十四話 風より早い噂
噂というものは、風よりも速く広がる。
けれど、その噂には奇妙なところがあった。
王都の南にある茶楼。
昼前から客で賑わう二階席で、薄い茶碗を手にした女が、声を潜めて言った。
「夜宴で龍国公様に抱き上げられた娘が、今度は自ら龍国公府へ出向いたそうよ」
向かいに座る女が、驚いたように扇を止める。
「裴家の娘でしょう?」
「ええ。外衣を返すためだったそうだけれど、本当にそれだけかしら」
同じ頃。
王都の西にある絹店でも、よく似た言葉が交わされていた。
「夜宴で龍国公様に抱き上げられた娘が、今度は自ら龍国公府へ出向いたそうです」
店の奥で布を選んでいた令嬢が、僅かに眉を上げる。
「随分と大胆な方ね」
さらに、ある貴族の屋敷の裏門でも。
水を運ぶ下働きの女たちが、まったく同じ言葉を口にした。
夜宴で抱き上げられた娘。
自ら龍国公府へ出向いた。
言葉の順番まで、ほとんど変わらない。
話している者たちは、その不自然さに気づかない。
誰から聞いたのかと尋ねられれば、皆、誰かから聞いたと答える。
けれど、その最初の一人を知る者は、どこにもいなかった。
◇◇
龍国公府の書房には、午前の静かな光が落ちていた。
格子窓の外には幾重にも黒い薄布が掛けられ、春の陽を柔らかな灰色へ変えている。
卓上には軍から届いた報告書と、王都の地図が広げられていた。
龍昊然は、墨色の衣の袖を卓へ置き、一通の書状へ目を通していた。
その少し後ろ。
龍景雲が、細く折り畳まれた紙を手に立っている。
「南の茶楼が三軒。西の絹店が二軒。さらに、官吏の家の使用人たちの間でも、同じ話が広がっております」
昊然は書状から目を上げなかった。
「内容は」
景雲は手元の紙へ一度視線を落とす。
「夜宴で昊然様に抱き上げられた裴星揺様が、自ら龍国公府へ御衣を返しに訪れた」
少し間を置く。
「そのため、裴星揺様が以前から昊然様へ近づく機会を窺っていたのではないか――と」
書房の中へ、紙をめくる音だけが落ちた。
昊然の表情は変わらない。
けれど、報告書を押さえていた指先だけが、僅かに止まった。
「誰が流した」
「調べております。ただ、不自然な点がございます」
「言え」
「出どころが異なるにもかかわらず、皆、ほぼ同じ言葉を使っております」
景雲は紙を卓上へ置いた。
「自然に広がった噂ではございません」
昊然の黒い瞳が、ようやく紙へ向けられる。
記された文言を一度読む。
夜宴で龍国公に抱き上げられた娘。
自ら龍国公府へ出向いた。
まるで星揺が、初めから昊然へ近づこうとしていたかのような書き方だった。
「あの娘は、足を負傷していた」
低い声が落ちる。
景雲が僅かに目を細めた。
「はい」
「外衣を返しに来ただけだ」
「私も、そのように理解しております」
昊然は紙から目を離した。
視線が、書房の隅へ置かれた衣箱へ向かう。
蓋の上には、星揺が返した黒い外衣が畳まれていた。
衣庫へ戻させず、自ら書房へ持ってきたものだった。
「裴家にも届いているか」
「恐らくは」
返事を聞いた瞬間。
昊然のまつ毛が、僅かに伏せられた。
星揺が噂を聞けば、怒るだろう。
自分が悪く言われたことより、事実を捻じ曲げられたことへ腹を立てる。
そしておそらく。
自分の名前まで巻き込まれたことを、気にする。
そう思った自分へ気づき、昊然の眉間へ僅かな影が落ちた。
「引き続き調べろ」
「承知いたしました」
「噂を消そうと、表立って動くな」
景雲が顔を上げる。
「動けば、裴星揺様との関係を認めたように見える可能性がございますね」
「ああ」
「では、裴家へは?」
昊然は一瞬だけ黙った。
直接使いを出せば、それも新たな噂になる。
会いに行くことは、さらにできない。
「何もするな」
短く告げる。
その言葉とは反対に、昊然の指は卓上の紙を僅かに強く押さえていた。
景雲はそれを見たが、何も言わなかった。
◇◇
その日の午後。
裴家の居間には、いつもより重い空気が満ちていた。
裴景明は、卓上へ置かれた紙を睨んでいた。
「誰がこのような話を」
「分かっていれば、すでに呼び出しています」
叔母が静かに答える。
声音は落ち着いているが、茶碗を持つ指先には僅かに力が入っていた。
裴春華は、隣に座る星揺の顔を心配そうに見ている。
陸鈴花も、いつもの穏やかな表情を消し、噂の内容が書かれた紙へ目を落としていた。
星揺だけは、暫く何も言わなかった。
やがて、ゆっくり顔を上げる。
「龍国公様まで、私と一緒に笑いものにされているの?」
景明の眉が動いた。
「まず自分の心配をしろ」
「私のことだけなら、勝手に言わせておけばいいわ」
「よくない」
景明はきっぱり言った。
「未婚の娘の評判だぞ」
「でも、龍国公様は何も悪くないでしょう?」
星揺の声が少し強くなる。
「私が転んで、歩けなかったから助けてくださっただけよ。外衣も、酒をかけられたから貸してくださったのに」
春華が星揺の袖へそっと触れた。
「分かっているわ」
「分かっていない人が、勝手なことを言っているのよ」
星揺の頬へ、怒りで僅かな赤みが差す。
けれど次の瞬間。
まつ毛が少し伏せられた。
「龍国公様も、この噂を聞かれたかしら」
その声は、先ほどより小さかった。
叔母が星揺を見る。
「聞いている可能性は高いでしょうね」
「では……」
星揺の指先が、膝の上の衣を摘んだ。
龍国公府で言われた言葉が蘇る。
――君は、変わった娘だな。
あの時は、悪い意味ではないように思えた。
けれど、この噂を聞いたあとでも、昊然は同じように思うだろうか。
自分を助けたことで面倒なことになったと、後悔してはいないだろうか。
星揺の胸へ、これまで感じたことのない落ち着かなさが広がる。
「星揺」
春華が静かに呼ぶ。
「龍国公様は、噂だけで人を判断なさる方ではないでしょう?」
星揺は顔を上げた。
「……そうね」
答えながらも、心の中に生まれた小さな不安は消えなかった。
その時。
部屋の外から、家令の声がした。
「失礼いたします。王宮より、昭華公主殿下のお使いがお見えでございます」
一同が顔を見合わせる。
ほどなくして、薄桃色の封書が運ばれてきた。
叔母が受け取り、封を開く。
中には、数日前から予定されていた春花の観賞会について書かれていた。
王宮の西苑で開かれる、小さな集まり。
招かれているのは、星揺と鈴花。
叔母は書状を読み終え、僅かに眉を寄せた。
「このような時に、王宮へ行かせるべきかしら」
「行った方がいい」
低い声が、入口から聞こえた。
一同が振り返る。
裴将軍が、軍装のまま部屋へ入ってきた。
王宮から戻ったばかりなのだろう。
肩にはまだ外の冷たい空気が残り、濃い衣の裾には僅かな土埃がついている。
「父上」
星揺が立ち上がる。
裴将軍は娘の顔を一度見たあと、叔母の手にある書状へ視線を向けた。
「招きを断れば、噂を気にして隠れたと思われる」
「ですが」
叔母が言いかける。
「王宮には、公主殿下も太子殿下もおられる。下手な真似をする者はいない」
裴将軍は星揺を見る。
「普段どおりにしてこい」
星揺のまつ毛が、一度大きく瞬いた。
「よろしいのですか?」
「お前が何も悪いことをしていないのなら、俯く必要はない」
「はい」
星揺は真っ直ぐ頷いた。
裴将軍は続けて鈴花を見る。
「鈴花。星揺を頼む」
「はい、叔父上」
「なぜ私が、頼まれる側ではないの?」
星揺が不満そうに言う。
景明がすぐに答えた。
「日頃の行いだ」
「兄上は黙っていて」
重かった部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
けれど星揺の胸には、まだ一つの思いが残っていた。
王宮へ行けば。
昊然に会えるかもしれない。
そう考えた瞬間、胸が僅かに鳴った。
会って、何を話したいのかは分からない。
ただ。
噂を迷惑に思っていないか。
それだけは、確かめたかった。
◇◇
翌日。
王宮の西苑には、白い杏の花が咲き満ちていた。
枝いっぱいに開いた花は、風に揺れるたび細かな花びらを落とす。
朱塗りの回廊。
澄んだ池。
水面を渡る風には、花の甘い香りが含まれていた。
池に面した水亭には、昭華公主が用意した茶と菓子が並んでいる。
蕭昭華は、淡い藤色の衣をまとい、欄干の近くへ立っていた。
星揺と鈴花の姿を見つけると、顔を明るくする。
「遅かったわね」
「今日は、兄上と昊然が王宮へ来ているそうよ。景雲も一緒でしょうけれど」
昭華は何でもないことのように答えた。
それから、ほんの一瞬だけ回廊の向こうへ目を向ける。
誰かを探すような視線。
鈴花はそれに気づいたが、何も言わなかった。
三人が席へ着いて間もなく。
水亭の外から、明るい男の声が聞こえた。
「今日は、随分と静かな客人だな」
蕭凌川が、数人の侍従を伴って歩いてくる。
深い青の衣。
玉冠の下の顔には、いつもの快活な笑みが浮かんでいた。
星揺と鈴花はすぐに立ち上がり、礼をする。
「太子殿下にご挨拶申し上げます」
「楽にしてよい」
凌川は空いている席へ腰を下ろした。
昭華が露骨に眉を寄せる。
「兄上を呼んだ覚えはないわ」
「庭を歩いていたら、楽しそうな声が聞こえたのでな」
「まだ何も話していなかったわ」
「では、静かな声が聞こえたのだろう」
昭華は納得していない顔をしたが、追い返すことはしなかった。
凌川の視線が、星揺へ向く。
「本当に、今日は静かだな」
星揺のまつ毛が僅かに上がる。
「私も、いつも騒いでいるわけではございません」
「そうだったか?」
「太子殿下まで、そのように思っていらしたのですか?」
星揺の頬が少し膨らむ。
凌川は堪えきれないように笑った。
「その顔を見ると、やはり普段どおりだな」
「からかっていらっしゃいますね」
「少しだけだ」
あっさり認められ、星揺は返す言葉を失う。
凌川の笑みが、さらに深くなる。
周囲の令嬢たちへ向ける儀礼的な微笑ではない。
星揺の反応を、本当に面白がっている顔だった。
「噂を気にしているのか」
突然尋ねられ、星揺の表情が止まった。
昭華も鈴花も、凌川を見る。
「兄上」
昭華が僅かに咎める。
凌川は穏やかなままだった。
「隠しても仕方がない。すでに王宮へも届いている」
星揺は膝の上で指を重ねた。
「……はい。少しだけ」
「お前が、わざと転んだという話か」
「そのようなことをするわけがございません」
星揺はすぐに顔を上げた。
黒い瞳が真っ直ぐ凌川を見る。
「私もそう思う」
あまりにもあっさり答えられ、星揺のまつ毛が瞬く。
凌川は茶碗へ手を伸ばした。
「噂は噂だ。事実ではない」
凌川は星揺を見る。
「お前が俯けば、嘘をついた者が喜ぶだけだろう」
星揺の指先から、僅かに力が抜けた。
「……ありがとうございます」
素直に礼を述べる。
凌川は目元を柔らかくした。
「ただ、自分の評判より先に、昊然の名が傷つくことを気にしてそうだな」
星揺の顔が固まる。
「なぜ、それを」
「顔を見れば分かる」
「顔に、出ていましたか?」
「かなりな」
昭華が横から口を挟む。
「星揺は、思っていることがすぐ顔へ出るもの」
「公主殿下まで」
星揺が困ったように二人を見る。
凌川は楽しそうに笑った。
「自分のことより、昊然の方が心配か?」
「それは……」
星揺の声が止まる。
なぜだろう。
自分が悪く言われることより、昊然が自分のせいで噂されることの方が、ずっと嫌だった。
けれど、その理由をうまく説明できない。
星揺のまつ毛がゆっくり伏せられる。
「龍国公様は、私を助けてくださっただけですから」
ようやく、そう答えた。
その時。
水亭へ続く回廊の向こうから、足音が聞こえた。
黒い日傘が、白い杏の花の間を進んでくる。
傘の下には、墨色の衣をまとった昊然。
半歩後ろには、同じく濃い日除けの傘を差した景雲が付き従っていた。
昊然は、水亭の手前で足を止めた。
黒い瞳が、凌川から星揺へ移る。
今の会話が、どこまで聞こえていたのか分からない。
星揺の胸が、急に強く鳴った。
「龍国公様」
星揺は立ち上がる。
その顔には、先ほどまでの曇りが少し消えていた。
昊然は僅かに頭を下げ、水亭の影の中へ入った。
景雲も続く。
「父上とのお話は終わったの?」
昭華が尋ねる。
「はい」
景雲が答えた。
けれど昭華の視線は、景雲の顔から左肩へ一瞬落ちた。
矢が掠めた場所。
傷などもう残っていないと知っているはずなのに、無意識に確かめてしまう。
景雲はその視線へ気づいた。
目元へ、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。
昭華は見抜かれたような気がして、すぐに茶碗へ手を伸ばした。
一方。
昊然は凌川の横へ立ったまま、星揺を見ていた。
「足は」
また同じことを尋ねる。
星揺は少しだけ目を丸くしたあと、明るく答えた。
「もう大丈夫です」
「まだ走るな」
「走っておりません」
凌川が声を上げて笑う。
「皆、お前が再び何か起こさぬか心配なのだろう」
「私は何も起こしておりません。周りで勝手に起きるのです」
星揺は真面目に言った。
凌川はさらに笑う。
昊然は笑わなかった。
ただ、凌川が星揺を見つめる時間が、少し長いことに気づいた。
凌川の目は、面白いものを見つけた時のものだった。
星揺が何を言うのか。
次にどのような顔をするのか。
それを楽しみにしている。
昊然の黒いまつ毛が、僅かに伏せられる。
手にしていた日傘の柄へ、指が静かに添えられた。
景雲が、昊然の横から小声で言う。
「先ほどの件ですが」
返事はない。
「昊然様」
「何だ」
景雲の視線が、昊然から凌川と星揺へ移る。
星揺は、凌川の言葉に何か言い返している。
凌川は楽しそうに笑っていた。
景雲は口元を緩めそうになり、僅かに顔を伏せた。
「何がおかしい」
「いいえ」
「笑っただろう」
「お気のせいでございます」
少し離れたところで、昭華がその言葉へ反応した。
「景雲。あなた、またその言葉を使ったわね」
景雲が公主へ顔を向ける。
「何のことでございましょう」
「都合が悪くなると、すぐにお気のせいだと言うでしょう」
「そのようなことはございません」
「今も言っているではない」
昭華は不満そうに眉を寄せた。
景雲は穏やかに微笑む。
その笑顔を見た瞬間。
昭華の胸が、僅かに鳴った。
矢から助けられた時。
自分の無事を確認し、安堵したように目を細めた顔。
あの時と、少し似ている。
昭華はなぜか景雲の目を見続けられず、庭へ視線を逃した。
その先には、王宮の兵たちが使う小さな弓場が見えた。
数人の若い近衛兵が、射形を整えている。
一人の兵が弓を引いたが、肘の位置が低い。
景雲もそれに気づいたらしい。
「少し失礼いたします」
一礼して、水亭の外へ出る。
日除けの傘を差したまま弓場の端へ向かい、若い兵へ短く声をかけた。
腕へ直接触れず、弓を持つ位置と肩の向きを示す。
兵がもう一度矢を放つ。
今度は、先ほどより中心に近い場所へ刺さった。
昭華は、その様子をじっと見ていた。
普段の景雲は、昊然の半歩後ろへ控えている。
けれど誰かへ何かを教える時は、穏やかでありながら迷いがない。
昭華のまつ毛が、僅かに持ち上がった。
景雲が戻ってくる。
「景雲」
「はい」
「明日、私の所へ来なさい」
突然の命令に、景雲が目を瞬く。
「何かご用でございましょうか」
昭華は弓場へ視線を向けた。
「私にも、弓を教えなさい」
水亭にいた者たちが、昭華を見る。
凌川が眉を上げた。
「急にどうした」
「あの日、私は何もできなかったもの」
昭華の指先が、茶碗の縁へ触れる。
矢が飛んできた時。
身体が動かなかった。
景雲が庇わなければ、自分はどうなっていたか分からない。
「次は、自分の身くらい守れるようになりたいわ」
景雲の表情から、笑みが少し消えた。
昭華が単なる思いつきで言っているのではないと分かったのだろう。
「弓は、すぐに扱えるものではございません」
「なら、扱えるようになるまで教えなさい」
「稽古には、お怪我の危険もございます」
「怪我をしないように教えるのが、あなたの役目でしょう?」
昭華は当然のように言う。
景雲は暫く公主を見つめた。
昭華も視線を逸らさない。
やがて、景雲のまつ毛が静かに伏せられる。
「承知いたしました」
昭華の顔が明るくなった。
「明日の朝よ。遅れないで」
「お約束の刻限より早く参ります」
「私が待ったら、遅刻ですからね」
景雲の口元へ、僅かな笑みが戻る。
「心得ております」
二人のやり取りを、鈴花は静かに見ていた。
昭華は、以前のように昊然の袖を引こうとはしていない。
昊然がすぐ近くにいるのに。
今は景雲の返事を聞いたことの方が、嬉しいように見えた。
◇◇
茶会が終わり、星揺たちが帰る時刻となった。
回廊の外には、まだ明るい春の陽が満ちている。
星揺と鈴花は、女官の案内を待っていた。
凌川が星揺の前へ立つ。
「次に王宮へ来た時は、もう少し静かではない方がよいな」
「太子殿下は、私を何だと思っていらっしゃるのですか?」
「話していて退屈しない娘だと思っている」
あまりにも率直に言われ、星揺の目が丸くなる。
凌川は笑った。
「また来るとよい」
「昭華公主がお招きくだされば」
「私が呼んでもよいだろう」
星揺が答える前に。
低い声が、二人の間へ落ちた。
「殿下」
昊然だった。
黒い日傘の下から、凌川を静かに見ている。
「陛下の執務室へ、戻られるのでは」
凌川は空を見上げた。
「まだ刻限には早いが」
「早く戻って困ることはないでしょう」
「私を追い払いたいように聞こえるな」
「お気のせいです」
景雲が、少し離れたところで顔を伏せた。
先ほど自分が使った言葉を、昊然まで使っている。
凌川は昊然を暫く見たあと、面白そうに口元を上げた。
「そういうことにしておこう」
そして星揺へ向き直る。
「では、またな」
「はい。太子殿下」
星揺は素直に頭を下げた。
凌川が回廊の奥へ去る。
その背中を見送ったあと、星揺は昊然へ顔を向けた。
「龍国公様」
昊然の視線が星揺へ戻る。
「何だ」
星揺は少し迷った。
本当は、噂のことを尋ねたい。
自分が屋敷を訪れたことで迷惑をかけたか。
助けたことを後悔していないか。
けれど周囲には、昭華や鈴花、景雲、女官たちがいる。
簡単に口にできる話ではなかった。
星揺のまつ毛が、僅かに伏せられる。
「……何でもありません」
昊然は何も言わなかった。
けれど、すぐに立ち去りもしなかった。
暫く星揺を見たあと。
「噂は気にするな」
星揺が顔を上げる。
昊然の表情は、いつもと変わらない。
「私は、迷惑だとは思っていない」
胸の奥で、何かがほどけた。
星揺は目を瞬き、昊然を見つめる。
聞きたかった言葉を、何も尋ねていないのに先に告げられた。
「……はい」
小さく答える。
頬へ、自然に笑みが浮かんだ。
昊然はその笑顔を見た。
先ほど凌川へ向けていたものとは違う。
自分の言葉を聞いたから生まれた笑顔。
胸の内にあった落ち着かなさが、僅かに薄れる。
それがなぜなのか。
昊然はまだ、考えようとはしなかった。
◇◇
同じ日の夕刻。
王都の西にある人通りの少ない路地へ、一台の馬車が止まっていた。
龍清遠は、薄暗い車内へ座っている。
向かいには、龍玄烈の配下の男がいた。
窓には厚い布が掛けられ、外から中の様子は見えない。
「裴春華との関係は」
男が尋ねる。
「信頼を得つつあります」
清遠は静かに答えた。
「次に会う約束は」
「詩集の続きをお貸しすることになっております」
「貸す?」
男の眉が動く。
「贈らないのか」
「高価な品を贈れば、警戒されます」
清遠の返事に迷いはない。
少なくとも、そう聞こえた。
「なるほど」
男は背もたれへ身体を預ける。
「では、裴家の内情を探れ。特に裴星揺と当主の関係だ」
清遠の指先が、衣の下で僅かに動いた。
「承知しております」
「情を移すなよ」
男の声が低くなる。
「お前は、あの娘を愛するために近づいたのではない」
清遠の脳裏に、青磁色の衣をまとった春華の姿が浮かんだ。
白い花の刺繍へ触れながら、嬉しそうに微笑んだ顔。
詩集の続きを楽しみにしていると告げた声。
清遠は目を伏せる。
「分かっております」
答えた声は、車内の闇へ静かに消えた。
◇◇
夜。
龍家の古い屋敷の地下には、灯火の少ない書庫があった。
石壁。
重い木の棚。
空気には、古い紙と乾いた薬草の匂いが染みついている。
龍玄烈は、一人、長い卓の前へ立っていた。
卓上には、古びた巻物が開かれている。
色の褪せた文字。
人間の女を愛した龍。
その間に生まれた、半吸血鬼の子。
母の血を吸い。
母を死なせ。
災いをもたらしたと記された、古い悲劇。
巻物の最後には、龍と人間の結びつきを禁じる言葉が残されていた。
背後で、配下の男が頭を下げている。
「噂は、王宮へも届きました」
「当主は」
「表立っては動いておりません。ただ、裴家へ噂が届いているかを気にした様子でございました」
玄烈の指が、巻物の一文をゆっくりとなぞる。
「太子殿下も、裴星揺へ興味を持っているようです」
その報告に、玄烈の口元が僅かに上がった。
「そうか」
「裴家の娘を、当主から遠ざけますか」
配下が尋ねる。
玄烈は静かに首を横へ振った。
「逆だ」
「逆、とは」
「離すな」
玄烈は巻物から目を上げた。
灯火が揺れ、細められた瞳へ暗い光が宿る。
「太子が近づけば、昊然は自分の感情へ気づく」
「ですが、当主が身を引く可能性も」
「それならば、それまでの男だったということだ」
玄烈は薄く笑った。
「だが、あの男はすでに動いている」
夜宴で娘を抱き上げた。
自らの外衣を与えた。
噂が広がれば、娘の家へ届いたかを気にした。
まだ小さな変化。
けれど、糸はすでに指へ絡み始めている。
「裴星揺を傷つけすぎるな」
玄烈が告げる。
配下が意外そうに顔を上げる。
「守るのでございますか」
「違う」
玄烈の指が、巻物に記された禁の文字を押さえる。
「弱点は、壊しては使えぬ」
書庫の灯火が、風もないのに僅かに揺れた。
「もっと近づけろ」
低い声が、石壁へ静かに響く。
「当主自身に選ばせるのだ」
玄烈の目に、冷たい笑みが浮かぶ。
「龍家の掟よりも、人間の娘を」




