十六話 白い花の栞
春の午後。
王都の東にある古い書肆は、賑やかな大通りから一本奥へ入った、細い石畳の道に面していた。
黒ずんだ木の看板には、年月を経て色褪せた金文字が残っている。
入口の両脇には青竹を編んだ簾が下げられ、春の陽を柔らかく遮っていた。
戸が開くたび、小さな鈴が鳴る。
店内には、古い紙と墨、乾いた木の香りが静かに満ちていた。
壁際には天井近くまで届く書棚が並び、色褪せた布で包まれた古書や、細い糸で綴じられた詩集が隙間なく収められている。
棚と棚の間は、人が二人並べば袖が触れそうなほど狭い。
裴春華は、入口の内側で一度足を止めた。
今日は淡い藤鼠色の衣をまとっている。
春霞を薄く溶かしたような、紫とも灰色ともつかない柔らかな色。
襟と袖口には生成り色の布が重ねられ、近くで見なければ気づかないほど細い葉模様が銀糸で縫われていた。
少し後ろには、裴家の侍女が控えている。
人目のある書肆で会うこと。
侍女を伴うこと。
それを条件に、叔母から外出を許されていた。
「お嬢様」
侍女が小さく呼ぶ。
春華は胸元で重ねていた指を解いた。
「参りましょう」
静かに息を整え、店の奥へ歩き出した。
◇◇
龍清遠は、奥の卓の前に立っていた。
淡い灰青色の衣。
袖や襟に目立つ刺繍はなく、腰へ下げた白玉の飾りも小さい。
それでも上質な布と隙のない着こなしから、身分の低くない者だと分かる。
長い黒髪は、白銀の冠で端正に束ねられていた。
書肆の入口近くには、閉じられた濃い日傘が立てかけられていた。
清遠は春華の姿へ気づくと、ほんの僅かに目を細めた。
視線が藤鼠色の衣へ落ちる。
だが、見つめ続けることはせず、すぐに丁寧な礼を取った。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お知らせをくださりありがとうございました」
春華も静かに頭を下げる。
顔を上げると、二人の視線が重なった。
清遠の黒い瞳が、もう一度だけ春華の衣へ向けられる。
「本日の御衣も、よくお似合いです」
春華のまつ毛が、小さく震えた。
以前の青磁色の衣は、清遠が選んだものだった。
けれど今日の衣は、春華自身が昔から好んで身につけているものだ。
それを清遠が目に留めたことが、なぜか嬉しかった。
「ありがとうございます」
春華は僅かに頬を染め、袖口へ指を添えた。
「書肆へ伺うので、あまり華やかではないものをと思いまして」
「落ち着いた色が、お似合いになるのでしょう」
清遠の声には、取り繕った響きがなかった。
春華は返す言葉を探したが、うまく見つからない。
清遠は困らせないようにするかのように、卓上へ視線を移した。
そこには、深い藍色の表紙を持つ一冊の詩集が置かれている。
「以前お選びになった詩集の続巻です」
春華の顔が明るくなった。
「本当に見つかったのですね」
「王都の収集家が所蔵しておりました。暫くお借りすることができましたので」
「わざわざ探してくださったのですか?」
「約束いたしましたから」
短い言葉だった。
けれど春華は、その言葉を大切に受け取るように、ゆっくり頷いた。
◇◇
詩集を受け取ろうとした時。
春華の視線が、隣の書棚へ止まった。
棚の最上段。
古びた書物の間に、以前読んだ詩人と同じ名が記された薄い本が見える。
「あちらも、同じ方の詩集でしょうか」
清遠が春華の視線を追った。
「どちらですか」
「あの、薄い青色の表紙です」
春華は書棚へ近づいた。
少し背を伸ばし、手を上げる。
けれど最上段は高く、指先が本の下端へ僅かに触れるだけだった。
もう少し。
爪先立ちになり、身体を伸ばす。
衣の袖が下がり、白い手首が覗いた。
髪へ挿した白玉の簪から、小さな飾りが揺れる。
それでも届かない。
「私が取りましょう」
背後から、清遠の声が聞こえた。
「あと少しで届きそうなのです」
春華はもう一度指を伸ばした。
その時。
清遠が、春華のすぐ後ろへ立った。
肩越しに、長い腕が伸びる。
灰青色の袖が、春華の頬のすぐ横を通った。
近い。
身体は触れていない。
けれど春華が半歩後ろへ下がれば、背中が清遠の胸元へ触れてしまいそうな距離だった。
春華の肩が、僅かに強張る。
清遠の衣から、乾いた木と淡い薬草を混ぜたような、冷たく清潔な香りがした。
頭上で、本が棚から抜かれる。
「こちらでしょうか」
耳に近いところから、低い声が落ちた。
春華の長いまつ毛が大きく瞬く。
「……はい」
声が、普段より小さくなった。
清遠はすぐに一歩離れた。
取った本を春華へ差し出す。
「失礼いたしました」
「いいえ。私の方こそ、無理に取ろうとしてしまって」
春華が表紙へ手を伸ばす。
清遠の指と、春華の指先が同時に触れた。
ほんの僅かな接触。
それでも二人の動きが止まった。
春華の指は温かく。
触れた場所から、胸の奥へ細い震えが伝わる。
春華のまつ毛が静かに伏せられた。
清遠も視線を二人の手へ落とす。
やがて先に手を離したのは、清遠だった。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
春華は本を胸元へ抱いた。
触れた指先だけが、遅れて熱を帯びたように感じられた。
◇◇
二人は、簾から離れた卓へ向かい合って座った。
侍女は少し離れた場所で、店主が広げた書物を眺めている。
清遠が、約束していた続巻を春華の前へ置いた。
春華は藍色の表紙を丁寧に撫で、最初の頁を開く。
その時。
頁の間から、乾いた白い花が一輪落ちた。
卓へ触れるより先に、清遠が片手で受け止める。
白い花は、小さく薄く乾いていた。
外側の花弁には、僅かな欠けが残っている。
春華は息を止めた。
「その花……」
清遠は手のひらへ乗った花を見る。
「南市で拾ったものです」
「やはり、あの日の」
荷車から石畳へ散らばった花。
傷があるため売り物にならないと嘆いていた老人。
春華と清遠が、一緒になって拾った白い花だった。
春華は壊さないよう、そっと指を近づける。
清遠の手のひらから花を取ろうとして、再び指先が触れた。
春華の手が僅かに止まる。
清遠もすぐには動かなかった。
けれど今度も、先に指を引いたのは清遠だった。
春華は乾いた白い花を、両手で大切に包む。
「残していらしたのですね」
「栞にするには、ちょうどよい大きさでしたので」
清遠は淡々と答えた。
本当に、それだけの理由だと言うように。
けれど栞なら、紙でも薄い布でもよかったはずだ。
清遠は、傷ついた一輪を選び、捨てずに持ち帰った。
清遠の黒い瞳が、静かに彼女へ向けられた。
「傷がついても、花は花ですから、と」
春華の目が、僅かに見開かれる。
「覚えていらしたのですね」
「忘れるような言葉ではありませんでした」
低く穏やかな声。
春華は白い花へ視線を落とした。
頬へ差した赤みを隠すように、長いまつ毛が伏せられる。
「私には、特別なことを言ったつもりはなかったのです」
「だからでしょう」
「え?」
春華が顔を上げる。
清遠は、乾いた花を持つ彼女の手を見ていた。
「誰かによく思われるためではなく、本当にそう思っていらした」
黒い瞳が、春華の瞳へ戻る。
「そのような言葉は、忘れにくいものです」
書肆の中へ、静かな時間が流れた。
奥で誰かが頁をめくる音。
表を通り過ぎる馬車の車輪。
遠くから聞こえる、物売りの声。
そのすべてが遠く感じられた。
春華は白い花を傷めないよう、元の頁へそっと戻した。
◇◇
続巻には、遠い故郷を思う旅人の詩が収められていた。
春華は、その一篇へ目を留める。
「美しい景色が書かれているのに、少し寂しく感じます」
「故郷ではないからでしょう」
清遠が答えた。
「どれほど美しい場所でも、帰る場所にはならない」
春華は詩から顔を上げた。
清遠の横顔には、いつもの穏やかさがある。
けれどその言葉の奥へ、遠い場所を見るような陰りが浮かんだ気がした。
「清遠様には、帰りたい場所がおありなのですか?」
清遠のまつ毛が、ほんの僅かに動く。
頁の端へ置かれた指が止まった。
「考えたことがありませんでした」
「では、今は?」
尋ねてから、春華は踏み込みすぎたかもしれないと思った。
「申し訳ございません。お答えになりにくければ――」
「いいえ」
清遠は春華を見る。
「今、初めて考えております」
帰る場所とは、どこなのか。
生まれた龍家か。
玄烈の命令を受ける屋敷か。
それとも。
藤鼠色の衣をまとい、自分の前で詩集を開くこの人のいる場所なのか。
そこまで考え、清遠は静かにまつ毛を伏せた。
まだ、その答えを持ってはいなかった。
◇◇
店の外を通る光が、少しずつ西へ傾いていく。
春華は詩集を閉じた。
「大切にお借りいたします」
「急いでお返しいただく必要はございません」
「読み終えましたら……」
春華の指先が、藍色の表紙の上で止まる。
一度まつ毛を伏せたあと、勇気を出すように顔を上げた。
「また、感想をお話ししてもよろしいですか?」
清遠は、すぐには答えなかった。
任務としてなら。
次に会う理由ができたことへ、満足すればよい。
裴家との接触を続けられる。
信頼も深められる。
それだけのはずだった。
けれど春華自身が、もう一度自分と話したいと望んだことが。
思っていた以上に、清遠の胸を満たしていく。
「もちろんです」
清遠の声が、僅かに柔らかくなる。
「お待ちしております」
春華の顔へ、白い花が綻ぶような笑みが浮かんだ。
清遠は、その笑顔を少し長く見つめた。
◇◇
その夜。
清遠は一人、机へ向かっていた。
小さな灯火が揺れ、白い紙の上へ長い影を落としている。
玄烈へ渡すための報告書。
清遠は筆先を墨へ浸し、簡潔な文字を書き記した。
――裴春華との接触は継続。
――書物の貸借を口実に、次の接触機会を確保した。
それだけだった。
藤鼠色の衣がよく似合っていたこと。
届かない本へ手を伸ばし、爪先立ちになる姿。
指先が触れた時、すぐに手を離したくないと思ったこと。
白い花を見つめる春華の目が、柔らかく揺れたこと。
彼女から、もう一度会いたいと望まれたこと。
どれも、報告には記さない。
清遠は報告書を封じた。
机の隅には、以前春華から届いた礼状が、丁寧に畳まれて置かれている。
その端へ指を触れる。
暫く、動かなかった。
「順調だ」
誰へ聞かせるでもなく呟く。
任務は、何も問題なく進んでいる。
そう言い聞かせるような声だけが、静かな部屋へ残った。




