言いながら、頬を緩ませる星揺


「えぇ、楽しかったわ」


鈴花は何でもないことのように答える。

それから、星揺の顔をじっと見た。


「星揺こそ、龍国公様と何を話していたの?」


星揺の肩が、僅かに動いた。


「外衣をお返しして、足のことを聞かれただけよ」


「それだけ?」


「それから……」


星揺は窓の外へ顔を向けた。


道沿いの木々へ陽が落ち、若葉が眩しく輝いている。


「変わった娘だと言われた」


「褒められたの?」


「分からないの。聞いても、答えてくださらなかったから」


鈴花は星揺の横顔を見る。

星揺のまつ毛は少し伏せられ、指先は膝の上の衣を無意識に摘んでいた。

頬には、まだ薄い赤みが残っている。


「嫌だった?」


星揺は少し考えた。


「……嫌ではなかったわ」


「そう」


鈴花はそれ以上追及しなかった。


窓の外へ目を戻し、本人に気づかれないよう小さく笑った。

星揺は流れていく景色を見つめていた。

けれど頭へ浮かぶのは、昊然の顔だった。


君は、変わった娘だな。


あの声が、まだ耳へ残っている。


     ◇◇


龍国公府の客間には、再び静けさが戻っていた。


星揺と鈴花が帰ったあと。

昊然は一人、庭へ面した回廊へ立っていた。

腕には、返された黒い外衣が掛けられている。

近くに控えていた使用人が、受け取ろうと一歩進んだ。


「昊然様。御衣をお預かりいたします」


昊然の指が、外衣の端へ触れる。


「必要ない」


「では、衣庫へ――」


「書房へ持っていく」


使用人は僅かに目を瞬いたが、何も尋ねなかった。


「かしこまりました」


深く頭を下げ、静かに離れていく。

昊然は外衣へ目を落とした。

酒の匂いは残っていない。


丁寧に洗われ。

乾かされ。

元の状態へ整えられている。



しかし、黒い布へ触れた指先から、夜宴で抱き上げた身体の軽さが蘇る。


先ほどの声も。


――健康が取り柄ですから。


明るく笑った顔。

自分の白い肌を、羨ましいと言った眼差し。

昊然は庭の外へ視線を向けた。


黒い薄布の向こうには、春の光が満ちている。

自分たち龍家の者には、触れることのできない光。


その中へ星揺は、何の恐れもなく立っていた。

白い肌が美しいのだと。

何も知らず、思ったことをそのまま口にして。


昊然にとって彼女は眩しい。

陽を浴びているからだけではない。


笑い。

怒り。

思ったことを隠さず。

昼の光のように、真っ直ぐ自分へ届いてくる。


君は、変わった娘だな。


自分で口にした言葉が、もう一度胸の内へ蘇る。

昊然は黒い外衣を腕へ掛けたまま、書房へ向かった。


歩き始めてもなお。

光の中で自分を見上げていた星揺の顔は、黒い瞳の奥から消えなかった。

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