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十五話 弓が結ぶ距離




王宮の西苑には、薄い朝靄が残っていた。


露を含んだ草が淡く光り、庭の奥に設けられた弓場には、龍家の者が陽を浴びずに済むよう濃い藍色の天幕が張られている。


蕭昭華ショウ・ショウカは、その影の下で弓場の入口を見つめていた。


今日は華やかな宮装ではなく、薄紅色の騎装をまとっている。黒髪も高く結い、揺れる簪の代わりに細い金の紐だけを使っていた。


「公主殿下。まだ刻限には半刻ほどございます」


侍女が告げる。


「分かっているわ」


昭華は素っ気なく答えた。


「別に待っているわけではないもの」


その時、朱塗りの回廊から足音が近づいた。

濃い日除けの傘の下に、龍景雲リュウ・ケイウンの姿が現れる。

今日は袖の細い濃紺の騎装をまとい、黒髪を普段より高い位置で束ねていた。

天幕の影へ入ると、景雲は傘を閉じ、昭華へ頭を下げる。


「お待たせいたしました」


昭華は空を見上げた。


「遅いわ」


「お約束より半刻ほど早く参りましたが」


「私の方が先に来ていたのだから、遅いのよ」


景雲のまつ毛が一度瞬き、口元が僅かに緩んだ。


「少し笑っているでしょう?」


「いいえ」


「絶対に笑ったわ」


景雲は答えず、弓架から最も軽い弓を選んだ。


「まずはこちらをお使いください」


昭華は受け取った弓を片手で持ち上げようとしたが、思った以上の重さに手首が下がる。


景雲の視線が、その動きを追った。


「両手でお持ちください」


「分かっているわ」


昭華はすぐに持ち直した。

景雲は足の開き方から、矢の番え方、弦へ掛ける指の位置まで一つずつ教えていく。


「肩へ力を入れすぎないように」


「入れていないわ」


「入っております」


「見ただけで分かるの?」


「分かります」


昭華は不満そうに眉を寄せながらも、言われたとおり弓を構えた。


一射目。


矢は的へ届く前に、朝露を含んだ土へ突き刺さった。

弓場へ短い沈黙が落ちる。


昭華は地面の矢を見つめた。


「……誰にも言っては駄目よ」


「承知いたしました」


「今、笑わなかった?」


「笑っておりません」


景雲の顔には、いつもの穏やかな表情しかない。

けれど黒い瞳の奥には、僅かな柔らかさが浮かんでいた。


昭華は新しい矢へ手を伸ばす。


「もう一度よ」


二射目も外れた。

三射目は的の手前。

四射目で、ようやく矢が的の下端を掠めた。


乾いた音が響く。

昭華の顔が明るくなった。


「今、当たったわね?」


「端へ触れました」


「当たったのでしょう?」


「はい」


昭華は嬉しそうに次の矢を取ろうとしたが、景雲がその手を止めた。


「少しお休みください」


「まだ疲れていないわ」


「右腕が震えております」


昭華は自分の腕を見た。

確かに、弓を持ち上げようとすると僅かに震えている。


「これくらい平気よ」


「弓は逃げません」


景雲は昭華から弓を受け取り、台へ置いた。


「休んだあと、最後にもう一射だけにいたしましょう」


「では、明後日も教えなさい」


「まだ本日の稽古も終わっておりませんが」


「一日で覚えられないと言ったのは、あなたでしょう?」


景雲は一瞬黙り、やがて静かに頭を下げた。


「承知いたしました」


昭華の口元へ、満足そうな笑みが浮かんだ。


     ◇◇


休憩のあと。

昭華は再び射位へ立った。

景雲が横から姿勢を確認する。


「右肩を、もう少し下げてください」


「こう?」


「もう少し」


景雲の指先が、昭華の肘へ薄い騎装越しに触れた。

昭華の身体が小さく強張る。

以前、景雲の傷を確かめようとして、手首を掴まれた時のことが蘇った。


景雲の手も、ほんの一瞬止まる。


「力を抜いてください」


すぐ近くから、低い声が聞こえた。


「あなたが急に近づくからでしょう」


口にしてから、昭華は黙った。

景雲が一歩離れようとする。


「離れろとは言っていないわ」


昭華は的を見たまま続ける。


「きちんと教えなさい」


声は強いままだったが、耳には僅かな赤みが差していた。

景雲は再び肘の位置を整えた。


「視線は矢ではなく、的へ」


昭華が息を整える。


「放ってください」


矢が空気を裂き、的の外側の輪へ突き刺さった。

昭華は目を見開いた。


「当たったわ!」


振り返った顔には、隠しきれない喜びが広がっている。


「見た?」


「はい」


「それだけ?」


景雲は的を一度見たあと、昭華へ目を戻した。


「初日とは思えぬほど、よい一射でございました」


昭華のまつ毛が嬉しそうに持ち上がる。


「当然よ」


口ではそう言いながら、笑みは消えない。

景雲も、つられるように目元を柔らかくした。

昭華はその笑顔を見つめた。

普段の、誰にでも向ける穏やかなものとは少し違う気がした。


「どうかなさいましたか」


「何でもないわ」


昭華は慌てて的へ顔を戻した。


「もう終わりよ」


「承知いたしました」


景雲の返事には、僅かに笑いが混ざっていた。


     ◇◇


それから二日後。


王家の弓場では、太子が若い武官たちの稽古を見るため、小さな射会が開かれていた。

春の風に家紋を染めた旗がはためき、王族席の隣には龍家のための濃い日除けが設けられている。


蕭凌川ショウ・リョウセンは射場を眺め、その後ろには黒い日傘を差した龍昊然リュウ・コウゼンと景雲が控えていた。


やがて一台の馬車が到着する。


降りてきたのは、裴景明ハイ・ケイメイ裴星揺ハイ・セイヨウ陸鈴花リク・リンカだった。

星揺は淡い杏色の騎装をまとい、黒髪を高く結っている。

春の光を受けた髪の縁が柔らかく透けた。


昊然の視線が、自然にそこへ向く。

星揺は太子へ礼をしたあと、昭華が手にする弓へ気づいた。


「公主殿下も射られるのですか?」


「景雲に教えさせたの」


昭華は得意そうに答えた、射位へ立ち、矢を番える。

弦が鳴り、矢は的の外側へ刺さった。

星揺と鈴花が拍手をする。

昭華が最初に見たのは、日除けの下に立つ景雲だった。


景雲が穏やかに頷く。

それだけで、昭華の顔がさらに明るくなった。

凌川は二人を見比べたが、何も言わず口元だけを僅かに上げた。


     ◇◇


若い武官たちの稽古が一段落すると、凌川が星揺へ顔を向けた。


「お前は射ないのか?」


「私ですか?」


「将軍の娘だろう」


星揺は景明を見る、景明が短く頷いた。


「多少は扱えます」


星揺は弓を受け取り、射位へ立った。


普段の明るい表情が消え、黒い瞳が真剣に的を捉える。


一射目。


矢は的の下方へ刺さった。


外してはいないが、星揺は不満そうに眉を寄せた。


「左腕が少し下がったな」


凌川が近づく。


「その弓は、お前には少し重い」


別の弓へ手を伸ばした時。


「殿下」


昊然の声が落ちた。

黒い日傘の下から、昊然が影の続く場所だけを選び、射位へ近づいてくる。


弓架から少し短い弓を取り、星揺へ差し出した。


「こちらを使え」


星揺は目を瞬いた。


「私に?」


「ほかに誰がいる」


星揺は弓を受け取る。

先ほどより軽く、手へ自然に馴染んだ。


凌川が昊然を見る。


「私も同じことを言おうとしていたのだが」


昊然は答えず、星揺へ目を向けた。


「左肩を下げるな」


「はい」


「弦を強く握りすぎている」


星揺は素直に指の力を緩める。


「的の中心より、少し上を見ろ」


「なぜですか?」


「放つ時に腕が下がる」


星揺の眉が僅かに上がった。


「一度見ただけで分かるのですか?」


「見れば分かる」


星揺は言われたとおり、視線を少し上へ移した。


矢を番え。

弦を引き。

指を離す。


矢は、先ほどより中央に近い場所へ刺さった。


「当たったわ」


星揺の顔が明るくなる。

凌川が笑う。


「先ほども当たっていただろう」


「今の方が中心に近いです」


星揺は昊然を見る。


「龍国公様のおかげです」


真っ直ぐ向けられた笑顔に、昊然のまつ毛が僅かに動いた。


「弓が合っていただけだ」


そう答えながら、日傘を握る指から力が抜けていく。

凌川は二人を見比べた。


「私が教える時より、随分素直だな」


「太子殿下は、教える前にからかわれますから」


星揺が答える。

凌川は声を上げて笑った。

星揺もつられて笑う。


その様子を見た昊然の胸へ、形の分からない小さな棘が刺さった。

凌川が星揺を見る時間は、ほかの令嬢へ向けるものより長い。


彼女が何を言うのか。

どのような顔をするのか。

それを楽しみにしている目だった。


「次は、私が見よう」


凌川が星揺の隣へ立つ。


「少し遠い的を狙ってみろ」


その距離が、昊然には妙に近く見えた。


「殿下」


再び低い声が落ち、凌川が振り返った。


「今度は何だ?」


「先ほど陛下がお呼びでした」



凌川は昊然を暫く見たあと、面白そうに目を細めた。


「なぜ、今言う?」


「伝え忘れていました」


「そうか」


凌川はそれ以上追及せず、星揺へ顔を戻した。


「この一射だけ見てから行こう」


昊然は答えなかった。


     ◇◇


射会が終わる頃。


昭華は、景雲の近くへ歩いてきた。


「今日の一射は、昨日よりよかったでしょう?」


「はい。姿勢も安定しておりました」


昭華の顔が明るくなる。


「ですが、最後は少し右肩が上がっておりました」


「褒めたあとに、必ず何か言わなければ気が済まないの?」


「次へつなげるためでございます」


「もう少し余韻を持たせなさい」


景雲は小さく笑った。

昭華の視線が、その口元へ吸い寄せられる。


「次はいつ?」


「腕の痛みがなければ、明後日にでも」


「では、明後日ね」


「ご予定を確認なさらなくても?」


「空けさせるわ」


当然のように答えたあと、昭華は僅かに目を逸らした。

景雲のまつ毛が一度伏せられる。


「承知いたしました」


その声を聞いた昭華の口元に、本人も気づかない笑みが浮かんだ。


     ◇◇


裴家の馬車が弓場を離れていく。


「今日は、よく当てていたわね」


鈴花が言う。


「弓がよかったのよ」


「龍国公様が選んでくださった弓でしょう?」


「ええ」


「嬉しそうね」


星揺が鈴花を見る。


「矢が当たったからよ」


鈴花は星揺の横顔を眺めた。


頬には、まだ僅かな赤みが残っている。


「そういうことにしておくわ」


「何よ、その言い方」


星揺は眉を寄せた。


けれど窓の外へ顔を戻したあとも、口元の小さな笑みは消えなかった。

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